【第五十七話】老兵の過去
昼間よりも、夜の森は奇妙なほど静まり返っていた。
パチ、パチと弱く爆ぜる焚き火の赤色が、周囲の闇をかろうじて押し留めている。夜風は肌を刺すように冷たい。
魔物の気配は異常なほど薄く、森全体が重く“沈み込んで”いる感覚は消えていないものの、息苦しいほどの強い不穏さは今は鳴りを潜めていた。
ユアンは火の番をしながら、自身の槍を布で丁寧に磨いていた。
(ガレンさんも、リアナさんも……変わった)
昼間、ガレンの荒ぶる力が静かな確信へ変わり、リアナの風が導く力へと進化した瞬間。それを間近で見たユアンの胸の奥には、「自分ももっと強くなりたい」という熱い焦燥が静かに渦巻いていた。
不意に、焚き火の向こう側に気配が立った。
足音すら立てず、夜の静けさに溶け込むような存在感。ドレイクだった。
彼はいつも通り表情を崩さないが、その瞳の奥には、どこか言葉を選んでいるような静かな揺らぎがある。
「……ユアン。昼間のガレン、見てたんだろう」
ドレイクは焚き火の前にゆっくりと腰を下ろし、低い声で問いかけた。
「はい。すごかったです。ガレンさん、変わりました」
ユアンが真っ直ぐに答えると、ドレイクは焚き火を見つめたまま、一度だけ深く頷いた。
「変わる時ってのはな。誰にでも一度だけ、“風が変わる瞬間”がある」
その言葉の重みに、ユアンは自然と背筋を伸ばした。
「昔、王都の正規軍にいた頃だ。俺にも、守れなかった奴がいた。お前のように不器用で、だが誰よりも真っ直ぐな若いやつでな。夜明け前から息を切らして走り込み、何度も何度も泥臭く足捌きの基礎を繰り返していた。俺は毎朝、そいつの鍛錬に付き合って……いつか俺を超える戦士になると信じていたんだ」
懐かしむようなその言葉の後に、ドレイクの視線は炎の揺らめきを通して、遠い過去を見つめた。
「敵の罠だった。単独で突っ込んだあいつは、そのまま退路を絶たれた。止められたはずだったんだ。俺は陣形の綻びも、あいつの動きも読めていた。……だが、伸ばした俺の手は空を切った。あと半歩、あいつに“風を掴ませる”ことができなかったんだ」
ドレイクの声は静かだったが、その奥に、長い年月を抱えた癒えることのない痛みが滲んでいた。
パチッ、と焚き火が小さく爆ぜる。その音が、ドレイクの抱える後悔の深さと、拭えない喪失感を際立たせていた。
「だから、俺は辺境に来た」
ドレイクはゆっくりと視線を上げ、ユアンを見た。無骨なその顔に、静かで深い決意が宿っている。
「若い奴らを守るためだ。ガレンも、お前も、リアナも……そして、隊長もな。もう二度と、背中を追う誰かの手を、取りこぼさないためにな」
ユアンは胸が熱くなるのを感じた。
常に静かで、多くを語らないこの老兵が、どれほどの覚悟と愛情を持って自分たち第九隊を見守ってくれていたのか、初めて知ったからだ。
ドレイクの視線が、ユアンの手にある槍へと落ちる。
「ユアン。お前の槍は、まだ細い。だが……折れてない」
「え……」
「今日の戦い、俺は見てた。泥に沈んでも、刃を受けても……お前は決して折れなかった。折れない奴には、必ず“風を掴む瞬間”が来る。ガレンにも来た。リアナにも来た。……次は、お前だ」
その無骨で温かい言葉が、ユアンの胸の奥にストンと落ちた。
自分がただ守られるだけの存在ではなく、この老兵の背中を、そしてその傷ごと支えられるようになりたい――。確かな熱が、ユアンの内側で静かに脈打った。
無意識に握り直した槍の柄が、いつもより少しだけ“軽く”感じられた。
ユアンは少しだけ照れくさそうに、しかし真っ直ぐな瞳でドレイクを見た。
「俺、絶対に折れませんから。……だからドレイクさん、明日も朝の走り込み、付き合ってくださいね」
それは、過去の喪失を乗り越え、共に未来へ向かうための不器用で力強い約束だった。
ドレイクはわずかに目を見開き――やがて、短く息を吐いて口角をほんの少しだけ上げた。
「……ああ。容赦はしねぇぞ」
――その時だった。
鬱蒼と茂る森の奥から、土と腐葉土の匂いに混じって、どこか生臭いような不穏な空気がゆっくりとこちらへ流れてきた。
ガサリとも音はしない。魔物の唸り声もない。
ただ、目に見えない巨大な何かが、暗闇の奥で静かに呼吸をしているかのような圧迫感。
まるで森そのものが重苦しい息を吐き出しているかのように、周囲の空間がねっとりと淀んでいく。焚き火の炎が、見えない重圧に押されるようにフワリと大きく揺らいだ。
襲いかかってくる気配はない。
ただ、何かが確実に“そこにある”という底知れぬ重圧だけが、じわじわと陣地を侵食してくる。何も起きないからこそ、その静けさがひどく不気味だった。
「……夜風が変わったな」
ドレイクが短く呟き、夜の森へと視線を向ける。
ユアンは無言のまま、軽やかになった槍の柄を力強く握り直した。
――遠い森の奥で、確かな悪意が息を潜めているような気がした。




