【第二十五話】 カイル・ヴァルド
治療所に漂う香草の匂いと消毒薬のツンとした臭気は、戦いの生々しい記憶を何一つ押し流してはくれなかった。
包帯を巻かれた腕、痛む体に顔を歪める音、そして時折響く硬い溜息。
ウエス隊の全員が傷を抱えて横たわり、あるいは床に腰を下ろしていた。
だが、彼らの胸を重く締め付けているのは、肉体の痛みなどではなかった。
あの谷間で彼らを完膚なきまでに叩きのめした、あの男の存在──。
「……なぁ、隊長」
ガレンが、痛む肩を叩かれながら眉間に深くシワを寄せた。
「あの男の着てた鎧……ただの粗悪な鉄じゃねえ。……あれ、騎士団の“旧式近衛用”の意匠が入ってやがった。傷だらけで紋章は削られてたが、間違いねえ」
「ああ……それに、伏兵の配置も斥候の連携も完璧だった」
ミレイユが青ざめた顔で自分の膝を抱え込み、震える声を絞り出す。
「魔術の詠唱のタイミングまで見切られていた……。あんな動き、野盗どころか、長年戦場を潜り抜けてきた『軍人』そのものよ……」
「……僕の、踏み込みも……」
ユアンは破れた袖から覗く自分の手のひらを見つめていた。
指先が、まだ微かに震えている。
「叩き込まれた基本の形だったのに……合わせた瞬間に、全部読まれてました。まるで……僕がどう動くか、最初から知っていたみたいに……」
言葉が途切れ、治療所に重苦しいざわつきと沈黙が交互に押し寄せる。
その時──。
部屋の隅で粉々に砕けた盾の破片を静かに磨いていたドレイクが、ぽつりと重い一言をこぼした。
「……あの鎧。昔、見たことがある」
治療所の空気が、一瞬でピンと張り詰めた。
全員の視線が、最も古参である五十一歳のベテラン騎士へと集まる。
ドレイクは視線を上げず、ただ手に持った布を止め、短く続けた。
「踏み込みも……剣の角度も……同じだ。若い頃のウエス隊長と、対峙していた男のな」
多くは語らない。
しかし、長年ウエスと共に歩んできた古参騎士だからこその“確信に近い重み”が、全員の背筋を冷たく撫で上げた。
ウエスは静かに目を閉じ、ベッドの端に腰掛けたまま沈黙を守っていた。
肩口の傷が痛むが、その瞳は深く、どこか過去の暗がりを見つめているようだった。
やがて、重い息を吐き出すと、静かに口を開いた。
「……あいつは、俺の立ち回りも、癖も……すべてを知っていた」
隊員たちが息を呑む。
ウエスはゆっくりと視線を上げ、その「影」の名を呼んだ。
「カイル・ヴァルドだ」
その名前が落ちた瞬間、治療所の空気が完全に凍りついた。
ドレイクが短く、しかし静かに吐き捨てるように言った。
「……やっぱり、カイルか」
「隊長……そのカイルって男は、一体……」
ガレンの問いかけに、ウエスは自らの記憶の引き出しを重々しく開いた。
「昔……俺と同じ部隊にいた男だ。剣術の才能は群を抜いていた。判断力も高く、戦場では誰よりも頼りになるはずの男だった」
ウエスの声に、痛ましさが混じる。
「だが……軍の規律を守ることができなかった。弱者への過度な暴行、補給品の横領……騎士としては決して許されない行為を繰り返していた」
「……そんな奴を、隊長は黙ってみてたんですか?」
「ううん、違うわ」
ミレイユの呟きを遮るように、ウエスが首を振った。
「俺は……庇い続けた。指導すれば、いつか変わると信じていた。『まだ救える』と……何度も上層部に頭を下げて、やり直しの機会を与えた。……だが、カイルは変わらなかった」
ウエスの手が、固く拳を作った。
「上層部は厄介事を嫌って見てぬふりを決め込んだ。だから……俺が責任者として、軍の査問会であいつの除隊処分を進言した。……あいつを止めるのは、俺の役目だと思ったからだ」
「……じゃあ、あの男は……」
「ああ。カイルはそれを『信頼していた仲間からの裏切り』と受け取った。……俺に対する深い逆恨みを抱いたまま、軍を去ったんだ」
ガレンが絶句し、息を呑む。
自らが信じた仲間を救おうとし、救えなかった末の断罪。
それが今、牙を剥いてウエスに襲いかかっているのだ。
「……あの男、目が……本当におかしかったわ」
ミレイユが腕を抱きしめ、身体を小さく丸めた。
「人を斬ることに、微塵の迷いも恐怖もない……。まるで、人間の命を肉の塊としか思っていないような……」
「……僕の踏み込みを逸らした時……」
ユアンの脳裏に、カイルの冷たい嘲笑が蘇る。
「……僕が絶望したのを見て……嬉しそうに、笑ったんです。あの路地のチンピラたちと同じ……ううん、それ以上に恐ろしい『人間の悪意』そのものでした……」
「……弱い者を痛ぶるのが好きな奴だ。昔からな」
ドレイクの短い追悼のような言葉が、核心を突いていた。
カイル・ヴァルド。
彼は異形の魔神でも、おとぎ話の怪物でもない。
ただ、己の欲望と逆恨みによって『人間の悪意』を極限まで肥大化させた──人間という名の怪物だった。
「……俺は、あいつを救えなかった」
ウエスは深く静かに目を閉じた。
「庇って、言葉を重ねて……それでもダメだった。最後は俺の手で、あいつの騎士としての道を絶った」
ユアンはウエスの背中に漂う、耐えがたいほどの切なさと悲痛さに息を詰まらせた。
「だから……あいつの殺意はすべて、俺に向けられている。谷間で見せたあの狂気も……全部、俺に対する復讐だ」
ウエスは痛む肩を抱えながら、ゆっくりと立ち上がった。
その佇まいには、敗北の陰りではなく、一人の指揮官としての凄絶な覚悟が宿っていた。
「だが、ここで終わらせるわけにはいかない。第九隊を傷つけさせはしない。……次は、必ずあいつの正体を暴く。カイルが今、何を背負い、誰と繋がっているのか……そのすべてを、だ」
隊員たちは怪我の痛みを忘れ、ウエスの背中に静かに、そして深く頷いた。
王都で不安な胸を痛める家族のため、そして自分たちの尊厳を取り戻すため──ウエス隊の戦いは、本当の「因縁」へと向かい始めていた。




