【第五十一話】 再始動
ミレイユが手を止めていた机の端に、主のいない湯呑みだけがぽつんと残っていた。
その静寂を破ったのは、執務室の扉を叩く音だった。
王都からの連絡便が届けていった一通の書状。表に記された文字を一目見たミレイユは、息を呑み、震える指先で封を切った。
「……た、隊長からです……! 王都から、手紙が……!」
声が裏返っていた。
その一言で、部屋にいた全員の身体が硬直する。ガレンが駆け寄り、ユアンは握っていた手拭いを潰し、リアナは胸の前で手を組む。壁に寄りかかっていたドレイクも静かに視線を向けた。
ミレイユは小さく息を呑み、震える指先で紙を支えながら読み上げ始めた。
『第九隊のみんなへ。
無事に王都に着いた。心配をかけたが、俺は生きている。
ガレンへ。迷うな、前に進め。
リアナへ。お前自身の風を信じろ。
ユアンへ。自分の歩幅を焦るな。
ドレイクへ。背中は頼んだ。
ミレイユへ。みんなを頼む。
……無事でいてくれ。俺も、ここで足掻いている。
ウエス』
読み終えた部屋に、再び静寂が訪れた。だが、それはもう重苦しいものではなかった。
ガレンは激しく拳を握りしめた。噛みしめた唇からかすかな血の味が広がり、足を静かに踏みしめる。
「……隊長、無事なんだな。生き、てるんだな……!」
ユアンは目頭を真っ赤に染め、溢れそうになる涙を堪えながら、静かに何度も頷いた。
リアナは目元を緩め、静かに温かい笑みを浮かべている。
部屋の隅でじっと聞いていたドレイクは、静かに視線を落とし、低い声をぽつりと漏らした。
「……よかった」
たった一言。だがその言葉が落ちた瞬間、凍り付いていた第九隊の空気が一気に解け、確かな熱となって部屋を満たした。
訓練場の土は、雨と足跡でドロドロにぬかるんでいた。
その中央で、ユアンはただひたすらに槍を突き出していた。
胸のポケットには、固く折りたたまれた手紙の写しがある。
「……強くなる。絶対に」
潰れた掌から滲む血が、泥と混ざって柄を赤く染めた。
その時、ふっと柔らかい風が吹き抜けた。
ユアンが繰り出した槍の柄を風が微かに押し、軌道がほんのわずかに修正される。突き出された槍先は、これまでにない速度で目標を捉えた。
ユアンの槍が木偶を深く穿つ音が、訓練場に響いた。
その余韻の中で——リアナの風がざわついた。
風の衣を引っ込めたリアナの指気に、湿った冷たさを含んで揺れる微風が巻きつく。
リアナは胸元の服を小さく握りしめた。胸騒ぎが、確実に強まっていた。
「おい、第九隊! 補給班だ!」
補給班の兵士たちが四人がかりで巨大な木箱を運び込んできた。
「ドレイク。お前宛ての新型大楯だ。最優先支給になった」
ドレイクは黙って歩み寄ると、蓋を持ち上げた。
そこに収められていたのは、漆黒の金属で造られた大楯だった。表面に刻まれた複雑な魔導刻印が、蒼い光を宿した瞬間、周囲の空気がわずかに沈んだ。
「……守る」
低い声。それだけで十分だった。
その背に、ガレンが歩み寄る。
「頼りにしてるぞ」
「……ああ」
ガレンは懐から手紙を取り出し、じっと見つめた。深く息を吸い、溜め込んでいた不安を吐き出す。
「……守る。隊長が戻るまで、俺たちが」
声は低く、しかし揺るぎなかった。
ガレンは手紙を折り、静かに腰の剣に手を置いた。
リアナが隣に立ち、静かに頷く。
「第九隊、動くぞ」
ガレンの静かな言葉に、全員の視線が定まった。
ユアンが槍を構え直し、ミレイユが資料を抱え直し、リアナが風を周囲に広げる。
そしてドレイクは背の大楯を外し、泥深き地面へと重く突き立てた。
ズン、と重低音が響く。
声なき一歩が、第九隊の背骨を強く打ち直す。
ガレンが空を見上げる。雲の切れ間から、青い光が差し込んでいた。
ドレイクが、地面に刺した大楯の柄を力強く握り直した。
「……行く」
それだけで十分だった。
寡黙な一言が、静寂を切り裂く。
第九隊の新たな一歩が、いま、確かに刻まれた。




