【第五十話】王都の影
王都の朝は、いつも通りの喧騒に包まれている。
誰もが昨日と変わらぬ日常を過ごしている。その中で、ただ一人だけ、かつてとは違う視線を浴びる男がいた。
王都の中心にそびえる軍本部。その重厚な石造りの廊下に、使い古された車椅子の車輪が軋む音が響いていた。
すれ違う将校や兵士たちが、足を止めて道を譲る。しかし、彼らの視線にはかつての「英雄」へ向けられていたような敬意はなかった。代わりに向けられるのは、好奇と、あからさまな侮蔑の色だ。
「……おい、あれが元英雄のウエスか?」
「ああ。魔力ゼロになったって噂は、どうやら本当らしいな」
「ただの廃人じゃないか。なぜ軍本部に……」
ひそひそとした囁き声が、あえて聞こえるような音量で交わされる。車椅子を押すシーンの手にぎゅっと力がこもるのが分かったが、ウエスは表情一つ変えず、ただ前だけを見据えていた。
報告会議室の空気も冷ややかなものだった。
ウエスは淡々と、しかし正確に辺境での出来事を報告した。第八隊が壊滅したこと。迷宮に未知の異変が起きていること。地脈の揺らぎと、それに呼応するようなモンスターの異常な活性化について。
将校たちは一応真剣な顔を作って聞いてはいたが、その目の奥には「魔力を失った役立たずの戯言」と軽視する空気が透けて見えた。
報告を終え、沈黙が下りた直後だった。軍の最高司令官が、重々しい口調で口を開いた。
「ウエス。ご苦労だった。……実は、王が直々に貴様との謁見を望んでおられる」
「……王が、ですか」
予想外の言葉にウエスは僅かに眉を動かしたが、王命である以上、拒否することは許されなかった。
王城の奥深く、豪奢な謁見の間。
玉座に座る初老の王は、ウエスの痛々しい姿を見るなり、玉座から身を乗り出すようにして顔を歪ませた。
「ウエス……よくぞ生きて戻った。お前の辺境での命を懸けた働き、心から感謝している。身体の具合は……」
王は根は善良であり、ウエスの功績を誰よりも理解していた。だが、その声にはどこか覇気がなく、玉座の主としての絶対的な力が欠けている。ウエスが静かに頭を下げようとした、その時だった。
「陛下。お言葉ですが」
玉座の斜め後ろに控えていた細身の男が、滑り込むように言葉を挟んだ。
冷たく蛇のような目をした男――国政を牛耳る宰相だった。
「辺境の件は……ウエス殿、あなたが勝手に戻ったことで、かえって現地の混乱が増したのではありませんか?」
柔らかく丁寧な口調でありながら、その言葉の端々には鋭い棘が隠されていた。
「……俺の不在が混乱を招いているとすれば、それは事実でしょう。だが、迷宮の異変は――」
「ええ、ええ。ですがね」
宰相は優雅な仕草で手を振り、ウエスの言葉を遮った。
「辺境は……所詮、王都の平和と繁栄のために存在する『壁』に過ぎません。あまり些末なことで騒ぎ立てる必要はありませんよ。ゆっくりと、王都の隅で療養されることですな」
一礼して身を引く宰相。その瞬間、ウエスの鋭い眼光が、宰相のわずかに捲れ上がった細身の袖口を捉えた。
(……赤土か?)
