【第二十話】 闇の胎動と、遠くから届く声
深い夜の闇に包まれた、辺境の切り立った岩山。その洞窟を拠点とする野盗たちの隠れ家では、重苦しい静寂が漂っていた。
無精髭を生やし、乱れた髪の間から鋭い眼光を覗かせている男──カイル・ヴァルドは、黙々と剣を磨いていた。
彼が身に纏う鎧は、かつて王国騎士団の正式団員だった頃の代物だ。
胸元にあったはずの誇り高き紋章はズタズタに削り落とされ、醜い傷跡のようになっている。
しかし、その手にある長剣だけは、異様なほど丁寧に入念に手入れされ、鈍い銀色の光を放っていた。
「……騎士団という組織は、反吐が出るほど腐っている」
カイルは剣身を布で拭いながら、低く吐き捨てた。
かつて才能ある若手として期待されながら、規律違反を繰り返し、村人への暴行や横領まで働いた男。
自分を「選ばれた存在」と信じて疑わない歪んだプライドは、自らの過ちを認めることを拒絶していた。
(あいつだ……すべては、あのウエスから始まった……!)
脳裏に浮かぶのは、己の復讐の原点──元・最強騎士ウエスの顔だ。
かつて、何度も自分を庇い、泥を被ってまで「まだ救える」と指導してくれたウエス。
だが、カイルが致命的な事件を起こした時、上層部が見て見ぬふりをする中で除隊処分を進言し、引導を渡したのもまたウエスだった。
カイルはその救済と処分を「裏切り」とすり替え、深い逆恨みへと変えたのだ。
(ウエス……俺を裏切り、追放したお前を絶対に許さない。……だが、あんな落ちこぼれを重用する王都の連中こそが一番の害毒だ。今頃どこかで惨めに野垂れ死んだであろう奴の代わりに、俺が王都を破滅させてやる)
カイルにとってウエスは憎悪の原点だが、今の意識は「王都への復讐」で占められている。
まさか自分が踏みにじろうとしているこの辺境の駐屯地に、まさにそのウエスが赴任しているとは、露ほども思っていない。
カイルは岩肌に広げた【辺境の羊皮紙地図】へ視線を落とす。
指先で照らし合わせたのは、「三番集落」と「第九駐屯地」のちょうど中間にある暗闇の谷間だった。
「まずはこの周辺の村から家畜と物資を奪い尽くす。弱者が死ぬのは当然の理だ……補給を絶ち、王都へ攻め込む足がかりにしてやる」
カイルが不気味に笑った瞬間──彼の目の奥から光が消えた。
愉悦や怨念といった「人間の感情」のさらに奥底から、感情の欠片もない、凍てつくような無機質な冷たさが一瞬だけ覗く。
「ヒッ……」
側で様子を見ていた手下が、理由も分からぬ冷気に背筋を凍らせ、恐怖で思わず後ずさった。
カイル自身は知る由もない。
己の肥大化した悪意が、かつて世界を脅かした魔神『ヴァルグ』の無機質な悪意と、同じ波長で響き合い始めていることに──。
同じ夜。第九駐屯地の見張り台。
焚き火のぱちぱちと爆ぜる音が、静かな夜気に溶けていく。
ウエスは火の前に腰を下ろし、胸元の共鳴石へそっと指を添えた。
その瞬間、石が淡い桃色の光を帯び、遠く離れた王都から、柔らかな声が静かに届いた。
『……ウエス? 聞こえる? 今日も、無事だった?』
その声を聞いた途端、張り詰めていた肩の力がふっと抜ける。
ウエスは短く息を吐き、焚き火の赤い揺らめきを見つめながら答えた。
「……ああ。聞こえてる。こっちは問題ない」
少しの間があって、シーンが穏やかに笑う気配が伝わる。
『よかった……。今日はね、セレンが庭の木に登って、私を驚かせたの。あなたがいないと、あの子はちょっと張り切りすぎるみたい』
ウエスはわずかに口元を緩めた。
遠く離れていても、彼女の声はいつも家の温度を思い出させる。
『夕方には、あなたの好きなスープを作ったわ。セレンが「お父さんにも食べさせたい」って言って……だから、また帰ってきたら作るからね』
「……楽しみにしてる」
焚き火の火がぱち、と弾ける。
その音に重なるように、シーンの声が少しだけ真剣味を帯びた。
『ウエス……最近、あなたの声が少し強く聞こえるの。なんていうか……前より、胸に響く感じがする。辺境で……何か、嫌なことが起きてない?』
ウエスは答えを探すように、共鳴石を指先でなぞった。
石は温かい。だが、その温もりの奥に、微かなざわつきがある気がした。
「……辺境は、少し騒がしいだけだ。心配するほどじゃない」
『……そう。ならいいけれど。あなたは無理をする人だから……声で分かるのよ。少しだけ、疲れてる』
「……お前の声があるから、まだ大丈夫だ」
『なら、よかった。あなたがどこにいても……私はちゃんと届くから。気をつけてね、ウエス』
「……ああ」
共鳴石の光がゆっくりと弱まり、シーンの声は静かに夜へ溶けていった。
胸元の石に残る微かな温もりを確かめた後、ウエスは隊長としての鋭い眼光を取り戻し、手元に広げた【カイルと同じ構造の羊皮紙地図】を見つめた。
指先で辿ったのは、今日ミレイユたちが調査した「三番集落」の被害痕跡だ。
「……おかしい」
ウエスは誰もいない闇に向かって呟いた。
「足跡の消し方、現場の状況、手際の良さ……ただの野盗ではない。相応の軍事教育を受け、部下を統率できる『何者か』が裏で指揮を執っている」
ウエスもまた、その「何者か」が、かつて自分が引導を渡したカイルだとは微塵も気づいていない。
ただ、長年の戦場経験が鳴らす「不吉な警戒音」に眉をひそめていた。
──洞窟の中。
カイルが地図の「谷間」に、剣先で不気味な傷をつける。
「次の狙いはここだ。集落を潰し、駐屯地の不抜けた兵どもが気づく前に姿を消す」
──見張り台の上。
ウエスが地図の「同じ谷間」を指で静かになぞる。
「……もし俺が敵の指揮官なら、次は作戦が立てやすく逃げ道もある『この谷』を狙う」
カイルは「王都を崩壊させるための足がかり」として。
ウエスは「住民と仲間を守るための防衛策」として。
二人はお互いの存在を全く知らないまま、まったく同じ「地図の一点」を見つめていた。
「俺を裏切った世界に、真の恐怖を教えてやる……」(カイル)
「何が潜んでいようと、この手で退ける……」(ウエス)
夜風が吹き抜け、暗闇の先でふたつの過酷な運命が、着実に衝突の瞬間へと向かって加速していく──。




