【第四十七話】 壊れた英雄の帰還
治療院の地下検査室には、どこか冷たく張り詰めた空気が満ちていた。
辺境の駐屯地で応急処置を終えて運ばれてきたウエスは、緊急搬入のような騒々しさこそなかったものの、彼を搬送してきた兵士たちの顔は一様に硬く、重苦しい沈黙を守っていた。
ベッドの上で、ウエスは荒い呼吸を繰り返していた。強力な痛み止めのおかげで意識は保たれているものの、身体を苛む激痛は消えていない。
「……っ」
上体をわずかに起こそうとした瞬間、胸から背中へと鈍い激痛が走り、ウエスは痛みに顔を歪めた。
それでも、その視線は虚空を彷徨いながら、ひたすらに“誰か”の姿を探していた。
(……シーン……セレン……)
ボロボロになった身体の痛みの中で、頭に浮かぶのはただ二人の名前だけだった。帰ってきたのだ。二人の待つ、この王都へ。
カーテンの向こうで、担当医たちが淡々と、しかし重い声で事実を告げていた。
「魔力回路は完全に沈黙しています」
「焼損部位は固定されていますが……回復の兆候はゼロです。魔力ゼロのまま固定化、長期化する可能性が極めて高い」
「戦闘復帰は……絶望的でしょう」
ウエスはその会話を遠くで聞きながら、静かに目を閉じた。身体を刺す痛み以上に、その冷徹な診断結果が胸の奥に深く突き刺さる。だが、後悔はなかった。
その頃、上層階の処置室で傷病兵の手当てをしていたシーンのもとへ、同僚の医官が息を切らせて駆け込んできていた。
「シーンさん……ウエスさんが、検査室に搬入されました……!」
その言葉を聞いた瞬間、シーンの手からガーゼが零れ落ちそうになった。胸の奥が、焼け付くように熱くなる。
(ウエス……!)
医療従事者としての知識があるからこそ、魔導回路の異常や「応急処置のみで搬送された」ことの意味が痛いほど理解できてしまう。恐怖で足が竦みそうになるのを必死で耐えながら、シーンはただ一つの願いを胸に抱いた。
(どうか……どうか無事でいて……!)
治療院の固い扉の外には、セレンが不安そうに待っていた。シーンは震える声でセレンに言い聞かせた。
「セレン、ここで待っててね」
「うん……」
セレンは小さく頷いたが、その胸の奥もまた、激しく熱を帯びていた。セレンの手の中にあったわけではない。遠く離れた小机の上の共鳴石と呼応するように、セレンの胸の奥で、かすかな、けれど確かな波動が揺れていた。
検査室の前に立ったシーンの膝は、微かに震えていた。
顔見知りの老医師が、同僚として、そして一人の人間として、優しくシーンに声をかけた。
「シーンさん……ウエスさんが、あなたを呼んでいます。入ってください」
「……はい」
絞り出すような返事とともに、シーンは震える手で重い扉に手をかけた。
ギィ、とゆっくり扉が開く。
ランタンの柔らかい光が照らし出す部屋の中央。そこには、痛みに耐えながら、必死に上体を起こそうとしているウエスの姿があった。
体に巻きつけられた重々しい包帯、痛々しい固定具、そして虚しく沈黙を守る魔力回路の測定器。
シーンは一瞬、息をすることすら忘れて立ち尽くした。
「……ウエス……?」
掠れた声が、静かな部屋に落ちる。
その声に反応して、ウエスが顔を上げた。シーンの姿を視界に収めた瞬間、ウエスの表情からわずかに痛みの影が引いた。
「……シーン……来て、くれたのか……」
掠れてはいるが、確かにウエスの声だった。
「ウエス……っ!」
シーンは駆け寄り、ベッドの脇に膝をつくと、ウエスの大きな手を両手でぎゅっと握りしめた。溢れ出た涙が、視界をぐしゃぐしゃに濡らしていく。
「どうして……こんなになるまで戦ったの……!」
「あなたは……あなたは、いつも……っ!」
溢れる感情を抑えきれず、責めるような、けれど泣きじゃくる言葉しか出てこない。ウエスは握り返す力すらない手で、優しくシーンの手の温もりを受け止めた。
「……守りたかったんだ」
ウエスは、息を整えながら静かに言った。
「隊の仲間たちを……そして……お前と、セレンを」
「ウエス……」
「怒られても仕方ない。……でも、帰ってこられた」
そう言って浮かべたウエスの笑みは、痛々しいほど弱々しく、そしてどこまでも温かかった。
本当は、もっと怒りたかった。どうして自分の身体をこれほど粗末にするのかと、責め立てたい気持ちは山々だった。けれど、その不器用で弱々しい微笑みを目にした瞬間、胸の奥でせめぎ合っていた怒りの言葉は詰まり、生きて目の前にいてくれるという圧倒的な安堵の中に溶けて消えていった。
シーンは溢れ出る涙を拭おうともせず、立ち上がってウエスの額にそっと自分の額を寄せた。
「……そんな顔するな。目の前で泣かれると……こっちが困る」
ウエスが照れ隠しのように視線を泳がせると、シーンはくすりと泣き笑いを漏らした。
「困っていいのよ……だって、帰ってきたんだから……」
止まっていた二人の時間が、確かに動き出した瞬間だった。
その時、少し開いた扉の隙間から、小さな影が部屋を覗き込んでいた。
シーンがそれに気づき、涙を拭って優しく声をかけた。
「セレン……おいで」
トントン、と小さな足音が響き、セレンが部屋に足を踏み入れた。ベッドの上に横たわる父親の姿を見て、セレンの目が大きく見開かれる。
「お父さん……!」
「セレン……」
ウエスは痛みで身を起こすことはできなかったが、精一杯、腕をセレンの方へと伸ばした。セレンは我慢できずに駆け寄り、ウエスの胸元にそっと抱きついた。ウエスの大きな手が、セレンの背中に回される。その温もりに、ウエスの目からも静かに一すじの涙がこぼれ落ちた。
「……大きくなったな……セレン……」
「お父さん……帰ってきてくれて……ありがとう……!」
セレンはウエスの胸に顔をうずめ、必死にその体温を確かめていた。言葉は少なくても、家族三人の絆がそこには確かに存在していた。
しばらくして、部屋の外から静かにトビラを叩く音がした。
医師が申し訳なさそうに、シーンへ視線を向ける。
「シーンさん……上層部が、ウエスさんの今後の処遇と状態について話があると……」
「……!」
シーンの表情が瞬時に強張った。束の間の安らぎを切り裂く、冷徹な現実の気配。
ウエスは静かに目を閉じ、力なく呟いた。
「……また、呼び出し、か……」
「大丈夫、私はここにいる」
シーンは、ウエスの手を強く握り直した。その手に伝わる温もりが、今の二人にとってのすべてだった。
誰にも知られぬ王都の地下深くで、光がまた一度だけ、静かに揺らめいた。




