【第二十一話】 揺れる刃の音、胸の奥の震え
森は、異様なほど静かだった。
頭上を覆う重々しい枝葉の隙間から差し込む光は僅かで、足元には湿った薄闇が澱んでいる。風が枝を揺らすかすかな音すら途絶え、鳥の囀りも、羽音一つさえない。まるで森という巨大な生き物そのものが息を潜め、これから訪れる何かをじっと待っているかのような、重苦しい静寂が辺りを支配していた。
ユアンは先頭を行く隊列の後ろを歩きながら、胸の奥がざわざわと蠢くのを感じていた。ぎゅっと握りしめた剣の柄。革のグリップ越しにも伝わるほど、手のひらにはじっとりと嫌な汗が滲んでいる。
(……なんでだろ。魔物の気配は、こんなに薄いのに……すごく、怖い)
喉の奥が乾き、呼吸がうまく整わない。背後から、努めて軽快な声が飛んできた。
「おいおいユアン、そんなガチガチな顔して歩いてると、魔物より先に味方をビビらせちまうぞ?」
ガレンが肩をすくめ、軽口を叩きながら己の盾をポンと叩く。だが、その声にはいつもの弾むような威勢の良さはなく、どこか上擦っていた。
リアナは緊張で硬くなった肩を小さくすくめ、弓の弦を何度も確かめている。ミレイユは無言のまま、周囲の魔力の揺らぎを読むように鋭く目を細めていた。大柄なドレイクだけが、変わらぬ重厚さで無言のまま周囲への警戒を怠らない。
そして先頭では、ウエスが静かに、だが着実に歩みを進めていた。
仲間たちもそれぞれに緊張を高めている。……だが、ユアンだけが感じている感覚は、彼らのそれとは根本的に違っていた。
胸の奥に、まるで“氷のように冷たい指”が直接触れているかのような、気味の悪い寒気。
(……これ、魔物の恐怖じゃない。知ってる……この感覚。あの裏路地で感じた……人間の悪意の匂いだ)
ひゅっと喉が狭まる。あの日、薄暗い路地裏で自分を囲んだ男たちの顔が浮かんでは消える。ヘラヘラと笑っているのに、目だけが酷く冷たかったあの視線。追いつめられ、刃物を突きつけられた時の、あの生きた心地のしなかった感覚が、容赦なく蘇ってくる。
森の奥へ進むにつれ、湿った泥の上に不自然な足跡が残されているのが目につき始めた。
ウエスが不意に足を止め、静かにしゃがみ込む。手袋を外した指先で、泥に刻まれた足跡の深さと幅を慎重に確かめた。
「……これは、ただの野盗や逃亡犯の歩き方じゃないな。足幅が均一だ。規律がある……高度に訓練されている奴らの足取りだ」
そのウエスの低く重い一言に、ユアンの背筋が凍りついた。
訓練された人間。足跡を見た瞬間、裏路地で自分を追い詰めた男たちの姿が、より鮮明な輪郭を持って脳裏にフラッシュバックする。鉄の錆びた匂いと脂の混ざった生々しい悪臭。笑いながら、ためらいもなく幼い自分へ刃を向けてきた、あの容赦のない手。
(……嫌だ。思い出したくない。助けて……)
足が竦み、膝がガクガクと震え出す。今すぐ剣を投げ捨てて、光の差す方へ逃げ出したいという強い衝動が押し寄せる。……だが、ユアンの足は止まらなかった。
(……逃げないって、決めたんだ。隊長の横に立つって……自分で選んだんだから)
震える拳を強く握りしめ、必死に自分を繋ぎ止める。そんなユアンの異変と限界に近い震えに、ウエスが気づいた。ふっと足を緩め、ユアンと視線を合わせる。
「……怖いか、ユアン」
直球の問いに、ユアンは言葉を詰まらせた。ここで「怖い」と認めてしまったら、積み上げてきたものが全て崩れ去り、またあの惨めで弱い自分に戻ってしまう気がしたのだ。声が出ず、ただ俯くことしかできない。
しかし、ウエスは責めることなく、淡々と、だが温かみのある声で言葉を継いだ。
