【第四十九話】「最初の一歩」
翌朝、シーンは治療院に休暇を申し出た。
朝の光が差し込む病室で、彼女はウエスの胸元にそっと手をかざす。清流のように静かで温かなシーンの魔力が、ウエスの傷ついた体を包み込んでいく。
体の芯に残る深いダメージを完全に癒すことはできない。失われた魔力も、以前のように歩くための力も戻ってはこなかった。
それでも、丁寧な治癒を終えた時、ウエスはかすかに目元を緩めた。
「……少し、身体が軽くなった気がする」
「無理はしないでね。……今日は、家族でゆっくりするの」
シーンは車椅子を用意した。
魔導具でも何でもない、使い古された木と鉄でできた素朴な車椅子だ。ウエスを慎重に腰掛けさせると、重い体を支えてきたその車輪が、キーと小さな音を立てた。
セレンは嬉しさを隠しきれない様子で、車椅子の横を跳ねるように歩いている。
治療院を出ると、澄み渡った朝の空気が三人を出迎えた。段差や石畳の凹凸を乗り越えるたび、車椅子のグリップを握るシーンの手には確かな重みが伝わってくる。
「お父さん、風が気持ちいいね!」
セレンがウエスの顔を見上げて弾んだ声をあげる。
「ああ……久しぶりだな。外の風は、こんなに温かかったか」
ウエスは少しだけ目を細め、胸いっぱいに王都の空気を吸い込んだ。車椅子に揺られながら見上げる街並みは、今まで騎士として見下ろしてきた風景とはどこか違って見えた。
三人が向かったのは、王都の外れにあるあの丘だった。
あの日――二人が誓いを交わした古い神殿が、変わらぬ姿で佇んでいる。神殿を包む木々の葉が涼やかな音を立て、木漏れ日が柔らかく芝生を照らしていた。
木陰に車椅子を止め、シーンは持ってきていたバスケットを開いた。
「少し早いけど、お昼にしましょうか。ウエス、準備するから待っていてね」
「シーンの料理は、昔から楽しみだった」
「僕も! お母さんのお弁当、大好きなんだ!」
ウエスとセレンの言葉に、シーンは愛おしそうに目を細めた。
「ふふ、期待してて。セレン、お水をとってきてくれる?」
「うん!」
シーンが料理を並べるために少し離れ、セレンが水筒を取りに行った、そのわずかな隙だった。
ウエスは車椅子の肘掛けを強く握りしめた。
指先に力を込め、動かない足へと意識を集中させる。顔にじわりと冷や汗が浮かぶ。
「……お父さん?」
水筒を手にしたセレンが、ウエスの異変に気づいて駆け寄ってきた。
「……セレン。少しだけ、立ってみたいんだ」
「えっ、でも……お母さんに怒られるよ! お医者さんも動いちゃダメだって……」
「大丈夫だ。……お前が支えてくれれば」
セレンは息を呑んだ。
ウエスの瞳には、かつて戦場で何度も見せたような、決して折れない強い光が宿っていた。
「……うん! 僕、支える!」
セレンは小さな体をウエスの脇に滑り込ませ、両手で必死に父の腕を抱え込んだ。
ウエスは歯を食いしばり、痛みに眉間を深く寄せる。筋肉が悲鳴を上げ、全身が激しく震えた。
「くっ……ふ、ぐ……!」
「お父さん……っ!」
軋むような音を立てて、ウエスの身体が車椅子から浮き上がった。
たった数センチ。だが、それは絶望的な傷を負った男にとって、血を吐くような努力を要する距離だった。
足が震える。セレンの小さな肩に、ウエスの重みが重くのしかかる。セレンは足を踏ん張り、顔を真っ赤にしながら、必死に父親の体を支え続けた。
ウエスは、立った。
ほんのふた立ち、時間にすればわずか三秒ほど。
だが、ウエスは確かに自分の足で、地面を踏みしめていた。
限界が訪れ、倒れ込むように車椅子へ身体を戻したウエスは、荒い息を吐き出しながら、隣で必死に自分を見上げる息子の頭に大きな手を置いた。
「……ありがとう、セレン。お前のおかげだ」
「お父さん……! 立った……立てたよ!」
セレンの瞳から、ポロポロと大きな涙がこぼれ落ちた。
「ちょっと……! 何してるの、二人とも!」
背後から声がした。
振り向くと、スープの器を手にしたシーンが立ち尽くしていた。
その声は怒っているようでもあり、今にも泣き出しそうに震えている。
「……すまない、シーン。少しでも……前に進みたくてな」
ウエスが気まずそうに目を逸らすと、シーンは手に持っていたものを置き、駆け寄ってきた。二人の前で屈み込み、ウエスの震える膝と、セレンの小さく真っ赤になった手を交互に見つめる。
「……もう……本当に、二人して無茶ばかりして……」
シーンは込み上げる涙を堪えきれず、溢れた雫を手の甲で拭った。だがその唇は、優しく温かな微笑みを浮かべていた。
「お母さん、僕が支えたんだよ! 僕がお父さんを支えたの!」
セレンが誇らしげに胸を張ると、シーンは息子の頭を抱き寄せ、その頬に優しく手を添えた。
「ええ……ありがとう、セレン。すごかったわ……本当に、ありがとう」
シーンはそのまま、車椅子のウエスの手を強く握りしめた。
その瞬間、ふたりの胸元にある共鳴石が、昼の光の中でもはっきりと分かるほど、ぽっと淡く温かな光を宿して揺れた。
「わぁ……! お父さんとお母さんの石、光ってる!」
セレンが目を輝かせて声をあげる。
「ウエス……あなた……」
シーンが目を見開く。
ウエスは自分の胸元で光る石を見つめ、それから二人の顔を静かに見回した。
「……まだ、進めるみたいだな」
ウエスの声には、確かな力が宿っていた。
車椅子に座ったままでも、傷が癒えなくても。家族の絆がある限り、自分たちの歩みは止まらない。
神殿の丘に吹く爽やかな風が、三人の髪を優しく揺らしていた。




