【第二十二話】 絶望の刃、折れる牙
谷間を吹き抜ける風は、泥と湿った霧の匂いを孕んでいた。
両脇に切り立った無骨な岩肌が迫り、視界を遮る白い煙幕のように濃い霧がゆったりと流れていく。足元はぬかるみ、踏み出すたびに重い足音が谷間に響いた。ここを進む限り、逃げ道は前か後ろの細い一本道しかない。
ウエス隊は隊形を絞り、息を殺して進んでいた。
ユアンは、柄を握りしめる自らの右手が嫌な汗で滑るのを感じていた。心臓が胸を直接叩いているかのように早く、高く跳ねている。頭の隅で、あの日──あの薄暗い裏路地で自分を追い詰めた男たちの、ヘラヘラとした冷たい目が不意に脳裏をよぎった。
(……怖い。息がうまくできない……。でも……僕は決めたんだ。隊長の横に立つって……逃げないって……!)
脳裏に、直前の休憩でかけられたウエスの低い声が静かに蘇る。
『恐怖を感じることは弱さじゃない。……それを知っている者の恐怖は、盾になる』
ユアンは胸の奥でその言葉を何度も反芻した。深く、深く息を吸い込み、ガタガタと震える膝に力を込めると、泥を踏みしめて前へ足を一歩踏み出した。
「……隊長。これ、野盗の歩き方じゃねえぞ」
先頭のすぐ後ろで盾を構えていたガレンが、不意に足を止めて眉をひそめた。
霧の奥から届く音。カサカサという雑多な摩擦音ではない。規則正しく、一定の刻みで地面を蹴る、統制された足音。
次の瞬間、ぬかるんだ空気を切り裂くようにして霧が割れた。
岩陰に配置された伏兵たち。高所の棚岩から弓を構え下ろす斥候。無駄のない、あまりにも洗練された陣形──それは野盗の集団などではなく、明確な意思を持って配置された『軍隊』のそれだった。
そして──その中心から、一人の男がゆっくりと歩み出てきた。
男の名は、カイル・ヴァルド。
身につけた鎧は無数の刃傷と打痕に塗れ、幾多の死線をくぐり抜けてきた生々しい歴史を物語っていた。しかし、その右手に握られた長剣だけは──異様なまでに澄んだ光を放ち、美しく研ぎ澄まされている。
ウエスはまだ、霧の向こうの顔を捉えきれていない。だが、カイルはウエスの立ち姿を一目見た瞬間、その薄い唇を不気味に歪めた。
「……へえ。こんな辺境に、“正規騎士”の無駄のない動きをする奴がいるとはな」
低く、どこか楽しげな声。それが発せられた瞬間、谷間を包む空気が一凍え分ほど急激に冷え込んだような錯覚を、全員が覚えた。
「敵襲! 陣を保て!」
ウエスの短く鋭い号令とともに、隊が動く。
ガレンが前に飛び出し、前衛として大盾を構える。ドレイクが後衛の隙を埋めるべく絶妙な位置取りに入り、ミレイユは即座に指先を立てて魔術の展開に取りかかる。
そして、ユアンは──恐怖に身体を苛まれ、指先までガタガタと震わせながらも、ウエスのすぐ横に躍り出た。
(怖い……死にそうだ……。でも、逃げない……! 今度こそ、僕が……!)
柄を握る手は汗で濡れ、剣先は微かに揺れている。それでも、彼の足は確かに前を踏み締めていた。
カイルのギラついた視線が、一瞬だけユアンの足元へ向けられる。
「……甘いな。見習いの踏み込みだ」
冷酷な一言。それだけで、ユアンの背骨を冷たい氷が駆け抜けた。
「うああああっ!」
ユアンは恐怖を鋭い咆哮で押し殺し、渾身の力を込めて踏み込んだ。ウエスから叩き込まれた基本の真っ直ぐな一閃。己の持てるすべてを懸けた、捨て身の斬撃。
だが──。
カイルは剣すら構えなかった。
カチ、と小さな硬質音が響く。カイルはただ、甲冑で覆われた自らの『手の甲』で、ユアンの放った刃の側面を軽く小突くだけだった。
それだけで、ユアンの全力の軌道は呆気なく逸らされ、空を切った。
キン、と虚しい金属音が谷間に響く。
「な……っ!? 僕の、剣が……手で……!?」
ユアンの瞳孔が限界まで見開かれる。
その瞬間、あの裏路地で身体に染みついた“人間の悪意”の記憶が一気に跳ね返ってきた。鉄の錆びた匂い、血と脂の混ざった生々しい悪臭。笑いながら自分をいたぶった男たちの冷酷な手。
カイルは嘲笑うように細い目を歪めた。
「力じゃない。お前の身体の癖が、打つ前から全部見えてるんだよ」
ユアンの肺がひゅっと縮み、空気を吸い込むことすら忘れる。
体勢を崩したユアンが立て直す間すら、カイルは与えなかった。一歩を踏み込むと同時に、鎧の鉄先がユアンの脇腹へと正確無比に蹴り抜かれる。
ドゴッ──!
