【第四十一話】 生還
樹海を抜け、土嚢と木柵で囲まれた駐屯地へ姿を現した第九隊に、見張りの兵士たちは息をのんだ。
泥と乾燥した血にまみれ、引きずられるようにして歩く姿。一目で惨劇をくぐり抜けてきたとわかるその満身創痍の帰還に、駐屯地内は一瞬で緊迫した静寂に包まれ、すぐさま医療班の悲鳴のような怒号が響き渡った。
「担架を出せ! 救護天幕へ運べッ!」
駆け寄る衛生兵たちの手を借りながらも、第九隊の面々は倒れ込むようにして陣地へ踏みとどまった。
ガレンの右腕はだらりと垂れ下がり、筋繊維がズタズタに引きちぎれて自力では指一本動かせない。
リアナは重度の魔術酔いと精神負荷により、瞳の焦点を結べぬまま風の不気味な乱れに怯えるように肩を震わせていた。
ミレイユの焦げた魔導具は完全に沈黙し、彼女自身の魔力回路も過負荷で焼き切れて熱を帯びている。
ユアンは恐怖の残響と全身の激痛で膝の震えが止まらず、槍を抱え込んだまま固まっていた。
ドレイクの大盾は原型を留めぬほど砕け散り、その背後でウエスを守り抜いた腕の骨にはいくつものヒビが入っていた。
そして、隊長のウエスはもはや両足で立つことすらできなかった。
「隊長! 横になってください!」
「……大丈夫だ」
駆け寄った衛生兵に担架へ押し倒されながらも、ウエスの瞳だけは濁ることなく、冷徹なまでに冴え渡っていた。意識を失うことすら己に許さない。
ボロボロだった。全員が死線の淵を這いずり回ってきた。
だが——誰一人として欠けることなく、誰一人として仲間を見捨てることなく、彼らは「隊」として生還したのだった。
救護用の天幕に運ばれてもなお、静寂は訪れなかった。
治療が急ピッチで進む中、天幕の入口が荒々しくめくられ、濃密な血臭とともに担架が雪崩れ込んできた。乗せられていたのは、後方部隊によって回収された第八隊の——唯一の生存者だった。そしてその背後には、黒く変色した第八隊員たちの遺体が次々と運び込まれていく。
「狂ってる……狂ってるんだあの男は……ッ!」
右腕と両足を失い、全身の皮膚が黒く焼けただれた第八隊員が、錯乱状態で天井を仰ぎながら叫んでいた。瞳は焦点を結ばず、ただ絶望の記憶に引き裂かれている。
「剣じゃない……奴は大剣を振るってたんじゃない……! 影だ……黒い霧が……奴の拳から、吐息から溢れ出して……みんな、触れた端から腐り落ちていったんだ……ッ!」
「おい、静かにしろ! 傷が開く!」
衛生兵たちが総出で抑え込むが、その凄惨な叫びは天幕内の空気を完全に凍りつかせた。男の壊死した皮膚は、ただの刃傷や火傷ではない。その黒変は、ただの腐敗ではなかった。まるで強酸に晒されたように、ボロボロと崩れ落ちていた。
「……嘘……」
ベッドの上に横たわっていたミレイユが、傷口の痛みを忘れて息をのんだ。
「あの壊死の仕方……やっぱり迷宮の深層に漂う“あの黒霧”による侵食と同じです……! カイルは迷宮の異常そのものを纏って戦っていたの……!?」
リアナもまた、弱々しく首を振った。
「風が……第八隊の生存者と遺体から、あの嫌な脈動の残滓を拾ってる……カイルの振るった力の中に、迷宮の異変が混ざってたの……?」
ガレンは固く拳を握りしめ、無言で溢れ出る怒りと恐怖を耐えていた。自分たちも一歩間違えれば、あの男と同じ姿になって転がっていたのだ。
ウエスは静かに悲鳴を上げる生存者を見つめ、思考の糸を紡ぎ出す。カイルという個人の異常な強さ。それが単なる鍛錬や天性の戦闘センスによるものだけではなく、あの迷宮の異常と深層で結びついている可能性を、ウエスは強く感じ取っていた。
