【第二十六話】 届く声、重なる約束
朝の光は、いつもと変わりなく柔らかく優しかった。
香ばしく焼き上がったパンの匂いが小さな台所に満ち、セレンの弾むような笑い声が静かに響く。
焼き立てのパンにバターを塗り、温かいスープを並べ、セレンの柔らかい髪に櫛を通す──。
長年守り続けてきた、愛おしく穏やかな「我が家の日常」。
しかし、シーンの胸の奥には依然として、昨夜駆け抜けた冷たい激痛の残滓が刺さったままだった。
(……ウエス。あなた、まだ苦しんでいるの……?)
服の上から指先で触れる共鳴石は、まだ頼りなく冷たく沈んだままだ。
セレンも時折り、小さな手で自分の胸元を不安そうにさすり、母の顔を伺うような仕草を見せていた。
市場の喧騒も、石畳を行き交う人々の活気も平和そのもの。
だがシーンの肌には、日常の裏側に潜むほんの少しの「異物」のような静かな不穏がまとわりついて離れなかった。
午前中、セレンの手を引いて再び向かった魔術研究院の大書庫。
古書特有の乾いた匂いが漂う中で、ページを繰るシーンの指がピタリと止まった。
『──魔脈における黒色混濁の発生要因』
黄ばんだ羊皮紙に記されていたのは、魔神の呪いでも、異形の術式でもなかった。
『黒き濁りは、魔脈の乱れにして、心の歪みの影なり──』
シーンの呼吸がひゅっと止まる。
(……魔物や呪いじゃない……“人間の悪意”……? ウエスの魔力に絡みついていたあの黒い音の正体は……誰かの強い、恐ろしい悪意なの……?)
理由のわからない恐怖から、明確な「誰かの存在」へと不気味な影が形を変える。
その帰り道、夕暮れに染まる街角でセレンがふと立ち止まり、握られた母の手をキュッと握り返した。
「……お母さん。お父さんの音、昨日より少しだけ……あったかいよ」
「え……?」
シーンが目を見開く。
セレンは胸元へ手を当て、遠くを見つめるように言葉を紡いだ。
「黒いのがね……お父さんの音の後ろで、冷たい手みたいに、ぎゅって掴んでるの……」
やはり、ウエスは戦っている。
見えない何か──恐ろしい悪意の手と。
家に戻ったシーンは、静かに共鳴石を握りしめた。
「……ウエス。あなたが帰ってくるまで……私にできることを、全部やるから」
不安に震えるだけの妻ではない。
愛する夫の帰る場所を守り抜くため、シーンの瞳に強い決意の光が灯り始めていた。
夜。
セレンが規則正しい寝息を立て、部屋が静寂に包まれた頃。
シーンはベッドの端に腰掛け、胸元の共鳴石にそっと両手を重ねて目を閉じた。
その瞬間──。
狂ったような揺らぎではなく、ふっと石が静かに震え、微かな風が頬を撫でるような温かい気配が届いた。
『……シーン。聞こえるか』
シーンの胸がどくんと跳ね上がった。
「ウエス……! 無事なの……!?」
『……ああ。少し手痛い目にはあったが……大丈夫だ』
共鳴石越しに届くウエスの声は意図して明るく作られていたが、その端々には隠しきれない疲労と痛みが滲んでいた。
その瞬間、シーンの眉がぴくりと跳ね上がった。
「少し……? その言い方、絶対に“少し”じゃないでしょ……!」
『……肩を、少し切られただけだ。手当ては受けた。何の問題もない』
ウエスの困ったような苦笑いが脳裏に浮かぶ。
だが、シーンは息を呑み、沈黙した。
石を通じて伝わるその重苦しい沈黙が、激しい怒りと涙の前触れであることを、ウエスは肌で理解した。
「……でも、声が聞けてよかった……本当、生きていてくれて……」
溢れそうになる感情で、シーンの声が小刻みに震える。
「だから余計に腹がたつの……! 『少し』なわけないでしょ……! あなた、昨日……私が立っていられないくらい胸が痛くなるほどの状態だったのよ……!?」
『……すまん』
「あなた、また無茶をしたんでしょ……!? 誰かを守るためなら自分はどうなってもいいって……そうやって傷ついていいんだって、そんな顔をして笑ってるんでしょ……!?」
痛いところを突かれ、ウエスは言葉を詰まらせた。
昔から変わらない己の悪癖。
自分を盾にして仲間を守る生き方。
『……俺が前に立てば済む話だ。誰かが傷つくくらいなら、俺が傷つけばいい』
「それ……やめてって言ったよね……!?」
シーンの声が涙を堪えて跳ね上がった。
「“私より先に死なない”って……あなた、私に言ったよね……!?」
胸を突く言葉に、遠く離れた治療所でウエスは痛む胸を固く突き上げられた。
『……ああ。言った』
「だったら……守ってよ! その約束を……何があっても守ってよ……っ!」
ポロポロと頬をこぼれ落ちる涙。
シーンは必死に息を整え、震える声を振り絞って、しかし力強く紡いだ。
「……あなたが生きて無事に帰ってくることが……私とセレンの“日常”なんだから……!」
石の向こうで、ウエスが深く、深く息を吐く気配が届いた。
己が守るべきものが何であるかを、改めて魂に刻み込むような、重く温かい吐息。
『……すまん。もう無茶はしない。……お前を、絶対に泣かせたくない』
「……うん」
『……必ず帰る。お前たちのところへ』
遠く離れた辺境と王都。
共鳴石がぽっと柔らかな温もりに包まれて光り、二人の魔力が、静かに、そして深く重なり合った。




