【第五十三話】 森の底の呼吸
木漏れ日が差し込むはずの森は、昼なお薄暗く、まるで地下のような妙な湿り気を帯びていた。
駐屯地へ戻る獣道。いつもなら聞こえてくる鳥の声も、今日は妙に遠かった。
ガレンもリアナも、口数が少ない。
「……風が、落ち着かない」
ふと、リアナが立ち止まり、微かに乱れる前髪を押さえながら呟いた。広い森の中であるにもかかわらず、彼女の周囲を漂う風の魔力が、行き場を失ったように細かく震えている。
ガレンは腰の剣にそっと手を添えた。柄を握り込むことはせず、いつでも抜ける自然体の構えだ。
「魔物の動きが変だ。森が騒いでる」
ガレンの鋭い視線が木々の奥を射抜く。静寂に包まれていたはずの森が、ざわざわと不気味な産声を上げ始めていた。それは風に揺れる葉音ではない。無数の生き物が逃げ惑うような、嫌なざわめきだった。
ガシャッ、と下草が乱暴に踏み鳴らされる。
現れたのは、本来なら群れを作らないはずの角兎や、小型の魔獣たちだった。その動きは異様だった。
「逃げるでもなく、襲うでもなく……ただ、混乱している?」
リアナの言う通り、魔物たちはガレンたちを標的にしているわけではなかった。ただパニックを起こしたように右往左往し、結果として駐屯地へ向かうガレンたちにぶつかるような軌道で突っ込んでくる。
「……群れの動きがバラバラだ。背後から何かに追われているわけでもない」
ガレンは剣を抜いた。
突進してくる角兎の首筋へ、ガレンが踏み込み、刃を滑らせる。ウエスから叩き込まれた『無駄のない最短動作』。――しかし。
ガレンが踏み込んだ瞬間、周囲の空気がわずかに歪んだ。まるで森そのものが“剣の軌道を拒む”ように。
その直後、足元の土が不自然に沈んだ。
そのわずかな違和感が、ガレンの感覚を狂わせる。急所を捉えるはずだった剣の軌道が、森の淀んだ気配に当てられたように、ほんの数ミリずれた。
致命傷を免れた角兎が暴れ、同時に別の小型魔獣が死角から突進してくる。
「くっ……!」
リアナが風の魔法を放ち、魔獣の軌道を逸らしてガレンの射程へ押し戻す。だが、その風自体も森の乱れた魔力の影響を受け、本来の精度を欠いて微弱にブレていた。
ガレンが強引に剣を振り抜き、どうにか魔物を仕留める。
「……悪い、助かった。どうにも、呼吸が合わない」
「私の方こそ。風が重くて……まるで森全体が、別の空間にすり替わろうとしているみたい」
ガレンは剣の血を払い、鞘に収めた。
完璧だったはずの連携をわずかに狂わせるほどの、環境の変容。地上にあるはずのこの森そのものが、彼らの知る「森」ではなくなりつつある。
二人は、もう先を急ぐことだけを考えていた。
同じ頃、別のルートを探索していたユアン隊もまた、森の異変に直面していた。
湿った腐葉土の上に転がっているのは、巨大な地底蜘蛛の残骸だった。本来、陽の当たる地上には現れず、深い地下にしか生息しないはずの魔物である。
「……おかしい」
ミレイユは蜘蛛の死骸をじっと見つめた。片手に持った羊皮紙に素早くメモを書き込んでいる。
「……生息域の乱れだけじゃない。でも、まだ言い切れない……何かが変わってる気がする」
ユアンが振り返る。
「変わってるって……どういうことだ?」
ミレイユは樹冠を見上げ、短く息を吐く。
「まだ断言できない。ただ……この森、いつもの森じゃない」
何かがおかしい。
それだけは、はっきりしていた。
辺境の森が異様な変化を見せる中、王都の空気もまた、別の意味で張り詰めていた。
豪奢な装飾が施された王国軍本部の会議室。重厚な円卓の上に、一通の報告書が置かれた。
「陛下……辺境の異変は、もはや無視できませぬ。王都の封印構造にまで影響が出始めております」
宰相は深く頭を下げながらも、その声には隠しきれない苛立ちと危機感が滲んでいた。
しかし、上座に座る国王は、痛ましげに目を伏せるだけだった。
「……しかし、辺境の者たちを見捨てるわけにはいかぬ。彼らもまた、我が王国の民だ。容易く切り捨てるような真似はできん」
「優しさだけでは、国は守れませぬ……!」
宰相の強い言葉が会議室に響く。しかし、国王はそれ以上何も言わず、重い足取りで部屋を後にした。
扉が閉まり、静寂が戻った会議室。
一人残された宰相は、机上の報告書をパタンと閉じ、誰に聞こえるでもない静かなため息をついた。
「……陛下は変わらぬか。ならば、こちらで考えるしかない」
宰相は控えていた腹心の部下を呼び寄せると、低い声で命じた。
「封印の監視を強化せよ。……あとは、私の指示があるまで動くな」
「ハッ」
部下が退出すると、会議室には再び静寂が戻った。
駐屯地への帰還を急ぐガレン隊と、森の調査を続けるユアン隊。
遠く離れた場所にいる彼らだったが、その時、ふと森を吹き抜ける風がピタリと止み、空気が一瞬だけ重く沈み込んだ。
踏みしめている腐葉土が足裏で微かに沈み、傍らに転がっていた魔物の死骸がビリッと不気味に震える。
――ドクン。
同時に、地面が脈打った。
「……まただ」
ガレンが足を止め、足裏から伝わる震えに顔をしかめる。
「底が……近づいてる」
ユアンが槍を握りしめ、足元の土を睨みつけた。
森が一度だけ、生き物のように深く、息をした。




