【第十九話】 消された足跡と忍び寄る影
朝靄が深く立ち込める第九駐屯地の兵舎前。冷気が肌を刺す早朝、ウエスはいつものように一人で静かに身体を動かしていた。
魔力を失ってからというもの、かつてのような爆発的な強化術式は使えない。だからこそ、自分の骨格の動き、風の抵抗、重心の僅かな移動にまで意識を研ぎ澄まし、泥臭く身体感覚を確かめ直すことが日課となっていた。
「隊長、朝早くから恐縮ですが……西の三番集落から急報が届きました」
重い歩調で歩み寄ってきたのは、老兵ドレイクだった。その眉間には深い皺が刻まれており、手に握られた報告用の羊皮紙を硬い表情で見つめている。
「三番集落か。たしか、開拓地のなかでも特に資源が貧しく、寒さを凌ぐのも厳しい村だったな」
「ええ。その三番集落で昨夜、村人が大切に育てる家畜が三頭、丸ごと消えたそうです」
ウエスは動きを止め、静かに目を細めた。
この寒冷で過酷な辺境地帯において、家畜は単なる所有物や財産ではない。厳しい冬を越すための貴重な食糧であり、乳汁や毛皮を生み出す村全体の生命線だ。家畜を奪われることは、その村にとって冬の死を意味するに等しい。
「野盗の残党か? それとも腹を空かせた魔獣の類か」
「それが、どうにも解せぬのです。柵を叩き壊された形跡もなければ、血の匂いも落ちていない。見張りに立っていた村の青年二人も『夜半過ぎから急に猛烈な眠気に襲われ、気づいた時には朝だった』と証拠にもならぬことを言っていましてね。村の長老は、見張りが酒でも飲んで居眠りををしたのだろうとカンカンに怒り狂っておりますが……」
ふむ、とウエスは胸の奥で小さな違和感を覚えた。
見張りとして訓練された青年が二人同時に、申し合わせたように意識を失うほど深く熟睡し、その間に何の足音も立てず大型の家畜が消え去る──そんな偶然があるだろうか。
「……ミレイユを呼んでくれ。現場へ向かう」
三番集落の放牧地は、冷たい北風が吹き抜ける寂れた荒野の端にあった。
村人たちが遠巻きに不安と怒りの混ざった視線を向けるなか、ガレンが地面の泥を蹴りつけながら吐き捨てる。
「なんだってんだ、おい。足跡ひとつ残ってねえぞ! 暴れた跡もねえ、血の匂いもしねえ……本当にここに家畜がいたのかよ? まるで夜のうちに煙みたいに消え失せたみたいじゃねえか」
「村人の見間違いじゃなさそうだ。家畜小屋の縄と鍵は、刃物で手際よく切られている」
ドレイクが周囲の木々や柵の断面を検分しながら首をひねる。
その横で、ウエスは静かに立ち尽くし、五感を研ぎ澄ましていた。耳をすませ、風の音を聞く。
(……獣の匂いがない。血の匂いもない。だが……この一帯の風の吹き抜け方が、わずかに途切れている。空気が不自然に澱んでいる箇所がある)
「……あの、隊長」
細く蚊の泣くような声を出したのは、隊の隅で小さな身体を丸めていたミレイユだった。
彼女は分厚い羊毛のローブの裾が泥で汚れるのも気にせず、地面に深くかがみ込み、じっと土の表面を見つめている。
「どうした、ミレイユ。何か気になることでもあったか?」
ウエスが柔らかい声で尋ねると、ミレイユは小さく小さく頷き、おずおずと指先で地面の土をすくい上げた。
「これ……ただの風や雨で足跡が消えたんじゃないです」
「あ? どういうことだミレイユ。ただの濡れた泥だろ?」
怪訝な顔をするガレンに対し、ミレイユは丸眼鏡の奥の瞳を真剣に輝かせ、指先の土を示しながら説明を始めた。
