【第四十六話】 セレンの一日
王都の朝は、薄く冷たい雲に覆われていた。
「お母さん、鞄ここに置いておくね」
「ありがとう、セレン。助かるわ」
朝の光が浅く差し込む室内で、セレンは母シーンの出勤準備を手伝っていた。上着の皺を伸ばし、革の鞄を揃えるセレンの手つきは、年齢のわりに手慣れている。
シーンの笑顔は優しいのに、目の奥だけが眠れていない色をしていた。連日の過密な勤務と、何より辺境へ向かった夫——ウエスへの消えない懸念が、彼女の身体を少しずつ削っているようだった。
「今日も、お父さんからの手紙は届かないかな」
「そうね……辺境は遠いもの。でも、お父さんのことだから、きっと元気にやっているわよ」
「うん。お父さんは強いもんね!」
セレンは胸を張ってみせた。そんな会話の最中、シーンの胸元でチェーンに繋がれた小さな透明な石——共鳴石が、ほんのわずかに、まるで脈打つように揺らいだ。
「……あ、お母さん。石が揺れたよ?」
「え?」
シーンは胸元に視線を落としたが、石はすでに静まり返っていた。
「気のせいよ、セレン。風が吹いたのかしら」
シーンは優しく笑い、セレンの額に軽く唇を寄せると「行ってきます」と家を出て行った。セレンは一人、静かになった部屋で、母の背中が見えなくなるまで見送っていた。
セレンだけが気づいていた。あの揺らぎは、風のせいなんかじゃない。
朝の仕事を終えたセレンは、王都の広場へと駆け出した。そこには、近所に住む遊び仲間のトリスとルカが待っていた。
「遅いぞ、セレン! 今日こそ勝負だ!」
トリスが掲げたのは、短く削られた木の剣だった。セレンもまた、自分の背丈に合わせた木剣を構える。
「負けないよ!」
パン、パンと乾いた音が広場に響く。木の剣を交え、魔導院の立派な建物の前では「大きな魔法を唱えるごっこ」に興じた。市場の裏路地を駆け回ってかくれんぼをし、行きつけのパン屋のおばさんからは「元気に遊んで偉いね」と、焼きたての甘いパンの端切れをおまけしてもらった。
噴水の縁に三人で並んで腰掛け、もらったパンを頬張る。
「セレンのお父ちゃんって、本当に強いのか?」
ルカがパンを噛みちぎりながら尋ねてきた。セレンは胸を大きく膨らませて頷いた。
「当たり前だろ! 僕のお父さんは、国の半分を護るすごい英雄なんだ。黒い霧の魔物だって、一撃で倒しちゃうんだから!」
「すげえなぁ……早く帰ってくるといいな」
「うん。また帰ってくるよ。絶対」
誇らしげに胸を張ったその瞬間、胸の奥で小さな影がひそんだ。口にした言葉の裏で、胸の奥がほんの少しだけキュッと縮こまるのを感じていた。
その時、甲冑の重い擦れ合う音が響き、兵士たちの集団が噴水の前を通り過ぎて行った。いつもよりずっと数が多く、その表情は一様に硬く引きつっている。
市場の買い物客たちも、どこか怯えたように口早に囁き合っていた。
遠く、王都の最高塔から、重く低い鐘の音が——ゴーンと、一度だけ不気味に響き渡った。警報でもなければ、時刻を告げる鐘でもない。
その音は、いつもの王都の鐘よりもずっと低くて、まるで怒っているように聞こえた。
ふっと冷たい風が街を吹き抜け、セレンは思わず肩をすくめた。
(なんだか……王都が怖い顔をしてる)
友達には言えなかった。ただ、いつも見慣れているはずの王都が、まるで巨大な怪物が目覚める直前のような、嫌な気配を纏っているように見えた。
夕刻が近づく頃、セレンは母の勤める軍医療院へと向かった。
治療院の敷地内は、足の踏み場もないほどの騒然とした空気に包まれていた。担架に乗せられた傷病兵が次々と運ばれており、魔導院の紋章をつけた使者たちが、青ざめた顔で医官たちと激しい押し問答を繰り返している。
「お母さん……」
忙しく廊下を走り回るシーンを見つけ、セレンは柱の陰から声をかけた。
「セレン!? どうしてここに……ごめんなさいね、今日は急な怪我人が多くて、まだ帰れそうにないの」
シーンは息を切らせながら、申し訳なさそうに言葉をかけた。その時、彼女の胸元の共鳴石が、今度ははっきりと、生き物のようにトクンと揺れた。
「お母さん、やっぱり石が……!」
「大丈夫、気のせいよ。セレン、先にお家に帰って待っていなさいね」
シーンの手は、震えを隠すようにセレンの頬を撫でた。シーンはそう優しく笑ってみせたが、その指先は微かに震えていた。セレンはそれ以上何も言えず、小さく頷くことしかできなかった。
治療院を出ると、王都の空は不気味なほど赤く濁っていた。
民衆たちが不安げに空を見上げ、あちこちでざわめきが広がっている。遠くで、再び重い鐘の音が鳴り響いた。
その瞬間——セレンの胸の奥が、ぎゅっと強く熱を持った。
母の共鳴石と同じ熱。血の繋がりがもたらす直感。
言葉にはできないけれど、セレンの幼い心の中に、確固たる波が押し寄せていた。その熱は、言葉よりも確かな“帰還の予感”だった。
(お父さんが……帰ってくる)
恐ろしい空気の渦中で、セレンは赤く染まる城門の方角をまっすぐに見つめた。
(絶対に帰ってくる……!)
夜になり、ようやく仕事を終えたシーンと共に自宅へ戻った。
夕食を終え、布団に入ったものの、セレンの目は冴え渡っていた。窓の外からは、王都の街明かりと、どこか殺伐とした夜の静寂が漂ってくる。
セレンは小机の上に置かれていたシーンの共鳴石をそっと手に取り、幼い両手で包み込んだ。
石は、かすかな淡い光を宿し、セレンの手のひらを温めていた。
「お父さん……早く帰ってきて」
セレンは目を閉じ、ぎゅっと石を握りしめた。
「僕とお母さんを……守ってね」
セレンの祈りが夜の静寂に溶けていく。
その頃、誰も知らぬ王都の地下深く。
古代封印の結晶体に刻まれた亀裂が、また一つ音もなく広がる。
淡く脈打っていた光は、一拍遅れた心臓のようにわずかに乱れ、地下深くの静寂を不気味に震わせた。
セレンはその破滅の兆しを知らない。
ただ、胸の奥で静かに脈打つ、お父さんの確かな気配だけを信じて、そっと目を閉じた。




