【第四十二話】 帰還命令
救護天幕の中に、駐屯地司令官の重い足音が響いた。
「ウエス隊長……いや、ウエス」
将校服を纏った司令官は、天幕のベッドに横たわるウエスを見下ろし、厳粛な、けれど隠しきれない焦燥を孕んだ声で切り出した。
「王都の魔導院から、お前に対する即時帰還命令が出た。特別護送馬車を回す。ただちに王都へ向かってもらう」
「……帰還、ですか」
ウエスは静かに眉をひそめた。司令官は手元の書状を固く握りしめ、一度息を呑んでから言葉を継いだ。
「王都の中央封印構造に、あり得ない揺らぎが出始めている。正直……時間がない。軍上層部も魔導院もパニック寸前だ」
司令官は軍人としての余裕を削ぎ落とされた顔で、天幕内を見回す。
「現場で起きている異変と、お前の体内から生じている不気味な過負荷……この波形同調の因果を解明しなければ、王都そのものが崩れかねん。現場を直接知るお前が王都へ赴き、軍上層部と魔導院へ直接報告せよとのことだ」
ウエスの身体は未だ両足で立つことすらできない。実質的な歩行不能状態での急遽護送。事態の異常な緊迫感が、天幕内の空気を痛いほどに押し潰していた。
司令官は息を吐き、ガレン、ユアン、リアナ、ミレイユ、ドレイクへと視線を巡らせた。
「ウエス。お前が不在の間、第九隊の暫定指揮権は誰に預ける? 隊長代理を指名しろ」
一瞬、天幕内が静まり返った。
ウエスは迷うことなく、ある一人を見つめた。
「……ガレンだ」
「な……ッ!?」
ガレンの息が止まった。血の気が引いた顔で、思わず一歩後退りする。
「た、隊長!? 俺ですか……!? 落ちこぼれで、ずっと隊長に反発してばかりだった俺が……! 戦闘の判断だって、さっき初めて形になったばかりで……そんな俺が隊を引っ張るなんて、できるわけが——」
「俺は盾だ」
ガレンの狼狽を遮るように、静かで重厚な声が響いた。
砕けた大盾の残骸を傍らに置いたドレイクが、まっすぐにガレンを見つめていた。
「隊の前に立って、全員の進むべき方向を示すのは……俺の役割じゃない。お前だ、ガレン」
「ドレイク……」
ウエスもまた、薄く唇をほころばせ、ガレンを見上げた。
「ガレン。お前は恐怖を知っている。だからこそ、どうすれば全員が無事に生き残れるか、その判断に誰よりも真摯だ。俺たちが恐怖で足を止めそうな時、前に進む理由を作れるのはお前だ」
「……っ」
ガレンは震える拳を強く握りしめた。筋繊維が千切れかけた右腕が痺れるように痛む。だが、仲間たちの視線、そして、ウエスの瞳に込められた圧倒的な信託が、ガレンの背中を強く押し込んだ。
「……分かりました。……引き受けます」
小雨が降り始める中、厳重な護衛兵に囲まれた特製馬車が、駐屯地の門をくぐり抜けていく。
泥を跳ね上げて遠ざかる馬車の轍を、ガレンはただ立ち尽くして見送っていた。
隊長がいなくなった。自分たちの精神的支柱であり、絶対的な解であったウエスが。重圧と冷たい不安が、ガレンの胃を酷く締め付ける。
その時、横からそっと静かな気配が近づいてきた。
「……ガレン」
振り向くと、リアナがそこに立っていた。
いつもは繊細でどこか儚げな雰囲気を纏う彼女が、少しだけ柔らかく、けれど力強い瞳でガレンを見つめていた。
「さっきの判断……司令官の前で隊長代理を引き受けたこと、私は正しかったと思うよ」
「リアナ……」
リアナは指先をかすかに揺らした。彼女の周囲で、穏やかで澄んだ風が小さく輪を描く。
「風はね……流れの乱れをすぐに教えてくれるの。ガレンが前に出て引っ張ってくれるなら、私はその後ろで乱れを整える。ガレンの背中の隙間も、隊の足元も……全部、私の風で支えるよ」
ガレンは息をのんだ。
推進力として前に出る自分と、その周囲の乱れを察知して完璧に整えてくれる風。
恐怖と不安で押しつぶされそうだった胸の奥が、その一言でふっと軽くなるのを感じた。目の前の風は、ただ敵を探知する術ではない。自分を支えようとしてくれる、確かな意思だった。
「……助かる、リアナ」
ガレンは短く、だがしっかりと頷いた。
「お前がいてくれたら……俺、迷わずに前に出られる気がする」
二人の間に、目には見えない「指揮者と補佐」という新しい絆の触りが、確かに結ばれた瞬間だった。
ガレンは大きく深呼吸をし、雨の中に集まった第九隊のメンバーへと向き直った。
ウエス不在の不安は、全員の顔に影を落としている。だが、ガレンは腹の底から声を絞り出し、一人ひとりの目をまっすぐに見つめた。
「指示を出す。……第九隊、聞いてくれ」
隊員たちの視線が一斉にガレンへと集まる。
「ユアン。地底の脈動の観測を続けてくれ。少しでも波形が変わったらすぐに知らせてほしい」
「……分かった! 任せてくれ!」
ユアンが力強く頷く。恐怖で震えていた少年の瞳には、確かな役割への覚覚悟が宿っていた。
「リアナ。風を広げて森の奥を探ってくれ。カイルが残した痕跡と、黒霧の動きを警戒するんだ」
「うん。任せて」
リアナが静かに笑みを見せ、その風を森の深部へと解き放つ。
「ドレイクは前線の防衛と陣地の補強。……俺たちの背中を守れるのは、お前だけだ」
「任せろ。指一本通さん」
ドレイクが重厚な鉄の腕骨を鳴らす。
「ミレイユは、王都の中央封印構造の資料と、この辺境の地脈データを照らし合わせて整理してくれ。何か共通点がないか探すんだ」
「はい……!」
ミレイユは受け取った魔導資料を素早くめくり始めた。だがその途中、彼女の手がピタリと止まる。
「……ミレイユ?」
「あ……いえ。少し、気になるところが……」
ミレイユは青ざめた顔で資料の数値を凝視した。
「王都の中央封印の波形振動……このノイズ、自然に発生したものじゃありません」
「自然じゃない……?」
「はい。ただの共鳴にしては、波形の歪みが不自然なんです。まるで……誰かが直接触れたような、そんな違和感があります……」
ミレイユの指先が、微かに震えていた。
迷宮の異変、カイルの暴走、そして王都の地下で揺らぐ古代の封印。
未知の違和感が、不気味な影となって辺境の天幕に落ちていた。
「……深く調べる価値がありそうだな。よし——動くぞ、第九隊!」
「「「おおっ!!」」」
ガレンの発声に、全員の応えが重なった。
その瞬間、リアナがまとわせた優しい風が吹き抜け、ガレンの背中をそっと押した。
隊長はいない。状況は刻一刻と悪化している。
しかし、「落ちこぼれの寄せ集め」と呼ばれた彼らは、ウエスが残した土台の上で、ガレンという新しい光を中心に、一つの“自立した隊”として確実に歩み始めていた。