「昨日の夜は、浅い雨が降りましたよね。だからこの周囲の土は、水分を吸って重く黒っぽい色をしています。でも……ほら、ここから向こうへ伸びている幅一メートルほどの帯状の土だけ、不自然に乾燥していて、土粒の密度が均一すぎるんです」
「乾燥……? 昨夜雨が降ったのにか?」
ドレイクが目を見開く。ミレイユは自分の指先にほんのわずかな、かすかな光の魔力を宿し、土の表面に触れさせた。
「はい。『土の魔術』です。それも、引きずられた痕跡や踏み荒らされた足跡の凹凸を土の密度ごと押し潰し、表面を薄く乾燥させて風で自然に崩れやすくする……追跡を阻むための隠蔽術式です」
「土の魔術だと……!? 野盗の連中が、そんな器用な術を使うってのか!?」
ガレンが驚愕の声をあげる。ミレイユは首を横に振り、さらに深く土を観察しながら言葉を続けた。
「それだけじゃありません。見張りのお兄さんたちが倒れていた場所の土には、極めて薄いですが催眠効果のある魔術の残滓が染みついていました。つまり……犯人たちはまず『広域の睡眠魔術』で見張りを強制的に無力化し、家畜を持ち出した後、『土の魔術』で足跡を消しながら逃げたんです」
「広域の睡眠魔術に、土の隠蔽術式か……」
ウエスは静かに目を細めた。
広域催眠も土の隠蔽も、単なる野盗の荒くれ者が扱えるような代物ではない。魔術学院や王国の正規軍で体系的に教育を受けた者でなければ、これほど手際よく複数の術式を組み合わせて現場を処理することなど不可能だ。
「……だがミレイユ、この土の乾燥具合、少し不自然だな」
「はいっ! 隊長、流石です……! そうなんです、術を使った人の腕が完璧じゃないのか、あるいは急いで逃げようとしたのか……魔力の波長を完全に消しきれていません。術を上書きした境界部分に、微かな『魔力の歪み』が残っています。並の術士なら通り過ぎてしまうような浅い痕跡ですけれど……私、土属性の魔術にはずっと向き合ってきたので、はっきりとわかります」
ミレイユの分析を聞き、ガレンとドレイクは息を呑んだ。
ウエスはゆっくりと歩み寄り、ミレイユが見つめる「土の境界線」を見下ろした。
「なるほどな。広域催眠で静かに見張りを無力化し、貴重な家畜を奪い、さらに土の魔術で足跡を消して追撃を阻もうとした……」
「へっ……なんだそりゃ。たかが腹を空かせた野盗の残党の仕業にしては、手際が良すぎるっていうか、手間暇かけすぎじゃねえか?」
ガレンの疑問に、ウエスは首を横に振った。
「ああ、お前の言う通りだ、ガレン。行き当たりばったりの野盗なら、そんな面倒な魔術を使うくらいなら力ずくで奪って一刻も早く走り去る。わざわざ貴重な魔力を消費してまで『痕跡を綺麗に消そうとする』理由がない」
「じゃあ……一体誰がこんな真似を?」
「粗野な野盗の皮を被ってはいるが……中に、妙に頭の回る奴が混ざっている」
ウエスは西の暗い山並みを見据えた。冷たい風がウエスの前髪を揺らす。
「跡を消そうとして、消しきれずにボロを出した。自分たちの存在を隠そうとしたその『几帳面さ』こそが、奴らがただの野盗ではないという一番の証拠だ。……ミレイユ、見事な観察眼だ。お前の目と知識がなければ、俺たちはただの居眠りと野盗の逃げ足の速さで見落としていた」
「あ……は、はいっ! ありがとうございます、隊長……!」
滅多に人を直接褒めないウエスから言葉をかけられ、ミレイユはパッと顔を赤らめ、メガネの位置を直しながら嬉しそうに深々と頭を下げた。
野盗の中に潜む、ただの荒くれ者ではない「知恵者」の影。
見えない敵の不気味な気配を感じ取りながら、ウエスは静かに、だが確実に第九駐屯地の警戒レベルを引き上げる決意を固めるのだった。