「恐怖を感じることは、恥でも弱さでもない。お前は過去に一度、“人間の本当の悪意”を直接目にした。それを知っているからこそ抱く恐怖は……お前自身と、仲間を守るための『盾』になる」
「……僕の、恐怖が……盾に?」
「ああ。過信して油断する奴から死んでいく。恐怖を知る者だけが、真の警戒を持てる」
胸の奥に溜まっていた冷たい澱みが、ウエスの言葉によって少しだけ解けていくのが分かった。
(……隊長は、僕の弱さを切り捨てない。こんな僕を、受け入れてくれる……)
ウエスの圧倒的な懐の深さと優しさが、嬉しくもあり、同時に今の自分の情けなさを際立たせるようで、逆に胸を締めつけた。
その時、森の奥深く、鬱蒼とした茂みの陰で何かが微かに動いた。
カサリ、という極小の足音。ガレンが即座に反応し、シャキンと音を立てて剣を抜く。
「……チッ、魔物か!?」
ミレイユが即座に指先を立て、周囲の空間に意識を研ぎ澄ませる。
「……いいえ、魔力反応はありません。生き物の魔力特有の『揺らぎ』が皆無です」
「魔力がない……? じゃあ、風か何かの見間違いか?」
リアナが弓を構えたまま、息を呑んで視線を彷徨わせる。だが、ユアンだけは違っていた。背筋をじわじわと撫で上げるような、あの“冷たい気配”が確信に変わっていく。
(……違う。風なんかじゃない。魔物でもない……これは、人間の目だ。僕たちを……殺すために見つめている、冷酷な人間の視線だ……!)
息が詰まる。ウエスが小さく、鋭く呟いた。
「……谷間に入るぞ。一瞬たりとも気を抜くな」
隊長のその言葉は、森を包む不気味な静寂よりも遥かに重く、暗い予感を孕んで全員の胸に響いた。
危険地帯である谷間へと足を踏み入れる直前、隊は短い休息を取ることになった。駐屯地へ戻る前の最後の整列。パチパチと小さく爆ぜる焚き火の前で、ユアンは少しだけ隊列から離れ、一人になっていた。
膝の上に置いた剣の柄を見つめる。握りしめる手は、どれだけ力を入れても微かに震え続けていた。
(僕は……やっぱり弱い。ずっと怖いんだ。でも、もう二度と逃げたくない。隊長の横に並んで歩きたい。ガレンみたいに、どんな時も前を向ける強さが欲しい。リアナみたいに、周囲を明るくする笑顔が欲しい。ミレイユさんみたいに、いつだって冷静でいたい。ドレイクさんみたいに、黙って背中を守れる男になりたい。……なのに、どうしてこんなに身体が震えるんだよ……)
抑えきれなくなった感情が溢れ、瞳から涙が一粒だけ溢れ落ちた。それは剣の身の上に落ち、冷たい金属の表面で弾けた。
ユアンは袖で乱暴に目元を拭うと、両手で強く剣を握り直した。
(それでも……僕は前に出る。恐怖で足が竦んでも、声が震えても……逃げずに、一歩前に出る……!)
ゆらゆらと揺れる焚き火の紅い光が、ユアンの決意に満ちた瞳の奥で力強く揺らめいた。
「全員、集まれ」
ウエスの低い呼びかけに、隊員たちが一斉に動き出す。
「これより谷間に入る。言っておくが、ここから先は魔物の領域じゃない。……『人間』を相手にする覚悟を持て」
「へっ、野盗だろうが何だろうが、返り討ちにしてやるさ」
ガレンが舌打ち混じりに軽口を叩きながら、重い盾をしっかりと構え直す。ミレイユは静かに瞳を閉じ、集中を高めて魔力を練り上げる。リアナは小さく深呼吸をし、矢を番えた。ドレイクは無言のまま巨体を揺らし、真っ先にウエスの斜め後ろへとついた。
そしてユアンは──足の震えを必死に抑え込みながら、自らの意思で、ウエスのすぐ横へと歩み寄った。
(怖い。死ぬほど怖い……。でも、もう絶対に逃げない)
揺らぐ覚悟を胸に秘め、ユアンは一歩を踏み出す。
だが、その勇気ある一歩こそが──次の瞬間に彼らを待ち受ける、あまりにも残酷な始まりであった。




