【第四十三話】 辺境のざわめきと初任務
駐屯地司令部の一室は、押し潰されそうな重圧に包まれていた。
特別護送馬車で王都へ旅立ったウエスを見送った直後、ガレンたち第九隊は司令官に呼び出されていた。
「単刀直入に言う」
司令官の拳は、地図の上でわずかに震えていた。その表情には酷い疲労と、軍人としての苦渋が深く滲み出ている。卓上に広げられた羊皮紙の上に、赤インクで激しく走り書きされた電信記録が打たれていた。
『第八隊、通信途絶。——深層より黒霧伝播。夜行性種、昼間活動。住居近辺まで接近。攻撃性、従来比二倍以上——』
ガレンの視線が、その不吉な文字の列に釘付けになる。胸の奥が冷たく締め付けられた。第八隊といえば、辺境警備の要であり、数々の死線を越えてきた熟練の精鋭兵たちだったはずだ。
「……第八隊が、呑まれた。現在、この辺境領域で即座に現場へ動ける戦力は……第九隊、お前たちだけだ」
司令官の重い視線がガレンに注がれる。ガレンは喉の奥がカラカラに渇くのを感じながら、こみ上げる強烈な緊張を力任せに呑み込んだ。
(俺たちが……動くしかない)
隣に立つリアナが、そっと指先を揺らした。微かな、けれど温かい風がガレンの腕を優しく掠め、張り詰めた全身の緊張を柔らかく解きほぐしていく。
「……司令官。第九隊、出撃します。集落周辺のパトロールと、出没した魔物の排除を行います」
「頼む」
樹海の境界線近く、集落へと続く街道を第九隊が出撃していく。
ウエスがいない。それだけで森の深緑がいつも以上に深く重く、牙を剥いて立ち塞がっているように見えた。先頭を歩くガレンの背中からは、隠しきれない緊張が伝わってくる。
その時だった。
「……っ! ぐあぁっ……!」
隊の最後尾を歩いていたユアンが突然足を止め、膝をついて自らの胸元をかきむしった。
「ユアン!? どうした!」
ガレンが咄嗟に振り返る。ユアンは顔を激しく歪め、額に大量の冷や汗を浮かべて荒い息を吐いていた。
「ガレン……胸の奥で、何かがパチンって弾けた……っ! 熱くて……痛くて……!」
「熱い……? 敵の魔力か?」
「分かんない……! でも、外から襲われてるんじゃない……胸の奥から湧き上がる熱が、外の嫌な気配と、猛烈に綱引きしてるみたいなんだ……っ!」
激しく胸を上下させるユアン。そのシャツの隙間から、かすかな空気の揺らぎが立ち上っていた。
「……ユアン、胸の奥で“何か”が動いてる。風じゃない……もっと、違う……」
リアナが目を見開き、信じられないものを見る目でユアンを見つめる。
生まれつき魔力を持たないはずの少年の体内で、何かが蠢いている。その変化が何を意味するのか、この場の誰も理解できていなかった。
ガレンは拳を強く握りしめた。
「……行くぞ。何が起きていようと、集落の近くまで魔物が出ているなら放っておけない。俺たちの目と足で確かめるんだ」
「「はい!」」
第九隊が、初めてガレンの判断で力強く一歩を踏み出した。
街道の先、樹林の切れ目でそれは現れた。
本来なら洞窟の暗がりに潜んでいるはずの夜行性魔獣——剛毛に覆われた四足の異形が、陽の光の下で濁った赤目を爛々と輝かせていた。
「昼間に出るなんて……!」
ミレイユが魔導書を構える。
「ドレイク、前に出ろ! ミレイユは弱点の特定! ユアンは後方で牽制準備!」
ガレンの怒号が響く。
「任せろ!」
ドレイクが半壊した大盾を構え、魔獣の突進を正面から受け止めた。
次の瞬間、ギィンと激しい打撃音が鼓膜を刺す。魔獣の乗った質量と圧力が、以前戦った同種とはまるで段違いだった。
「ぐっ……!? こいつ、威力が格段に上がってやがる……!」
