【第二十九話】 嵐の前の静けさと忍び寄る何か...
朝、目を覚ますと、昨夜の極限の緊張と疲労が重く体に伸しかかっていた。
頭の奥で鈍い痛みが脈打ち、息を吸い込んでも胸のつかえが取れない。
シーンはベッドの上で浅い呼吸を繰り返しながら、静かに胸元の共鳴石へ手を伸ばした。
石から伝わるのは、昨日と変わらぬ冷たく不規則な揺らぎ。
けれど、指先に微かに残留している昨夜の一瞬の温もりが、ただの錯覚ではなかったと確信させてくれる。
ウエスは、まだ諦めていない。
遠い空の下で、必死に命を繋ぎ止めている。
シーンは深く呼吸を整えると、昨夜の微かな温もりを信じるように、静かに王都の街へ踏み出した。
街は一見すると、いつもの穏やかな表情を保っていた。
市場では焼きたてのパンの匂いが立ち込め、店主たちの威勢のいい声が飛び交っている。
だが、注意深く視線を向けると、昨日まではなかった異様な「違和感」が王都の至る所に影を落としていた。
騎士団の詰所の前には、紋章を伏せた見慣れない重装馬車が横付けされている。
見上げれば、魔術師団が佇む塔の窓は分厚い鉄板で固く閉ざされ、異様な静寂を保っていた。
「おかしいな……辺境からの正式な戦況報告が、いつまで経っても降りてこないんだ」
「文官どもが朝から顔色を変えて書類を抱えて走ってるぜ」
市場の片隅で囁き合う人々の声。
日常の喧騒の隙間から滑り込んでくる不穏な空気は、確実に王都の皮膚を削り取るように忍び寄っていた。
手掛かりを求め、シーンは再び魔術研究院の地下深くへ向かった。
しかし、昨日入ることができた特別書庫の重い鉄扉の前には、数人の上級魔術師たちが立ち塞がっていた。
扉には重厚な封印の術式が真新しく刻まれ、怪しい光を放っている。
「申し訳ないが、今日からこの区画の閲覧制限が拡大された。何者も立ち入りは許されない」
昨日の噂は、やはり事実だった。
王都の上層部が、何かを隠そうと急速に動き出している。
ウエスの身に起きた異変と、王都のこの異様な統制は、間違いなく繋がっている。
シーンはすがるように胸元の共鳴石に触れた。
その瞬間──石の奥で、異様な変化が起きる。
いつものウエスの弱々しい波長に混ざり込むように、まるで鉄を叩きつけるような「硬く冷たい干渉」が、一瞬だけ共鳴石を硬直させた。
ウエスの魔力でも、自然の歪みでもない。
誰かが意図的に、ウエスの周囲の魔力を強引に押さえつけようとしているような、意図的な拒絶の感触。
(何かが……ウエスの周りに迫っている……?)
胸を突く激しい寒気に、視界が一瞬白く霞む。
シーンは壁に手をつき、荒い呼吸を整えながら、何とか踏みとどまった。
夕方になるにつれ、王都の空気は加速度的に冷え込んでいった。
街角には魔術師団が持ち出した謎の観測装置が設置され、街を巡回する騎士たちの数も明らかに増えている。
市民たちもただならぬ気配を感じ取ったのか、早々と店を閉め、家路を急ぎ始めていた。
夜、静まり返った部屋の中で、シーンは一人燭台の火を見つめていた。
胸元の共鳴石を取り出す。
昨夜のような明確な温もりが戻ってくることはなかった。
手に伝わるのは、ただただ冷たく、鋭く張り詰めた不気味な振動だけ。
それでも、シーンの瞳に宿る光は消えなかった。
あの「硬い干渉」の中でも、共鳴石の奥底では、かすかに、けれど規則正しく「トントン」と鼓動のような揺らぎが刻まれ続けている。
ウエスは絶望的な状況の中で、今も必死に抗い、生きている。
(ウエス……あなたは負けない。私には分かってる……)
共鳴石を握りしめるシーンの決意とは裏腹に、彼女の窺い知れぬところで、世界は確実に破滅と混沌へと傾き始めていた。
夜深く──。
王都外門近くの静寂を破り、甲冑の擦れ合う音が響く。
身元を隠した騎士たちが、一人の男を闇へ引きずっていった。
同じ頃。
遥か辺境の夜空が、一瞬だけ禍々しい紫に染まる。
そして城の最上階──重臣たちが集う幹部室の窓には、丑の刻を過ぎてもなお、消えることのない冷たい灯りが揺らめき続けていた。




