【第四十五話】 代理隊長の夜
駐屯地の重い木門をくぐり抜けた瞬間、第九隊を包み込んだのは張り詰めた緊張の解放と、泥のような重い疲労感だった。
「ふぅ……なんとか、帰ってこられたな……」
ガレンは装備を解きながら、力なく呟いた。「やり切った」という達成感など微塵もない。ただ「全員生きて戻れた」という最低限の成果に、胃が引きちぎれるような安堵を感じているだけだった。
ガレンは無意識に、胸元の徽章へ指を伸ばしかけて止めた。
隣では、ドレイクが血の滲んだ包帯の上から不器用に肩を押さえていた。
「へっ、これくらいかすり傷だ。大盾は砕けちまったがな……隊長、気にすんなって」
ドレイクは豪快に笑ってみせたが、その顔には隠しきれない疲労の色が滲んでいる。
リアナは無言のまま、空を仰いでいた。髪を揺らす風のわずかな「乱れ」に胸騒ぎを覚ていたが、それをうまく言葉にできず、不安げに指先を絡めることしかできない。
一方、ミレイユは小さく息を吐きながら、採集した魔獣の残滓——ガラス瓶の中で不気味に蠢く黒い煙の欠片を凝視していた。ミレイユは、瓶の中の黒煙を見つめながら、ほんの一瞬だけ指先を震わせた。
「……やはり異常です。個体の密度も、魔力の波形も、これまでの記録と乖離しすぎています」
ミレイユの呟きが、現場の重苦しさを物語っていた。
ガレンは拳を強く握りしめる。自分の指示の遅れ、仲間を危険に晒した焦り。
(……ウエス隊長なら、もっと上手くやれたはずだ。誰一人傷つけず、完璧に……)
頭の中で何度も描いてしまう、かつての隊長の背中。「代理」という言葉の重みが、ガレンの肩に重くのしかかっていた。
駐屯地の簡易医療室。ランタンの柔らかい光が落ちる部屋で、ユアンは診察台の上に腰掛けていた。
「んー……不思議だな」
衛生兵の男が、魔力測定の器物をユアンの胸元から引き離しながら首を傾げた。
「肉体的な損傷や魔導毒の兆候はない。ただ……体温の局所的な上昇と、脈拍の不自然な乱れがある。生まれつき魔力ゼロのはずなんだが……気のせいか、微弱な脈動のようなものを拾うな」
「微弱反応……ですか?」
傍らで見守っていたミレイユが眉をひそめる。
「ええ。ですが、魔力回路が形成されているわけではありません。……疲れや緊張による自律神経の乱れ、として処理するしかありませんね」
衛生兵の言葉を聞きながら、ユアンはそっと自分の胸元に手を当てた。
痛むわけではない。ただ、胸の奥ぐっと深い場所で、一瞬だけ「熱」が生まれる。自分の体の中に、自分のものではない不気味な“何か”が潜み込んでいるような感覚。その“何か”は、ユアンが触れようとすると、逆に奥へ逃げ込むようだった。
(怖い……でも、何が起きてるのか分からない)
(俺、どうしちゃったんだろ……)
言葉にできない恐怖に苛まれるユアンの周りで、微かな風がふっと不自然に揺れた。風は、ユアンの周りだけ小さく震えていた。その違和感に気づいたのは、そばにいたリアナだけだった。リアナは言葉を呑み込み、不安そうにユアンを見つめた。
医療室を出た廊下で、ガレンは壁に背をもたせかけ、固く目を閉じつづけていた。
「ガレン、顔が暗いぞ」
ドレイクが大きな手でガレンの肩を叩いた。
「お前が凹んでどうすんだ。俺たちは生きて帰ってきた。お前の指示で助かったんだからよ」
「……ドレイク。俺の指示が一瞬遅れたから、お前は肩を怪我したんだ。ユアンだって死にかけて……」
「風は知ってるよ」
リアナが柔らかい声で割り込んだ。
「ガレンの焦りも、怖がりながらも私たちを守ろうとしてくれたことも。風はちゃんと伝えてた」
「……ええ。ガレンさんの判断は、あの土壇場で最善でした。自分を責める必要はありません」
ミレイユも静かに頷く。
仲間たちの温かい言葉が、ガレンの痛む胸に染み渡る。だが、それと同時に胸の影はより一層濃くなっていった。
(みんなは優しい。……でも、俺はまだ、ウエス隊長の代わりでしかないんだ)
自分には圧倒的な強さも、絶対的なカリスマもない。それでも、この第九隊を守らなければならないという重圧が、冷たくガレンの胸を締め付けていた。
夜が深く沈み、駐屯地が静寂に包まれた頃。
隊舎のベッドの上で、ユアンは目を覚ましていた。
静まり返った部屋の中、胸の奥で——トクン、と小さな火種が跳ねた。
「っ……」
息を殺し、胸を固く押さえる。
熱が、静かに蠢いている。
窓の外を見やると、遠く立ち並ぶ森の樹々が、まるで黒い怪物が呼吸をしているかのようにゆっくりと揺れていた。
その不気味な脈動と同調するように、胸の奥の火種が小さく熱を増す。
ユアンは恐怖に震えながら、布団を強く引き上げ、ただ朝が来るのを祈るように目を閉じることしかできなかった。
——ユアンが胸の違和感に身を縮めていたその同じ刻限。
数百度離れた王都の地下深くに眠る「古代封印」の表面で、新たな亀裂が音もなく、確実にその幅を広げていた。王都の地下で、光の結晶体がかすかに「呼吸」を忘れたように沈んだ。
駐屯地の屋上。
冷たい夜風が吹く場所で、ガレンは一人、見渡す限りの暗闇が広がる夜空を見上げていた。
手の中には、ウエスから預かった小さな隊長用の徽章がある。
「ウエス隊長……」
ガレンの呟きは、夜風にさらさらと流されて消えていく。
「早く……早く戻ってきてください……」
見上げる星空はあまりにも遠く、冷たかった。
「俺は……まだ、あなたの代わりでしかありません……」
暗闇は何も答えず、ただ冷たく広がっていた。
胸の中の苦い吐露を残したまま、ガレンは暗闇の向こう——壊れた英雄が向かったはずの王都の方角を、ただじっと見つめ続けていた。