前戦のダメージでヒビが入っていた大盾がミシミシと悲鳴を上げ、ドレイクの足元が数メートル削り取られる。完全に盾が砕け散る寸前、ドレイクは歯を食いしばり、膝を震わせながら力任せに踏みとどまった。
「核は眉間です!」
ミレイユの分析が飛ぶ。
「リアナ、風で動きを止めろ! 俺が仕留め——」
指示を出そうとしたガレンの視界で、魔獣が不自然な挙動を見せた。
黒い霧のような歪みを全身に纏った魔獣が、物理法則を無視するように空中でのけぞり、右へ跳ねた。
ガレンは魔獣が跳躍の直前、空気が一瞬だけ“脈打つのを感じた”。辺境で感じたあの嫌な波形と同じだった。
「え……っ!?」
ガレンの足が、一瞬だけ地面に縫い付けられたように動かなかった。ガレンの判断が一瞬、遅れた。
想定していた真っ直ぐな突進とは異なる跳躍。標的は、胸の痛みに耐えながら後方で立ち尽くしていたユアンだった。
「ユアンッ! 避けろ——!」
ガレンの声が引きちぎれる。自身の見通しの甘さと指示の遅れが、仲間を死地に晒した。冷や汗が全身を吹き抜ける。
「させない……っ!」
リアナの風が疾風となって荒れ狂い、魔獣の足元へ叩きつけられた。動きがわずかに歪んだものの、狂暴化した魔獣は空中で体勢を強引に立て直し、鋭い爪をユアンへ向かって振り下ろそうとする。
(ダメだ、追いつかない……! 指示を出し直せ!)
ガレンの脳裏で焦りと恐怖が激しく渦巻く。喉を潰すような怒号で、ガレンは指示を叩き直した。
「ドレイク、盾を捨てて右へ割り込め! リアナ、風の壁でユアンの前を塞げ! ミレイユは足元だ!」
「おおおッ!」
ドレイクが限界を迎えた大盾を投げ捨て、巨体ごと側面へ飛び込む。だが、焦りから体勢を崩し、ドレイクの肩が魔獣の爪をわずかにかすめて血が噴き出した。
同時にリアナが強引に叩きつけた風の壁が割り込み、その余波の衝撃でユアン自身も後ろへ尻餅をついて吹っ飛んだが、魔獣の爪は間一髪でユアンの喉元を滑り逸れた。
「捕らえました!」
すかさずミレイユの展開した幾何学模様の魔導罠が、体勢を崩した魔獣の四肢をガチリと拘束する。全員の泥臭く不完全な、けれど必死の連携が隙を作り出した。
「ガレン、今だ!」
リアナの叫びで、ガレンは我に返った。
覚悟を決め、短剣に僅かな魔力を纏わせて地を蹴る。隙だらけになった魔獣の眉間へ、一閃。
甲高い悲鳴とともに魔獣が砕け散り、黒い煙となって消え去った。
静まり返った街道で、ガレンは肩で激しい息を吐いていた。
「はぁ……はぁ……っ」
右手が震えている。勝った。だが、胸の中に残ったのは苦い挫折感だった。焦りによる指示の遅れ、仲間を危険に晒した事実、不揃いな連携。
「すまん……ユアン。俺の指示が一瞬遅れた。お前を……」
ガレンが頭を下げようとしたとき、土に汚れた服のまま、ユアンが歩み寄ってきた。震える足で立ち、その瞳にはどこか強い光が宿っていた。
「謝らないで、ガレン! ……すごく怖かったし、痛くて動けなかった。でも……ガレンが前にいてくれたから、俺、逃げずに済んだんだ」
「ユアン……」
「ガレンの指示があったから、みんなも動けたんだよ」
ドレイクが血の滲む肩を擦りながら豪快に笑い、リアナがそっとガレンの背中に手を置いた。
「風が教えてくれたよ。ガレンが誰よりも早く、ユアンを守ろうとして焦ったことも。……次は、私がもっと早く乱れを教える。だから、一緒にやろう」
ガレンは目を閉じ、悔しさをしっかりと噛みしめた。そして、力強く目を開く。
「……ああ。次は、もっと早く判断する。……俺たちで、この辺境を守る……」




