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辺境の元英雄と光の癒し手 -共鳴の絆-  作者: もちすけ34


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【第二十六話】 届く声、重なる約束

朝の光は、いつもと変わりなく柔らかく優しかった。


香ばしく焼き上がったパンの匂いが小さな台所に満ち、セレンの弾むような笑い声が静かに響く。


焼き立てのパンにバターを塗り、温かいスープを並べ、セレンの柔らかい髪に櫛を通す──。


長年守り続けてきた、愛おしく穏やかな「我が家の日常」。


しかし、シーンの胸の奥には依然として、昨夜駆け抜けた冷たい激痛の残滓が刺さったままだった。


(……ウエス。あなた、まだ苦しんでいるの……?)


服の上から指先で触れる共鳴石は、まだ頼りなく冷たく沈んだままだ。


セレンも時折り、小さな手で自分の胸元を不安そうにさすり、母の顔を伺うような仕草を見せていた。


市場の喧騒も、石畳を行き交う人々の活気も平和そのもの。


だがシーンの肌には、日常の裏側に潜むほんの少しの「異物」のような静かな不穏がまとわりついて離れなかった。


午前中、セレンの手を引いて再び向かった魔術研究院の大書庫。


古書特有の乾いた匂いが漂う中で、ページを繰るシーンの指がピタリと止まった。


『──魔脈における黒色混濁の発生要因』


黄ばんだ羊皮紙に記されていたのは、魔神の呪いでも、異形の術式でもなかった。


『黒き濁りは、魔脈の乱れにして、心の歪みの影なり──』


シーンの呼吸がひゅっと止まる。


(……魔物や呪いじゃない……“人間の悪意”……? ウエスの魔力に絡みついていたあの黒い音の正体は……誰かの強い、恐ろしい悪意なの……?)


理由のわからない恐怖から、明確な「誰かの存在」へと不気味な影が形を変える。


その帰り道、夕暮れに染まる街角でセレンがふと立ち止まり、握られた母の手をキュッと握り返した。


「……お母さん。お父さんの音、昨日より少しだけ……あったかいよ」


「え……?」


シーンが目を見開く。


セレンは胸元へ手を当て、遠くを見つめるように言葉を紡いだ。


「黒いのがね……お父さんの音の後ろで、冷たい手みたいに、ぎゅって掴んでるの……」


やはり、ウエスは戦っている。


見えない何か──恐ろしい悪意の手と。


家に戻ったシーンは、静かに共鳴石を握りしめた。


「……ウエス。あなたが帰ってくるまで……私にできることを、全部やるから」


不安に震えるだけの妻ではない。


愛する夫の帰る場所を守り抜くため、シーンの瞳に強い決意の光が灯り始めていた。


夜。


セレンが規則正しい寝息を立て、部屋が静寂に包まれた頃。


シーンはベッドの端に腰掛け、胸元の共鳴石にそっと両手を重ねて目を閉じた。


その瞬間──。


狂ったような揺らぎではなく、ふっと石が静かに震え、微かな風が頬を撫でるような温かい気配が届いた。


『……シーン。聞こえるか』


シーンの胸がどくんと跳ね上がった。


「ウエス……! 無事なの……!?」


『……ああ。少し手痛い目にはあったが……大丈夫だ』


共鳴石越しに届くウエスの声は意図して明るく作られていたが、その端々には隠しきれない疲労と痛みが滲んでいた。


その瞬間、シーンの眉がぴくりと跳ね上がった。


「少し……? その言い方、絶対に“少し”じゃないでしょ……!」


『……肩を、少し切られただけだ。手当ては受けた。何の問題もない』


ウエスの困ったような苦笑いが脳裏に浮かぶ。


だが、シーンは息を呑み、沈黙した。


石を通じて伝わるその重苦しい沈黙が、激しい怒りと涙の前触れであることを、ウエスは肌で理解した。


「……でも、声が聞けてよかった……本当、生きていてくれて……」


溢れそうになる感情で、シーンの声が小刻みに震える。


「だから余計に腹がたつの……! 『少し』なわけないでしょ……! あなた、昨日……私が立っていられないくらい胸が痛くなるほどの状態だったのよ……!?」


『……すまん』


「あなた、また無茶をしたんでしょ……!? 誰かを守るためなら自分はどうなってもいいって……そうやって傷ついていいんだって、そんな顔をして笑ってるんでしょ……!?」


痛いところを突かれ、ウエスは言葉を詰まらせた。


昔から変わらない己の悪癖。


自分を盾にして仲間を守る生き方。


『……俺が前に立てば済む話だ。誰かが傷つくくらいなら、俺が傷つけばいい』


「それ……やめてって言ったよね……!?」


シーンの声が涙を堪えて跳ね上がった。


「“私より先に死なない”って……あなた、私に言ったよね……!?」


胸を突く言葉に、遠く離れた治療所でウエスは痛む胸を固く突き上げられた。


『……ああ。言った』


「だったら……守ってよ! その約束を……何があっても守ってよ……っ!」


ポロポロと頬をこぼれ落ちる涙。


シーンは必死に息を整え、震える声を振り絞って、しかし力強く紡いだ。


「……あなたが生きて無事に帰ってくることが……私とセレンの“日常”なんだから……!」


石の向こうで、ウエスが深く、深く息を吐く気配が届いた。


己が守るべきものが何であるかを、改めて魂に刻み込むような、重く温かい吐息。


『……すまん。もう無茶はしない。……お前を、絶対に泣かせたくない』


「……うん」


『……必ず帰る。お前たちのところへ』


遠く離れた辺境と王都。


共鳴石がぽっと柔らかな温もりに包まれて光り、二人の魔力が、静かに、そして深く重なり合った。

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