王都の整えられた石畳や灰色の土ではない。王都から遠く離れた、あの不毛な辺境の荒野にしか存在しない独特な赤土の汚れが、ほんの一筋、袖口の裏地に付着していた。
優雅な身なりをした王都の権力者が、なぜ辺境の土を身につけているのか――。
王の気弱な言動と、宰相の言葉の裏に隠された冷ややかな蔑視。そして、見落としそうなほど小さな泥の痕跡。
この男は危険だ。確かな証拠はないものの、数々の死線を潜り抜けてきた戦士としての直感が、静かに警鐘を鳴らしていた。
ウエスは疑問を表情には一切出さず、ただ静かに一礼して謁見の間を後にした。
王城を出て、自宅へ続く大通りを進む。
昼時の活気ある王都の街並みだったが、ここでも人々の視線は冷たかった。
「あれ……ウエスじゃない?」
「英雄だったのにねぇ。魔力ゼロでしょ? もう終わりよ」
「噂じゃ、あいつが無謀な探索をして迷宮を刺激したせいなんだろ? だから逃げ帰ってきたんだってさ」
心無い言葉と、尾ひれのついた歪んだ噂が容赦なく二人に投げかけられる。
ウエス自身は、他人にどう思われようと気にする男ではなかった。戦場で流れた血に比べれば、痛くも痒くもない。
しかし、背後で車椅子を押すシーンの足が、ピタリと止まった。
ウエスが見上げると、シーンは肩を震わせていた。彼女の瞳には、かつてないほどの激しい怒りが燃えていた。
「……見ないで」
シーンが、周囲の民衆を睨みつけるようにして声を絞り出す。
「この人は……あなたたちが思っているような、そんな人じゃない……っ!」
どれほどの痛みに耐え、どれほどの絶望の淵から這い上がり、王都を守るために命を繋いできたか。適当な噂を鵜呑みにし、彼を嗤う者たちに怒りを隠せなかった。
シーンの痛切な叫びに触れ、周囲の民衆は気圧されたように目を逸らし、気まずそうに散っていった。
ウエスはそっと手を伸ばし、グリップを握りしめるシーンの震える手に、自分の手を重ねた。
自宅の扉を開けた瞬間、漂ってくる夕食の匂いと温かな空気に、ウエスは小さく息をついた。
「お父さん、おかえりなさい! ……だいじょうぶ?」
出迎えたセレンが、ウエスの疲労の色を敏感に察取して膝にすがりついてくる。シーンが優しくウエスの肩に手を置いた。
「ああ……少し、疲れただけだ」
ウエスはセレンの頭を撫でながら、王都の冷たい空気で凍えていた心が、家族の温もりによってゆっくりと解けていくのを感じていた。
その夜。
寝静まった部屋の片隅で、ウエスは一人机に向かい、ペンを走らせていた。
宛先は、はるか遠い辺境の地で戦い続ける仲間たち。
『ガレンへ。迷うな、前に進め。
リアナへ。お前自身の風を信じろ。
ユアンへ。自分の歩幅を焦るな。お前が重ねてきた努力は、絶対に裏切らない。
ドレイクへ。隊の背中は、お前に任せる。
ミレイユへ。どんな小さな違和感でもいい、気づいたことがあれば報せろ。』
共に死線を潜り抜けた、愛すべき部下たちの顔が脳裏に浮かぶ。最後に、彼は力強い文字でこう書き添えた。
『無事でいてくれ。俺も、ここで足掻いている。 ウエス』
ペンを置き、封をとじたその時だった。
「……お父さん、まだ起きてるの?」
小さな足音とともに、パジャマ姿のセレンが目をこすりながら部屋の隅から現れた。まだ半分夢の中にいるような足取りで、吸い寄せられるようにウエスの車椅子のそばへやってくる。
「……起こしたか?」
「ううん。……お父さんが、遠くに行っちゃう夢を見たの」
セレンは不安そうに眉を下げると、車椅子に座るウエスの膝にそっと顔をうずめた。
ウエスは手紙を机の脇に置き、愛おしそうに息子の背中を撫でた。そのまま小さな身体をゆっくりと引き寄せ、両腕でしっかりと抱きしめる。
「どこにも行かないさ。……ここにいる」
ウエスの胸の中で、セレンが安心して小さな息を吐いた。
窓の外では、王都の闇が深く静まり返っている。
遠く離れた戦場で踏ん張る仲間たち。
そして、今この手の中で穏やかな呼吸を打つ愛しい家族。
両方をその胸に抱きしめながら、ウエスは車椅子の上で、力強く静かな眼差しを夜の闇へと向けていた。
この50話で『第一部 魔力喪失編』が完結となります。
引き続き『第二部 新たなる戦い編』が始まります。
引き続き読んで頂けたら嬉しいです。