鈍い衝撃音が谷間に鼓膜を揺らす。ユアンの身体は泥の上を滑るように激しく転がった。
「ぐはっ……!? ゲホッ……っ!」
呼吸が完全に止まる。肺が押し潰され、空気を求めて喉がヒィヒィと引きつった痙攣を起す。激痛と衝撃で視界が真っ赤に染まる。
「くそ……っ……立つんだ……立て……!」
泥に顔を押し付けながら立ち上がろうと腕に力を込めるが、肘が笑い、足がガタガタと震えてどうしても力が入らない。
ユアンは、全身の血が引いていく感覚の中で悟ってしまった。
(あの裏路地の……チンピラどもとは、次元が違う……。この男は……息をするように『人を斬る覚悟』を持って、何人も殺してきた人間だ……!)
絶望に満ちたその心の叫びは、声にならず、泥の中に消えていった。
「ユアン!」
ガレンが叫び、盾を構えて一気に突撃する。巨体に任せた全力のぶちかまし。
「邪魔だ」
カイルの短く冷ややかな呟きとともに、長剣が閃く。ガレンの自慢の大盾に鋭い一撃が叩き込まれた瞬間、信じられない衝撃波が走り、ガレンの巨体が盾ごと宙を舞って岩肌に叩きつけられた。
「ぐあっ……! 嘘……だろ……打撃の重さが……!」
「ガレン! くらえ!」
ドレイクがウエス隊の誇る強固な防御壁となり、カイルの目前に立ちはだかる。しかし、カイルはフッと息を吐くと、長剣の先をドレイクの盾のまさに『一線』へ収束させた。
ズドン!
一点に集中された規格外の突きは、ドレイクの構える厚い盾の中央を正確に穿ち、木と鉄の防具を粉々に砕いて弾き飛ばした。
「こんな……圧倒的な力が……っ!」
驚愕に目を見開くドレイク。さらに後方では、ミレイユが必死に呪文を紡いでいた。
「『集いし気流よ、激動の──』」
だが、カイルの視線はすでにミレイユを捉えていた。詠唱の三拍目──魔術が形を成す直前の隙を正確に見切り、影のように間合いを詰める。長剣の柄頭がミレイユのみぞおちを寸前でかすめ、集中を完全に破壊した。
「くっ……詠唱のタイミングまで……読まれている……!?」
ほんの数十秒。ウエス隊が誇る手練れの隊員たちが、ただ一人によって完膚なきまでに叩きのめされ、戦闘不能へと追い込まれた。
「下がっていろ、全員!」
重い声を上げ、ついにウエスが前に出る。愛用の剣を低く構え、油断なくカイルと対峙する。
カイルはゆっくりと剣を正眼に構え直すと、ウエスの踏み出す足の運びをじっと見つめ、クックッと低く笑い始めた。
「……変わらねえな、ウエス。守りに回る時、半歩だけ左足に重心を置くお前のその癖……昔から全然変わっちゃいねえ」
ウエスが大きく息を呑み、目を鋭く見開いた。
「……お前……誰だ」
カイルの瞳に、爛爛とした憎悪と冷酷な殺意が宿る。
「忘れたとは言わせねえぞ。……かつてお前が、『使えない』と切り捨てた男の名前をなぁ!」
カイルの剣が奔流となってウエスを襲う。
金属同士が激しく激突する甲高い音が何重にも重なり、火花が散る。ウエスは必死に応戦するが、自分の癖を知り尽くした動きの前に防戦一方へと追い込まれていく。
ギリッと刃が噛み合い、カイルの無理やりな押し込みから放たれた返しの刃が、ウエスの防具の隙間を裂いた。
ズバッ!
「くあっ……!」
ウエスの肩口から鮮血が舞う。膝を突きそうになるウエスを見下ろし、カイルは冷ややかに鼻で笑った。
「……ハッ、失望させたなウエス。昔のお前なら、こんなにも簡単に倒れなかったろうに。ひよっこ共を連れて隊長ごっこか? 牙も鈍りやがって……」
カイルの吐き捨てるような言葉が、傷口の激痛以上に重くウエスの胸に突き刺さる。
「隊長ーっ!!」
ミレイユの悲痛な叫びが谷間にこだまする。
血を吐きながら立ち上がったガレンが、破れかぶれの声を張り上げた。
「撤退だ!! 全員撤退!! 隊長を連れて逃げるぞ!!」
ドレイクが粉砕された盾を捨て、負傷したウエスの腕を抱え上げる。ミレイユが残された魔力を振り絞り、足元へ煙幕魔術を叩きつける。ボッと激しい煙が巻き起こり、濃い霧と混ざり合って周囲の視界を真っ白に染め上げた。
「……見苦しいな」
カイルは煙幕に向かって追撃の手を伸ばさなかった。ただ、冷たく研ぎ澄まされた長剣を鞘に収めると、去っていく気配に向かって低く吐き捨てるように呟いた。
「逃げろよ、ウエス。無様に、どこまでも逃げ惑え。……次は必ず、その首を跳ね切ってやる」
泥まみれになりながら、逃げていく第九隊。
ユアンはドレイクに引きずられるようにして谷間を抜けながら、激痛の走る脇腹を抱え、ただ地面を見つめていた。悔しさと、己の無力さと、なによりも心の底から湧き上がる絶望的な恐怖に、歯が割れんばかりに食いしばられる。
(僕……前に出るって決めたのに。強くなるって決めたのに……。何一つ……何もできなかった……!)
溢れ出す涙が泥と混ざり、ユアンの頬を汚していく。
胸の中にあった小さな灯火は、あまりにも圧倒的な「本物の悪意」の前に、完膚なきまでに打ち砕かれていた。




