【第五十四話】森の緑を
森が深く、重い呼吸をした翌朝。
駐屯地を包む空気は、雨も降っていないのにひどく湿り気を帯びていた。
吐く息がわずかに白い。季節外れの冷気と、肌にまとわりつくようなねっとりとした感覚。
駐屯地の端に繋がれた軍馬たちが、しきりに鼻を鳴らして森の方角を嫌がり、落ち着きなく蹄を鳴らしている。
鼻先を森へ向けるたび、魔力に触れたかのように耳を伏せ、怯えたように身を震わせた。
「……風が、昨日より重い」
リアナはテントの前で立ち止まり、手のひらを開いて空気を探るように呟いた。
彼女の肌を撫でるはずの風の魔力が、まるで泥水の中を泳ぐように鈍い。
触れた瞬間、風属性のはずの魔力が、どこか土の濁りを帯びているように感じられた。
人間にはまだ分からない「何か」を、動物や自然界の魔力が先に察知している。
傍らでは、ドレイクが普段より念入りに大盾の留め具を確認している。
無言のまま、ただ周囲の気配を警戒するように。
ガレンは手元の剣を布で拭いながら、暗い森の奥を見つめていた。
刃を滑る布の音が、妙に低く響く。
「侵食は進んでる。だが、急激じゃない。焦るな」
短く告げるガレンの声に、ユアンは頷いた。
昨日の、大地そのものが脈打ような感覚。それを思い返すだけで、無意識に槍の柄を握る手に力が入ってしまう。
駐屯地の端に張られた、ミレイユのテント。
粗末な木机の上には、ここ数日の調査結果が無造作に散乱していた。
地底蜘蛛の硬い甲殻、黒く変色した森の土、そして書き殴られた数枚の羊皮紙。
ミレイユはその一つ一つを指先でなぞり、苛立たしげに小さく息を吐いた。
「……やっぱり、王都の資料が必要ね」
入り口の布を細く開け、ガレンが短い声で問う。
「行くのか」
「ええ。この森の変化は、私の知識だけじゃもう限界。生息域のズレなんて生易しいものじゃないわ」
ミレイユは蜘蛛の甲殻を指先で弾いた。硬く、乾いた音が鳴る。
「もし、この異常が単なる地脈の乱れじゃないとしたら……過去にも同じ現象が起きている可能性がある。今のままでは、私はただ異常を観測しているだけの無力な研究者よ。原因に手を伸ばすには、もっと深い知識と道具が必要だわ」
彼女は決意を込めた瞳でガレンを見返した。
「一度戻って、王立図書館にある古い記録を洗いたい。それに、向こうの研究室の機材じゃないとこれ以上精密な魔力測定は無理よ」
入り口から顔を出したリアナが、風の魔法を使って羊皮紙の端をそっと押さえながら言う。
「ミレイユが行くなら、私たちは森を守るだけだね」
「……道中、気をつけてください」
ユアンの言葉に、ミレイユは振り返ってふっと微笑んだ。
いつもの皮肉めいた笑みではなく、純粋な気遣いに対する柔らかい表情だ。
「あなたたちの方がよっぽど危険よ。でも、必ず戻るわ」
その夜。
日中の重苦しい空気は少しだけ和らぎ、吹き抜ける風もわずかに軽さを取り戻していた。
しかし、それは決して元に戻ったわけではない。嵐の前の静けさのような、薄気味悪い凪だった。
パチ、と焚き火の爆ぜる音が鳴る。
火の番をしていたガレンが、ふと顔を上げた。
「ユアン。今日は集落の外周を見てきてくれ。昼間の魔物の動きがどうにも気になる」
「はい」
「風は落ち着ってるけど……気をつけてね」
ガレンとリアナに頷き、ユアンは槍を背負って夜の闇へ向かった。
集落の外周をなぞるように歩く。
夜風は冷たいはずだった。しかし、木々の隙間から時折吹き抜ける風には、生温かい湿り気が混じっている。
ユアンは足を止めた。
「……静かすぎる」
森のざわめきがない。夜行性の虫の声さえ、ひどく遠い。
いつもなら、夜の森はもっと騒がしいはずだ。葉擦れの音、小動物が枯れ枝を踏む音、遠くで鳴くフクロウの声。
それらが一切削ぎ落とされ、不気味なほどの沈黙が落ちていた。
ただ、暗闇の奥から這い出してくるような、むせ返るような土とカビの匂いだけが濃くなっていく。
ウエスなら、この空気をどう読むだろうか。
(——隊長なら、もう少し先まで読んでいるんだろうな)
そう思いながらも、ユアンは足を止めなかった。
今ここにいるのは自分だ。なら、自分の感覚で判断するしかない。
――ドクン。
不意に、ユアンの胸の奥で何かが脈打った。
いや、心臓の鼓動がズレたのではない。胸骨の奥で、体内の魔力そのものが森の拍動に引きずられたように震えたのだ。
体内の魔力が、外の不気味な空気に呼応するように勝手に粟立っている。
「……まただ。でも、魔物の気配じゃない……」
足元から伝わってくる振動ではない。あの、森の“底”が揺れた時と同じ、内臓を直接撫でられるような感覚。
森の異常が、確実に人間の身体にまで届き始めている。
ユアンが油断なく槍の柄を握り直した、その時。
泥の上に、違和感を見つけた。
獣のものではない、真新しい足跡だ。
「……人間? 二人、いや……三人?」
ユアンはしゃがみ込み、目を凝らす。
その足跡の一つは、途中から異様に歩幅が乱れていた。
まるで何かに怯え、逃げ惑うように深く泥を抉り、這いずるように木々の奥へと続いている。
歩幅の乱れは恐怖だけでは説明できない。泥に残った踏み込みの深さが、まるで身体の重心そのものが狂っているようだった。
ただ事ではない。そう直感した直後だった。
ガサガサガサッ!
前方の草むらが、乱暴に揺れた。
「誰だ!」
ユアンが鋭く声を上げる。
暗がりから、泥にまみれた黒い影が転がり出るように飛び出してきた。
野盗の残党だ。だが、その姿は明らかに異常だった。
焦点の合わない瞳はひどく濁りきり、首筋には黒い血管のようなものが不気味に浮き出ている。
それは毒でも病でもない。森の奥で見た、あの黒ずんだ土と同じ色をしていた。
しかし、それが何なのかユアンには判断できなかった。
異常に荒い呼吸と共に、薬のツンとした臭いと、あの森の奥のむせ返るような土とカビの臭이가 散った。
「あ……頭が……うるさい……っ! 森が……喋って……る……!」
野盗は虚空を睨みつけ、獣のようなうなり声を上げながら、その手に握った刃を乱暴に振り上げた。




