【第三十九話】 満身創痍の撤退
交戦区域に立ち込めていたのは、焦げ付いた肉と錆びた鉄の混ざり合う嫌な匂い、そして濃密な死の静寂だった。
そこはもはや街道の面影すら留めておらず、黒く変色した焦土と化していた。
いたるところに砕け散った甲冑の破片が転がり、大気を揺らしているのは、どこかあの迷宮の深層に似た不気味な黒霧のような魔力の残滓だった。
生き残りの姿はない。
遠くの廃墟の陰で、追いつめられた最後の生き残りが息絶えたのだろう──甲冑が激しく砕ける乾いた金属音が遅れて一発だけ響き、それきり静まり返った。
「っ……ひどい……」
リアナが胸を強く押さえ、その場に膝をつきかけた。
彼女の感知術が捉える風は、まるで目に見えぬ巨大な脅威に怯える生き物のように激しく乱れ、まともな情報を拾うことすら拒んでいた。
ミレイユは青ざめた顔で焦げた魔導具をかざし、漂う魔力の残滓を解析しようとして息をのんだ。
「……嘘でしょ……この魔力の乱れ……迷宮の奥で感じた“脈動”と、酷似しています……! カイルが引き起こした惨劇が、迷宮の異変を引き寄せている……!?」
第九隊の面々は、満身創痍の身体を引きずりながら、その地獄の渦中へと深く一歩を踏み込んだ。
「お前ら……まだ立てるのかよ。面白ぇじゃねぇか」
焦土の奥、積み上がった瓦礫の頂から、低い声が降ってきた。
大剣を軽々と肩に担ぎ、凶悪な笑みを浮かべた男──カイルだった。
その佇まいだけで、第九隊の全員の肌が泡立った。
迷宮の猛威とはまた違う、剝き出しの殺意と悪意の圧迫感。
ウエスは激痛に耐えながら、鋭い眼差しでカイルを見据えた。
「……カイル」
「ひっさしぶりだなぁ、ウエス。無能のくせに部下を引き連れて、英雄ごっこか?」
カイルは嘲笑いながら、瓦礫から飛び降りた。
その着地と同時に、空気が爆ぜた。
「行かせるかよッ!」
血気にはやったガレンが、震える腕で強引に大剣を振り下ろす。
重厚な一撃。
しかしカイルは、それを片手で、大剣の腹を軽く叩くようにして弾き返した。
「ガレン、フォームが甘ぇよ。恐怖で腕が縮んでるぜ?」
ガレンが目を見開く隙に、カイルの足がドレイクへと向かう。
ドレイクは欠けた大盾を前に押し出し、受け流しの体勢を取る。
だがカイルは、その盾の角度を極限まで見切り、最も脆い亀裂の部分へ正確に拳を叩き込んだ。
バゴォンッ!
衝撃波が弾け、ドレイクの両腕の骨が悲鳴を上げる。
「感知術士!」
カイルが目線を向けるより早く、リアナが死角から刃のような風を放つ。
だがカイルは、皮膚に触れる空気の流れの微かな変化だけを察知し、最小限の動きでそれを回避した。
さらに間髪いれずミレイユが放った圧縮魔導弾も、「魔力の練り上げの癖」から起動軌道を完全に見抜き、首を傾けるだけでかわしてみせる。
「う、うあぁぁッ!」
死角から必死の覚悟で突き出されたユアンの槍。
だがカイルは、ユアンの腰の「怖気による微かな揺れ」を察知し、繰り出される前に槍の柄を手で掴んで動きを完全に封じた。
「勢いだけだ、ヒヨッコ」
そして、一瞬の隙を突いて肉薄してきたウエスの鋭い一閃──。
カイルはその踏み込みの深さと刃の走りを見ただけで、冷たく言い放った。
「へっ……魔力なしの剣か。軽すぎて欠びが出るぜ」
腕力やスピードの差ではない。
戦場をくぐり抜けてきた経験、獣じみた勘、そして何より「人を殺し慣れている殺意の質」が、根本から違っていた。
その殺意は、戦場で人を殺し慣れた者だけが持つ冷たさだった。
圧倒的な格の差が、第九隊を絶望の淵へと突き落す。
「くそ……強い……強いなんてレベルじゃねえ……!」
ガレンが膝をつき、歯を食いしばる。
全員がボロボロだった。
恐怖は消えていない。
それでも前に出る足だけは止まらなかった。
(恐怖を殺すな……手綱を握れ……!)
