【第二十三話】静かな揺らぎ、胸の奥の痛み
夜の家は、いつもと変わりなく静かだった。
窓の向こうには静謐な月光が広がり、風が庭の木々を優しく揺らす音が微かに届いている。夕食の片付けもとっくに終わり、小さなベッドの上では、娘のセレンが掛け布団に包まれて規則正しい寝息を立てていた。
──それなのに、シーンの胸の奥は、理由のない酷い激痛にぎゅっと締め付けられていた。
(……くっ……なに、これ……)
浅い呼吸を繰り返すたび、肺の奥まで凍りつくような冷気が広がる。まるで冷酷な何者かの手によって、胸の中の心臓を直接掴まれて締め上げられているかのような苦しさだった。
シーンは震える手で、首から下げた共鳴石をそっと服の上から握りしめた。
いつもなら、遠く離れたウエスの穏やかで力強い“魔力の脈動(音)”が微かに届き、この石を通じて彼女の胸の奥を温かく満たしてくれるはずだった。
しかし、今夜の共鳴石は──あまりにも弱く、頼りなく、まるで深い霧の中で道を失った篝火のように、細く歪に揺れていた。
「……大丈夫。きっと……何でもない、大丈夫……」
自分自身を必死に宥めるように、声に出して呟いてみる。
けれど、言葉を重ねれば重ねるほど、胸を塞ぐ恐怖と苦しさは増すばかりだった。ポロリと一粒の涙が零れ落ち、共鳴石の表面で冷たく弾けた。
「私が……しっかりしなきゃダメなのに……。ウエスは大丈夫。絶対に、帰ってくる……」
そう言い聞かせる自分の声が、情けなく震えているのを隠しきれない。胸の奥から湧き上がる不吉な予感は、どんなに押し込めようとしても、暗い水のように静かに滲み出してくるのだった。
「……どうして……こんなに胸が痛いの……」
答えのない小さな本音が、深夜の静寂の中に虚しく溶けていった。
その時──手のひらの中の共鳴石が、ふっと狂ったように途切れ、弱く激しく脈打った。
それはまるで、遠く離れた場所で誰かが猛烈な衝撃を受け、泥の中に倒れ込んだ瞬間をそのまま映し出したかのような、あまりにも不吉で不安定な揺れ方だった。
シーンは胸の奥がひゅっと縮み上がり、血の気が引いていくのを感じた。
(……っ!? ウエス……!?)
石を握りしめる指先にギュッと力が入る。
しかし、石はそれ以上の反応を返してはくれなかった。ただか細く、いつ途切れてもおかしくないような、冷たい揺らぎを繰り返すだけだった。
その時だった。
さっきまで布団の中で静かに眠っていたはずのセレンが、ふらりと起き上がり、ベッドから足を下ろした。
「……お母さん」
ぽつりとこぼされた、幼い声。
シーンは驚いて目元を拭い、振り返った。
「どうしたの、セレン。悪い夢でも見たの……?」
「……お父さんの音、すごく弱いよ」
シーンの心臓が、ドクンと跳ね上がった。
「え……?」
セレンは夢遊病者のようにゆっくりと歩み寄り、シーンが握りしめる共鳴石をじっと見つめていた。その大きな瞳は、大人の目には見えない“何か”を確かに感じ取っているかのように、哀しく揺れている。
「いつもの……あったかいお父さんの音じゃないの……。なんか……冷たくて、黒いのが混ざってる……」
シーンは息を呑んだ。セレンは生まれつき、他者の魔力の波長を感覚的に読み取る鋭い感性を持っていた。
(黒い音……? 単なる怪我の激痛じゃない……何か異質な存在の影が、ウエスに絡みついているの……?)
胸の奥の痛みが、さらに強く、鋭くシーンを苛む。
セレンは不安そうに眉をひそめると、シーンの服の袖を幼い手でぎゅっと掴んできた。
「お母さん……泣いてるの……?」
「……ううん、大丈夫。大丈夫よ、セレン。お父さんは強い人だもの。きっとすぐに、元気に帰ってくるから……」
言いながらも、シーンの声音は小刻みに揺れていた。セレンはその声の震えから母親の恐怖を感じ取ったのか、すがるようにシーンの胸元へ顔を埋めた。
「……すごく、怖い音だよ……。お父さんの音が小さくなってる………」
シーンの背筋に、氷を滑らせたかのような戦慄が走った。
(小さく……!? まさか……ウエスの身に何か………?)
言葉にできない薄気味悪い胸の痛みが、確固たる『危機』として脳裏に結像する。
シーンはセレンの小さな頭を優しく撫でながら、共鳴石を自分の胸へ強く抱きしめた。
(ウエス……どうか、帰ってきて……。お願いだから……)
今は祈る事しかできなかった。




