【第四十四話】 迫る王都の異変
魔獣が黒い煙となって霧散した街道で、ユアンは自身の胸元にそっと手を当てていた。
息を呑むような激痛と灼熱感は引いていた。しかし、今まで何も存在しなかった胸の奥ぐっと深くに、消えることのない「小さな火種」のような熱が、静かに脈打っている。
「ユアン、大丈夫か……? まだ痛むか?」
ガレンが心配そうに覗き込んでくる。ユアンはゆっくりと首を横に振った。
「ううん……痛みはもうないよ。ただ……何かが、残ってるんだ」
生まれつき魔力回路を持たず、魔力ゼロとして生きてきた自分の体。その閉ざされた器の中に宿った未知の芽生え。森の奥で揺らぐ何かに呼応するように、胸の火種がトクン、と跳ねた。
胸の奥で跳ねた火種に、ユアンは思わず息を詰めた。自分の体なのに、自分のものではない感覚だった。
「急いで駐屯地に戻って、医療班に診てもらおう。ミレイユ、ユアンの様子を頼む」
「はい。……無理はなさらないでくださいね、ユアンさん」
第九隊が警戒を崩さぬまま、集落の警備と駐屯地への帰還に向けて動き出す。
自分の中で始まりつつある変化の正体も知らぬまま、ユアンは溢れ出そうとする熱を必死に抑え込むように、固く拳を握りしめていた。
ゴトゴトと重い車輪の音が、雨の降る街道に低く響いていた。
特別護送馬車の内部は、厚い鉄板と重厚な木材で補強され、息が詰まるほど薄暗い。
その硬いベンチに横たわり、ウエスはただじっと天井の木目を生気のない目で見つめていた。
全身を苛むのは、骨の奥から湧き上がるような激痛だ。
馬車が揺れるたびに、焼け焦げた魔力回路の残骸が軋むような激痛が身体を走った。かつて全身を縦横無尽に駆け巡っていた膨大な魔力回路は完全に沈黙しており、今のウエスには数百メートル先の気配はおろか、目の前の空間を流れる風の魔力すら察知する術がなかった。
「……おい、動くなよ」
馬車の隅に座る護衛兵のひとりが、緊張で喉を鳴らしながら剣の柄に手をかけた。
彼らはウエスの両足が壊れているにもかかわらず、まるで“檻に入れた獣”を見るような目をしていた。かつて「規格外の怪物」と呼ばれた男への恐怖は、彼がどれほど落ちぶれようとも消え去ることはないらしい。
ウエスは反論する気力もなく、ただゆっくりと息を吐いた。
(……静かだな)
戦場の怒号も、第九隊の騒がしい声も、刃が交差する金属音もない。
ただ静寂と痛みが支配する空間で、ウエスは小さく開けられたスリット状の窓から、煙るように降る雨空を見上げた。
王都の外郭線が、雨の霞の向こうにうっすらと見え始めていた。
(……シーン、怒るだろうな)
ふと、脳裏に一人の女性の顔が浮かんだ。
王都の軍医療院に所属する、あの生真面目で、誰よりも自分を心配してくれていた女性。
『ウエス様、また無茶をしたのですか!? 次に自分の身体を粗末に扱ったら、絶対に許しませんからね!』
額に青筋を立て、涙目になりながら自分を叱りつけていた彼女の横顔。
両足を失い、歩行不能の護送扱いで戻ってきたボロボロの自分を見たら、彼女は一体どんな顔をするだろうか。
(間違いなく……開口一番、泣きながら凄まじい勢いで叱ってくる……)
ウエスの乾いた唇に、微かな苦笑が浮かんだ。
叱られるのは分かっている。だが、その声を聞けるという事実が、今の自分には何よりの救いだった。
自分が生きて王都へ戻る意味。
それは軍上層部への報告や引き継ぎなどという大層なものではない。あの呆れ果てたような、けれど愛おしい声を聞くためだけに過ぎなかった。
しかし——ウエスがそんなささやかな望みを胸に移動しているその裏で、王都はすでに正気を失ったような混乱の渦の中にあった。
雨の降る王都。その地下深くに鎮座する、王国最古の「古代封印構造」。
かつて世界を破滅から救ったとされる巨大な光の結晶体に、異変が起きていた。
地下空間の空気が、まるで呼吸を忘れたように重く沈んでいた。
キィィィン……ッ!
耳ではなく、骨の髄を直接叩くような不快な音が地下大空間に反響する。
光の結晶層の表面に、目視できるほど巨大な「亀裂」が走り、ボロボロと光の欠片が崩れ落ちていた。
「中央封印の数値が跳ね上がっています! 抑制機構が持ちません!」
「第三魔導騎士団、地下へ急行せよ! 崩壊を防げ!」
「馬鹿者、物理的な補強でどうにかなる代物か! 原因は何だ!? 辺境の迷宮で一体何が起きている!?」
魔導院の老学者たちが髪を振り乱して怒号を飛ばし、軍上層部の将校たちが顔を青ざめさせて走り回る。一人の将校は、震える手で書類を落とし、それを拾うことすらできなかった。
誰も、この現象の本質的な原因を理解していなかった。
ただ一つ、恐ろしい事実として突きつけられていたのは——辺境でウエスの魔力が異常を来し、その回路が焼き切れたとされる刻限と、この古代封印に亀裂が入り始めた時刻が、完全に一致しているということだった。
「あの男の体内で何が起きた……? なぜ奴の魔力の途絶と、王国の命運を握る封印が同期している!?」
「奴は……ウエスという男は、一体何者なんだ!?」
地下廊下の闇の中に、将校たちの恐怖に震える声がむなしく響く。
将校たちの議論は、処刑と保護の間で揺れ続け、誰一人として結論を出せなかった。
魔力を失ったはずの男。しかし、彼が力を失ったことで世界の均衡が崩れ始めているという皮肉。
上層部は、まもなく城門をくぐる護送馬車の中のウエスを、どう迎えるべきか答えを出せずにいた。
重い鉄門が、ギギギと不気味な音を立てて開かれていく。
雨に濡れた王都の街並みへ、ウエスを乗せた特別護送馬車がゆっくりと入城していった。
遠くで鳴り響く、危機を告げる鐘の音。
暗雲が垂れ込める空の下、壊れた英雄と狂い始めた王国が、静かに、しかし確実に交差し始めていた。




