【第五話】森の洗礼 ― “本物”の領域
薄暗い森の奥へ進むにつれ、生い茂る木々が陽の光を遮り、湿った土と腐葉土の匂いが重苦しく立ち込めていく。
その先頭を、ウエスは音もなく歩いていた。
足元の枯れ葉一枚、湿った小枝一本すら踏み鳴らさない。呼吸は深く、静かで、まるで森の木々が吐き出す吐息と同調しているかのようだった。
「――ガチャ、ガチャンッ!」
背後から響く耳障りな金属音に、ウエスは内心で深くため息をついた。
ガレンを筆頭とする若手たちは、無駄に重く光を反射する金属鎧を鳴らし、あろうことか警戒からくる緊張のせいで魔力を周囲に垂れ流している。彼らの体から漏れ出た魔力の残滓が、陽炎のように空気を歪めていた。
(王都のぬるま湯に浸かっていた若造どもめ。これでは『ここに美味い獲物がいます』と周囲の獣や魔物に触れ回っているようなものだ)
対照的に、ウエスの歩みには一切の「揺れ」がない。
最後尾を行く魔導士のミレイユが、信じられないものを見る目でその背中を見つめ、隣のドレイクに小声で耳打ちした。
「……信じられない。団長の動き、異常ですよ。魔力の波動がほとんど感知できないのに、確かにそこにいる。気配そのものが消えているみたいです」
古参の戦士であるドレイクは、深く刻まれた眉間の皺を動かし、短く応じた。
「無駄に魔力で身体を浮かせてないだけだ。足裏全体で地面を掴み、重心だけで歩いてやがる」
「それだけで、あそこまで……?」
「理屈はな。だが、あれを本当にやる奴は、俺の知る限り一人だけだ」
ドレイクはそれ以上語らず、ただ前方の警戒に戻った。
ガレンや他の若手は、その技術の異常さにまだ気づいていない。だが、死線をくぐり抜けてきたドレイクにははっきりと分かっていた。ウエスという男は、牙を隠しているだけで、まだ牙そのものを失ってはいないのだと。
「おい、オッサン! のんびり歩いてると、獲物を全部俺がかっさらっちまうぜ!」
ガレンがギラついた目を向け、ふてぶてしい笑みを浮かべて前に出ようとした、その瞬間だった。
ガサリ、と前方の巨大な茂みが大きく揺れた。
狂暴な咆哮とともに、醜悪な緑色の皮膚を持った小鬼の群れが、一斉に飛び出してくる。
「ハッ、大言壮語の割にはザコじゃねえか! オッサン、そこで黙って見てな!」
ガレンが好戦的な笑みを浮かべ、大剣を抜いて勢いよく突っ込んでいく。その若さゆえの突破力と力任せの剣技は、確かにゴブリン程度なら一撃で叩き潰せる威力があった。
しかし――ウエスの双眸だけは、ガレンが進む方向とは「逆」の茂み、そのわずかな揺らぎを捉えていた。
(……遅い)
ガレンが勢いよく踏み込んだことで生まれた、一瞬の死角。
そこから、通常のゴブリンの倍近い巨体を誇る影が、音もなく跳躍した。筋骨隆々の肉体に、身の丈ほどもある錆びついた大剣を握った「ホブゴブリン」の奇襲。
狙いは、完全に体勢の流れたガレンの無防備な側頭部だった。
「――ッ!?」
ガレンが気配に気づいたときには、すでに錆びた大刃が目の前まで迫っていた。
避けられない。防御も間に合わない。ガレンの脳裏を強烈な死のイメージがよぎり、その身体が恐怖で硬直する。
その瞬間、ウエスの姿が“消えた”。
気配を絶ったまま滑り込んだウエスは、すでにガレンとホブゴブリンの間に割り込んでいた。
放出された魔力は微々たるもの。しかし、その密度は極限まで高められ、一本の細い針のようになっていた。
ウエスは愛剣を抜き放つと、ホブゴブリンの大剣を「受ける」のではなく、振り下ろされる刃の“腹(側面)”に向けて、自身の剣の平を正確に当てた。
キィン、と澄んだ甲高い金属音が響く。
一瞬だけ剣の平に集中させた最小限の魔力。それが楔となり、振り下ろされる大剣の軌道を、ほんの数センチメートルだけ、力線の外へとズラした。
それだけで十分だった。
渾身の力で振り下ろしたホブゴブリンの大剣は空を切り、巨体は自らの怪力と体重のバランスを崩して、前のめりに倒れ込む。
ウエスはその勢いを一切殺すことなく、流れるような動作で一歩踏み込み、無防備に晒された喉元へ、最短距離から鋭いカウンターの突きを突き刺した。
グズリ、と肉と軟骨を裂く鈍い音。
ホブゴブリンは悲鳴をあげる暇もなく、ドサリと泥の上に崩れ落ち、二度と動かなくなった。
一連の動作に、一切の無駄はなかった。流麗で、あまりにも冷徹な一撃。
「……嘘、でしょ? 魔力の“点”だけで、あの巨体の軌道を逸らして、自重で自滅させるなんて……」
ミレイユが息を呑み、杖を握る手を震わせる。
ドレイクはふっと口元を緩め、傲然と立ち尽くすウエスの背中を見つめた。
「最小で最大を取る。それがウエスだ」




