【第二十八話】 冷たい暗雲と、消えない温もり
夜明けの王都は、いつもと変わらず静かで穏やかだった。
しかし、胸の奥に差し込むような冷たい痛みに、シーンは静かに目を覚ます。
薄暗い部屋のなか、息を殺すようにして枕元の共鳴石にそっと触れてみるが、指気に返ってくるのは弱々しく不規則な揺らぎだけ。
冷えて縮こまるような重苦しい気配が、石の奥から微かに滲み出ていた。
「お母さん……」
静かに起きてきた八歳のセレンが、不安そうにシーンの衣服の裾をギュッと握りしめてくる。
小さな体はほのかに震えていた。
「お父さんの音……まだ、黒いよ……」
シーンは浅くなる呼吸を隠すように息を呑み、セレンの髪を優しく撫でながら、震えそうな唇を必死に噛み殺した。
自分の弱さを子どもに見せるわけにはいかない。
「大丈夫よ、セレン。お父さんは……絶対に負けないから。大丈夫だからね」
朝の市場は、いつものように賑やかな活気に満ちあふれていた。
焼きたてのパンの香ばしい匂い、威勢のいい店主たちの呼び込み、時刻を告げる鐘の音、石畳を威厳たっぷりに叩く騎士たちの靴音。
この平和で何一つ変わらない王都の日常のただ中で、自分たちだけが異質な闇に取り残されているような恐ろしい孤独感が、シーンの胸を締め付ける。
セレンの手を固く引き、向かったのは魔術研究院の地下深くにある重々しい特別書庫だった。
そこは通常閲覧が制限され、禁書を保管する鎖の触れ合う音や、壁に刻まれた封印の術式が微かな魔力の残り香となって漂う薄暗い空間だった。
棚の隙間には、精神測定用の歪んだ魔導具や、未知の術式を封じ込めたガラス管が禍々しい光を湛えて並んでいる。
シーンは埃っぽい棚の奥から引き抜いた一冊の羊皮紙本──『古代呪詛学と精神侵蝕』の厚い革表紙を、冷え切った指先で固く握りしめる。
ウエスの身に今何が起きているのか、その命を繋ぎ止めるすべはないのか。
すがるような思いで、幾度も読み返したはずのページへ必死に視線を走らせる。
指先は感覚を失うほど凍え、本をめくる速度すらもどかしい。
「黒いの……お父さんの音の後ろで……まだ息してる……」
袖を引っ張るセレンの呟きに胸を刺されながらも、シーンはすがるように文字を追い続けた。
怯える幼いセレンを抱きしめて守ってあげたい。
けれど、遠くで命を削るウエスを救う手がかりも諦められない。
何一つできない己の無力さと板挟みの痛みが、胸を締め付ける。
(……絶対に、手がかりを見つけるわ。待っていてね、ウエス……)
研究院を後にし、夕暮れに染まり始めた街の雑踏を歩いていると、すれ違う通行人の話し声がふと耳に飛び込んできた。
「おい、聞いたか? 辺境の警備隊がかなりの重傷を負ったらしいぞ」
「遠征中の部隊が襲われたとか……第九隊が壊滅したんじゃないかって噂だ」
ピタリと足を止め、シーンは息を呑んだ。
近くの駐屯地の門前でも、騎士たちが引きつった顔でひそひそと囁き合っている。
通りかかった魔術師たちが「辺境の方角で急激な魔力の歪みが観測された」と深刻な顔で話し込んでいるのも聞こえた。
誰一人として「ウエス」の名を明確に口にする者はいない。
だからこそ、真偽の分からない不吉な噂ばかりが脳裏を駆け巡る。
絶え間ない緊張と恐怖で心臓の鼓動は鈍い痛みに変わり、視界の端が白い霧で覆われたように霞んでいくような感覚に襲われながらも、シーンは近くの石壁に手をついて必死に耐えた。
家に帰り着くと、深い夕闇が部屋を包み込んでいた。
不安と疲れからぐったりとしたセレンをベッドに寝かせ、掛け布団を丁寧に直してやる。
幼い娘はシーンの指を強く握ったまま、やがて小さな寝息を立て始めた。
部屋に灯した小さな燭台の火だけが、静かに揺れている。
セレンの手をそっと解き、一人になったシーンは、胸元から愛おしそうに共鳴石を取り出した。
手に伝わるのは、冷たくかすかな揺らぎ。
ウエスが己の限界を超え、命を削りながら戦っていること。
そしてそのすぐ側に、底知れない恐ろしい悪意が渦巻いていることが、胸が張り裂けそうなほど伝わってくる。
「ウエス……お願い……」
共鳴石を両手で優しく包み込み、胸の真ん中に強く押し当てる。
溢れ出そうになる涙を必死にこらえ、浅い息を繰り返し吐き出しながら、静かに、けれど魂を振り絞るように祈った。
(私を置いていかないで……。本当は怖くてたまらないの……。今すぐに飛んでいって、あなたを抱きしめたい……。お願い、あなたがいない世界なんて……私……)
どれほど心が折れそうになっても、どれほど己の無力さに立ち尽くしても。
ここでウエスの無事を信じ、帰る場所を守り続ける。
それが、遠く離れたこの場所で自分にできる唯一の戦いだから。
その時──。
すっ、と両手の隙間から、ほんの僅かな「温もり」が伝わってきた。
消えかけていた燭台の火が、一瞬だけ強く揺らぐような、小さく、けれど確かに熱い手応え。
冷え切っていた指先へ浸透していく、確かな熱があった。
ほんの一瞬でその温もりはかき消えてしまったけれど、耐え続けていたシーンの目から、大きな涙の粒がぽろぽろと頬をこぼれ落ちた。
共鳴石をすがるように頬へ寄せ、シーンは掠れた声で愛おしそうに呟く。
「……生きてる……。あなたは……生きてる……」
その確信だけを胸に抱きしめ、シーンの長い長い夜が更けていく──。