ドレイクの教えがガレンの脳裏を駆け巡る。
ユアンもまた、引きちぎれそうな腕で槍を握り直し、ウエスの背中を見つめた。
誰かが合図を出したわけではなかった。
極限状態の中、満身創痍の彼らの意識が、初めて寸分の狂いもなく噛み合った。
「風よ……あいつの目を塞げッ!」
リアナが血を吐き出しながら、残された全魔力を絞り出す。
局所的な渦風がカイルの顔面を覆い、一瞬だけ視界を奪う。
「させない……っ! 地脈の乱れを、そこへ!」
ミレイユが焦げた魔導具を叩きつけ、カイルの足元の魔力回路を強制的に暴走させた。
地面から立ち昇る狂乱した魔力が、カイルの「感覚」を狂わせる。
「ウおぉぉぉぉッ!」
その一瞬の隙に、ガレンが恐怖を完全に呑み込んで踏み込んだ。
渾身の力でカイルの右脇腹へ大剣を叩きつける。
カイルは咄嗟に大剣で防ごうとするが、その死角から──
「そこだッ!」
ユアンがガレンの死角を完全にカバーする形で、鋭い突きの型を完璧に繰り出した。
カイルの意識がわずかに逸れる。
「逃がすかよぉッ!」
さらにドレイクが砕けかけた盾を投げ捨て、自らの巨体ごとカイルの体勢を崩すべく足元へ滑り込む。
そして──全員が繋いだ、たった一度きりの隙。
最後尾から死角を完璧に突いて疾走してきたのは、かつて最強と呼ばれ、いまや魔力を失った男。
ウエス。
「ハッ……!?」
視界を奪われ、魔力を狂わされ、動きを抑え込まれたカイルの視界に、ウエスの凄絶な眼差しが飛び込んでくる。
魔力を一切纏わない、しかし極限まで研ぎ澄まされた“ただの鉄の刃”が、静寂を裂いて一閃した。
ザッ!
一瞬の交錯。
静寂の中、鮮血が舞った。
カイルの頬に、一筋の赤い線が刻まれる。
ポタリと、カイルの頬から血が垂れ、焦土に落ちた。
カイルはゆっくりと立ち止まり、指先で己の頬の傷をなぞった。
指についた赤い血を見つめ──やがて、その口元が歪な笑みの形へと開かれていく。
「……へぇ。やっと“隊”になったじゃねぇか」
カイルの全身から、これまでとは異次元の、黒く濁った猛烈な闘気が爆発した。
無言のまま大剣が振り抜かれた。
ただそれだけで大気が悲鳴を上げ、地面が直線状に深く抉れ飛ぶ。
ガアァァァンッ!!
「ぐああぁぁっ!?」
直撃を防ごうと前に出たドレイクの大盾が、木っ端微塵に粉砕される。
その衝撃の波及だけで、ガレンは遥か後方へ吹き飛ばされて地面を転がり、リアナは風の感知術を完全に吹き飛ばされて吐血した。
ミレイユの魔導具はスパークを上げて砕け散り、ユアンの手から槍が弾き飛ぶ。
正面で受け止めたウエスもまた、強烈な衝撃波に弾かれ、片膝を地面についた。
圧倒的。
一矢報いた代償はあまりにも大きく、地力の差という現実が全員の体を打ちのめしていた。
勝てない。
今の自分たちでは、どう足掻いてもこの怪物には届かない。
煙が立ち込める中、ウエスは膝の激痛に耐え、血を吐き出しながら立ち上がろうとした。
立ち上がった瞬間、視界が白く弾けた。
それでもウエスは前に出た。
その瞳には、敗北の絶望ではなく、冷徹で確かな指揮官の光が宿っていた。
「撤退する」
短く、毅然とした声だった。
「ガレン、立て。全員……生きて帰るぞ」
「くっ……! 隊長、俺は……俺はまだ……!」
ガレンは悔しさに歯を食いしばり、拳を地面に叩きつけた。
だが、ウエスのはっきりと前を見据える背中を見た瞬間、言葉が詰まった。
ウエスはすでに、全滅を避けるための「次の戦い」を見据えている。
「リアナ、風で逃走ルートを探せ。ミレイユ、魔力の乱れが少ない方角を指示しろ。ユアン、ドレイクを支えろ」
「は、はいっ……!」
「……了解、です……!」
崩れかけた体を引きずりながら、第九隊は即座に動き出した。
一矢報いたことで得た手応えと、死線をくぐり抜けたことで生まれた連携。
彼らは満身創痍でありながらも、決して瓦解することなく、泥を啜りながら走り出した。
カイルは大剣を肩に戻し、血のついた頬を袖で雑に拭った。
去っていく第九隊の背中を、ただ静かに見送っている。
「……フン。今殺すのは惜しい」
ぽつりと呟くと、カイルは追撃の足を止めたまま、ふと遙か遠方に佇む「迷宮」の方角へ視線を走らせた。
どこか深層から漂う異様な気配に、獣じみた皮膚が微かに粟立つ。
カイルは眉をひそめ、吐き捨てるように首を振った。
「……胸糞悪ぃ気配だ」
◇
ハッ、ハッ、ハッ、ハッ……
荒い息遣いと、泥を蹴る足音だけが暗い森に響いていた。
第九隊は森の奥深くへと逃げ込んでいた。
全員がボロボロだった。
風は乱れ、魔術回路は焼き切れ、足は震え、いつ倒れてもおかしくない限界状態。
それでも、誰一人として脱落することなく、互いを支え合いながら走り続けている。
最後尾を走るウエスは、一度だけ振り返り、追手が来ないことを確認すると、再び前を向いた。
一矢は報いた。
カイルという絶望的な壁に、確かに傷を刻んだ。
だが、生き残るための戦いはまだ終わっていない。




