【第二十四話】静かな調査と、泥にまみれた帰還
翌朝の王都は、昨日までと変わらぬ穏やかで優しい陽光に包まれていた。
活気に満ちた市場の喧騒、石畳を鳴らす衛兵の足音、遠くの教会から響く澄んだ朝の鐘──。
それら日常の色彩は、昨夜シーンを襲ったあの恐ろしい胸の痛みを、まるで嘘だったかのように静かに押し流しようとしていた。
しかし、シーンの胸の奥には依然として、冷たく尖った針のような不吉な不安が深く刺さったままだった。
(……あの“黒い音”。あれは、一体なんだったの……?)
セレンは朝起きてからも怯えた様子を消さず、片時も母の服の袖を離しようとしない。
シーンはそんな愛娘をそっと愛おしく抱きしめながら、胸元に下げた共鳴石へ手を伸ばした。
石は、まだ冷たく沈み込んでいた。
昨夜のような狂ったような激しい乱れこそ収まっているものの、そこから伝わるウエスの魔力の脈動はか細く、いつもの頼もしい温もりを完全に失っていた。
シーンは固く唇を噛み締め、決意を固めた。
(ただ無事を祈って待っているなんて、やっぱりできない……。私にできることを探さなきゃ)
セレンの手をしっかりと握り締め、シーンは王都の中心にそびえる魔術研究院へと足を運んだ。
研究院の重厚な大書庫は、古い羊皮紙と乾いたインク、そしてかすかな薬草の匂いで満ちていた。
シーンは顔なじみの司書に頭を下げて頼み込み、魔術理論や感応現象に関する古い文献をテーブルの上に山積みにした。
『魔力の波長異常とその症例』
『遠隔共鳴における空間干渉』
『精神汚染と魔脈の歪み』──。
片っ端から本を開き、ページをめくる指が微かに震える。
(魔力の乱れ……精神汚染……遠知の呪詛……。ううん、違う、どれも当てはまらない。あの音はもっと……冷酷で、恐ろしい“悪意”の塊みたいだった……)
セレンはシーンの隣の椅子に静かに腰掛け、母の必死な手元をじっと見つめていた。
その小さな手が、不意にシーンの服を引く。
「お母さん……昨日の“黒い音”、まだ少し残ってるよ」
シーンの心臓がドクンと跳ね上がった。
「残ってる……? セレン、それはお父さんの音に……まだ何かが絡みついているっていうこと……?」
「うん……お父さんの音のうしろで、くろいのが……じっと息をしてるみたい……」
背筋を冷や汗が伝う。
胸の奥の刺すような痛みが、再びじわりと広がっていく。
シーンは震える手で重い書物をそっと閉じた。
(……ウエス。あなた、一体どこで……誰と戦っているの……?)
その頃──王都から遠く離れた辺境の第九駐屯地では、緊張で張り詰めた見張り台の兵士が、金切り声を上げて叫んでいた。
「第九隊だ! 第九隊が戻ったぞ! ……おい、医療班を呼べ! 負傷者多数だ!!」
重い木製の門がぎぎぎと悲鳴を上げて開かれる。
そこから入ってきたのは、朝靄と泥、そして乾いた血の匂いに塗れた、凄惨な様相の第九隊だった。
ガレンは苦悶の表情で激痛の走る肩を押さえ、ドレイクは半分から叩き割られた自慢の盾の残骸を抱え込むように歩いている。
ミレイユは魔力を底まで使い果たし、青ざめた顔で青息吐息だった。
そして──ユアンは、刃の欠けた剣の柄を握りしめたまま、全身をガタガタと震わせていた。
隊の先頭に立つウエスは、威厳を保ち泥を踏みしめていたが、その肩口から胸元にかけては痛々しい深い切り傷が走り、一歩歩くごとに朱い血が泥の上へ滴り落ちていた。
「隊長! 一体何があったんですか!?」
駆け寄ってきた駐屯地の兵士たちが、惨状に目を見開きながら問いかける。
ウエスは痛みに耐えながら、低く掠れた声で短く答えた。
「……想定していた敵の規模が違った。ただの野盗などではない……軍人だ。それも……俺の立ち回りや癖を熟知している手練れだ」
その一言に、周囲の兵士たちの空気が一瞬で氷のように重く冷え切った。
正規の訓練を受けた元軍人、しかも隊長を知る者──それが辺境の闇に潜んでいるという事実。
負傷者として治療所へ運ばれていく隊員たちの後ろで、ユアンはふと足を止めた。
痛む脇腹を押さえ、泥に汚れた自分の足元を見つめる。
幼い頃、あの薄暗い裏路地で感じた“人間の底知れない悪意”。
そして今日、あの谷間で突きつけられた、カイルという男の“圧倒的な殺意と絶望”。
胸の奥がきゅっと収縮し、息が詰まる。
(……僕、まただ。前に出るって誓ったのに……結局、何もできなかった……。助けられるどころか、足手まとしにすら……)
悔しさと無力感が涙となって溢れそうになったその時。
手当てのために担架へ向かおうとしていたウエスが立ち止まり、静かに振り返った。
そして、泥と汗で汚れたユアンの肩へ、重く温かい手をそっと置いた。
「ユアン」
「……隊、長……」
「恐怖を感じたのなら……それでいい。自分がどれほど小さく、無力かを知ることは、強くなるための始まりだ」
ウエスは鋭い痛みに眉をひそめながらも、力強い目でまっすぐにユアンを見つめた。
「次は……その恐怖を乗り越えるために、もう一度剣を握れ」
ユアンは破れかぶれに唇を噛み締め、溢れそうになる涙を必死にこらえながら、力強く深く首を縦に振った。
王都の静寂な書庫で、言い表せないような不安に耐えながら不吉な影の正体を追い続けるシーン。
辺境の凄惨な治療所で、泥と血の傷を抱えながら再起を誓うウエス隊。
遠く離れた二つの場所で、同じ“黒い揺らぎ”が、不気味に、そして確実にその勢力を広げようとしている事を二人はまだ知らない──。




