【第四十話】 命がけの逃走
焦土を抜け、黒々とした樹海へと雪崩れ込んだ瞬間、湿った土と腐葉土の匂いが立ち込めた。
追ってくるのは、一頭の狂暴な肉食獣どころではない。
戦術も地形も力で踏みつぶす怪物──カイルだ。
「足を止めるな! 森の地形を使う!」
ウエスの枯れた声が飛ぶ。
前方には三十度を超える急斜面が立ちはだかり、足元は足首まで沈み込む深いぬかるみが広がっていた。
さらに地表を蛇のようにのたうつ巨木の太い根が、一歩踏み出すごとに牙を剥いて足を取る。
平地で立ち向かえば即死だが、この悪路こそが、今の第九隊に残された唯一の盾だった。
ザッ、ザザッ……!
背後で凄まじい風切り音が響く。
カイルが迫っている。
その時、リアナが荒い息を吐きながら、残された感知能力を鋭く研ぎ澄ませた。
「風よ……散って!」
彼女は指先を振るい、風で左右の枝葉を激しく揺らして複数の足音を作り出すと同時に、遠くの太い幹へ強い風圧を叩きつけ、重い踏み込みの錯覚を生み出した。
「……チッ」
追撃するカイルの足が一瞬、見当違いの方向へとブレる。
風の感知術をただ探知に使うのではなく、音を欺く精密な罠として仕掛けたのだ。
しかしリアナの顔は青ざめていた。
風の端々に迷宮の奥から立ち昇る不気味な脈動が混ざり込み、脳髄の奥を針で刺されるような痛みが走り、視界が一瞬だけ揺らいだ。
「こちらです! この先の湿地は巨木の根が地脈を吸い上げていて、魔力が極端に薄い……魔力が薄い場所なら、カイルの感知も確実に鈍ります!」
ミレイユが焦げた魔導具を抱え、泥に塗れながら指をさした。
複雑な地形の中で「どこを通れば敵の目が眩むか」を瞬時に解析する。
ただ指示を待つ存在から、自らの知識でチームの生還ルートを切り拓く者へ。
彼女の判断に迷いはなかった。
「そこかッ!」
音の欺術を見破ったカイルが、幹を砕きながら強行突破してくる。
その瞬間、ガレンの目が光った。
眼前に倒れ伏すのは、大人が二人がかりでも抱えきれないほどの巨大な古木。
以前のガレンなら恐怖でただ立ち尽くすか、力任せに乗り越えようとしただろう。
(怖い……でも、今は俺が判断する番だ!)
ガレンは腹の底から恐怖を押し殺すと、走りながら倒木の支柱となる根元へ力任せに蹴りを叩き込んだ。
蹴りで支点がずれた巨木は、踏み込んだ瞬間に自重で横倒しになる“落とし戸”のような罠へと変わった。
自分の判断が隊の命運を分けるという覚悟が、ガレンの身体を動かしていた。
「ユアン、右だ!」
「させるかッ!」
(震えるな……ガレンが前にいるんだ!)
ガレンの右後方、倒木の影に隠れる位置から、ユアンは槍を突き出した。
恐怖で不自然に固まっていた腕に全精力を込め、疾走の勢いのまま放たれた決死の一閃。
倒木の仕掛けで大きく体勢を崩していたカイルは、回避が間に合わない。
刃はカイルの頬から首元、肩口にかけてを深く切り裂いた。
ズサッ……!
「がっ……!?」
カイルの口から呻きが漏れる。
傷口から噴き出したのは、赤い血だけではない。
黒く濁った異様な血液と、不気味な煙のような魔力が滴り落ちた。
二人の連携が、怪物に確実な一矢を報いた瞬間だった。
「ウエス隊長、背中は渡さねぇ!」
最後尾で、ドレイクが砕け散った大盾の「残骸」を構えた。
もはや原形を留めていない鉄の塊。
それでもドレイクは、ウエスの死角を過不足なく覆う位置取りを正確に保ち続けた。
我が身を肉壁として差し出し、隊長を死守する──それが彼の譲れぬ矜持だった。
指揮を執り、最後尾を守るウエスは、一度も足を緩めなかった。
負傷し、なおも力任せに襲いかかるカイルの鋭い一撃に対し、ウエスは無理に刃を交えない。
張り出した根を蹴って跳躍し、倒木の反動を利用して衝撃を逃がし、濡れた斜面を滑り降りながら追撃の軌道をすれすれでかわしていく。
魔力のない身体は、跳躍のたびに悲鳴を上げた。
視界は白く滲み、膝は折れそうだった。
痛みはどうでもよかった。
背中にいる仲間を一人でも欠けさせる方が、よほど恐ろしかった。
倒れてもいい。
ただ、仲間が倒れる前に倒れるわけにはいかなかった。
それでも──最後尾は譲れない。
満身創痍の身体で森の全地形を己の体の一部のように使い、ウエスは全員の生還を背負ってカイルの攻勢を受け止め続けた。
「泥鼠どもが……よくもやりやがったな……ッ!」
傷口から黒い血を散らしながら、カイルが凶悪な顔を歪める。
追撃を続行しようとした、その時だった。
ず、む……
カイルの眉が激しく跳ねた。
それは獲物の気配ではない。
もっと深く、もっと古い“何か”が目を覚まそうとしていた。
森の奥深く、遙か地底から、空気を直接揺らすような重苦しい「脈動」が響く。
「……っ!?」
カイルは己の意思で、ピタリと足を止めた。
皮膚の裏側を、冷たい虫が這うような不快な感覚が走る。
同時に、ユアンに付けられた傷口の黒い血が、脈動に呼応するように激しく泡立った。
野性的な勘が鋭すぎるがゆえに、カイルの感覚へ直接届いたのは、迷宮の奥底で目覚めつつある異様な化け物の気配だった。
空間の魔術回路が歪み、視界の端が眩暈のように揺れる。
カイルは胸糞悪そうに傷口を抑えると、去っていく第九隊の背中に一瞥をくれ、大剣を地面に突き立てた。
「……チッ。浅くねぇ傷だ。この気配に、この体じゃあ……クソが」
深追いを諦め、カイルは深部の暗がりへと姿を消した。
傷を癒やし、体を立て直すための潜伏──怪物の足が、ついに止まった瞬間だった。
◇
ハッ、ハッ、ハッ、ハッ……
荒い息遣いと、泥を蹴る足音だけが暗い森に響いていた。
第九隊は森の奥深くへと逃げ込んでいた。
全員が地に伏し、泥にまみれ、息も絶え絶えだった。
誰も言葉を発しなかった。
だが全員が、互いの存在を確かに感じていた。
誰も指示を出していないのに、全員の動きが自然と噛み合っていた。
ガレンの地形判断。
ユアンの補強。
リアナの攪乱。
ミレイユの解析。
ドレイクの護衛。
そしてウエスの指揮。
誰か一人の力ではない。
寄せ集めだった落ちこぼれたちは、この絶望の極限の中で、初めて本当の“隊”になった。
一矢を報い、怪物から生きて逃げ切った確かな手応え。
だが、頭上の木々の隙間から見えた空は不気味に歪み、迷宮から届く無音の脈動は、刻一刻と強まり続けていた。