そこへ、外の哨戒から戻った斥候兵が、顔を青ざめさせながらウエスのもとへ駆け込んできた。
「ウエス隊長……! カイルの追撃ルートを追跡した斥候からの報告です。……あれは、人間が残せる痕跡ではありません」
「報告を」
「カイルが踏み散らした巨木は、外圧で折れたのではなく、まるで“内側から破裂した”ように砕け散っていました。木材の繊維が外へ向かって裂け、爆ぜたように散っていたのです。さらに……現場には黒くドロリとした異様な血痕が大量に残されていました」
「血痕……?」
「はい。ガレン隊員とユアン隊員の連携による傷だと思われます。血痕が触れた土壌は黒く腐れ落ちていました。そして……カイルはその負傷を癒やすためか、森の深部へと姿を消し、潜伏に入った模様です。しばらくは動けないかと……!」
天幕内に、一瞬の息をのむような沈黙が走った。
あの化け物に明確な手傷を負わせ、追撃を阻止したという事実。
「あの男に……傷を負わせたのか……」
衛生兵たちが驚愕の表情で第九隊を見つめる。第九隊の面々は互いに顔を見合わせ、自分たちが成し遂げたことの重みを静かに噛み締めた。
「……ですが、報告はそれだけではありません」
リアナが、痛む頭を抱えながら呻くように声を絞り出した。
「風が教えてくれるの……。あの脈動は、迷宮の周りだけじゃない。この駐屯地も……この森も……辺境全体を包むように、地底から広がり続けてる……」
ミレイユが予備の簡易魔導具を起動し、青ざめた顔でその数値を凝視する。
「本当です……局所的な魔力波形じゃない。まるで、地底に眠る何かが、ゆっくりと大きな深呼吸を繰り返すように……辺境全体の地脈が揺れています……」
局所的な異変から、領域全体の異常へ。
世界の底で、何かが着実に破綻へ向かって動き出している感覚が、天幕の中にいる全員の肌を泡立たせた。
その時、王都との連絡を担当する伝令将校が、険しい表情で天幕に飛び込んできた。
「ウエス隊長! 王都の魔導院から緊急伝達です! 『王都の中央封印構造に、微細な歪みと波形振動が観測された』とのこと!」
「王都の封印に……?」
天幕内に戦慄が走る。
だが、伝令は悔しそうに歯を食いしばった。
「ええ……ですが、王都側は『封印の強度は規定値を保っており、辺境の迷宮異変との因果関係は認められない。単なる局所的な地脈の揺らぎである』と結論づけ、増援の打診を却下してきました……」
王都は、辺境の声をいつも過小評価する。
「馬鹿な……! これほどの異常が起きているのに!?」
ガレンが激昂しかけるが、ウエスは手でそれを制した。
ウエスは天幕の天井を仰ぎ、思考を巡らせる。
王都の地下深くを支える古代の封印構造。そして、この遠く離れた辺境の迷宮で巻き起こる不気味な脈動。
繋がりそうで、繋がらない。
王都の権力者たちは正常を主張し、現場の肌感覚だけが凄まじい壊滅の予兆を捉えている。
(迷宮の異変……カイルの異常……そして王都の封印の揺らぎ……。偶然で済ませるには、あまりにも出来すぎている。どこかで……確実に繋がっている)
やがて、処置が終わり、天幕の中に静けさが戻ってきた。
誰も言葉を発しなかった。
身体は激痛に苛まれ、状況は絶望的で、世界の底が抜けかけているような不気味な予感が漂っている。
だが、互いの存在を確かに感じ合う第九隊の絆だけは、以前の落ちこぼれ集団のそれではなかった。
ウエスは静かに、誰にともなく呟いた。
「あれは……何だったんだ」
誰も答えられなかった。
ただ、世界の底で何かが蠢いている気配だけが、静かに、確かに広がっていた。
その脈動は、誰の祈りにも応えず、ただ世界の底で膨らみ続けていた。




