【第十八話】 届かない波紋、届く声
非番の日の第九駐屯地は、不気味なほどに静かだった。
普段ならガレンの怒鳴り声やリアナの風を切る音が響く訓練場も、今日ばかりは人影がない。
ウエスが隊員全員に課した「義務としての休息」を、愚直なまでに守っているからだ。
駐屯地の裏手、鬱蒼とした木々に囲まれた岩場に、ウエスは一人座っていた。
使い込まれた木刀を横に置き、膝の上で深く息を吐く。
静けさの中に身を置き、そっと胸の奥へと意識を向けた。
(……練れ)
かつてなら、呼吸をするのと同じくらい自然に巡っていた感覚。
体内の魔導回路をたどり、魔力を指先へと集めようとする。
しかし、胸の奥から返ってくるのは、冷たく乾いた拒絶反応だけだった。
感覚に例えるなら、干からびた粘土に水を注ごうとして、その手前で虚しく蒸発していくような手応えのなさだ。
ウエスは右手の掌を上に向ける。
極小の魔力素をかき集め、指先に灯そうと試みる。
──シュッ。
爪ほどの大きさもない、煤のような小さな黒い煙が立ち上り、一瞬で爆ぜて消えた。
残ったのは、焦げくさい匂いと、自分の指先についた小さな黒い汚れだけだった。
「…………」
ウエスは静かに掌を握り込み、膝の上に落とした。
顔に焦りは出さない。
けれど、胸の底をさらさらと冷たい砂が撫でていくような無力感が掠めていく。
やはり、戻らない。
どれだけ体力を戻そうと、どれだけ技術を研ぎ澄まそうと、この体に満ちていた「力」は失われたままだ。
「……また、そこですか」
低い、しわがれた声が静寂を破った。
振り返ると、木々の影から煙草の煙を燻らせたドレイクが立っていた。
ウエスは指先の煤をさりげなく服で拭い、薄く苦笑する。
「……酒でも飲んで寝ていればいいものを」
「年寄りは、目が覚めるのが早いんでね」
ドレイクは短く返し、ウエスの隣の岩へゆっくりと腰を下ろした。
右膝をさする手に、ボキリと小さな骨鳴りが混じる。
かつて王国騎士団の盾を務めた男の、輝かしい経歴を終わらせた古傷だ。
ドレイクはウエスの煤けた指先にちらりと視線を落としたが、何も問わなかった。
ただ、持ってきた酒瓶の栓を抜き、一口あおる。
「……効かなくなりますよ」
「なにがだ」
「かつての、自分の動きを追うのはです」
ドレイクは空へ紫煙を吐き出した。
視線はウエスを見ず、遠くの森に向けられている。
「……膝をやられた時、俺も同じことをしました。だが、追えば追うほど足がもつれる。……惨めになるだけでした」
「……」
「だがな、隊長」
ドレイクは煙草を指で挟み、ぽつりと呟いた。
「下を向いて初めて、ガキ共の足元が見える。……あんたの今の教え方は、あの頃の『最強の英雄』より、ずっとあいつらに響いてますよ」
ドレイクはそれ以上、何も言わなかった。
ただ酒瓶をウエスの横にコトンと置き、膝の痛みを庇うようにして、ゆっくりと立ち上がる。
「……冷えてきた。戻ります」
背中を向けて歩き出す老兵。
ウエスは去っていく背中と、横に置かれた酒瓶を静かに見つめた。
「……そうか」
呟きは、風に消えた。
しかし、胸の奥で燻っていた冷たい焦燥が、静かに凪いでいくのをウエスは感じていた。
魔力が戻らなくとも、いまの自分だからこそ渡せるものがある。
口数の少ない老兵の背中が、無言でそれを教えていた。
夜。自室のランプに灯りをともし、ウエスはベッドの端に腰掛けていた。
昼間の訓練の疲労と、身体の芯に残る重みがズシリと肩にのしかかる。
ウエスは胸元から、丸みを帯びた小さな石──共鳴石を取り出した。
石にわずかな圧をかけると、ぽっと温かな淡い光が宿る。
『──ウエス?』
静寂の中に、鈴を転がすような声が響いた。
少しだけ眠たげで、けれどウエスの気配を感じ取ってパッと華やぐ、シーンの声だ。
「ああ。夜遅くにすまない、シーン」
『ううん、待っていたわ。今日は非番だったのでしょう? ちゃんと休めましたか?』
「……ああ。何もせず、ぼんやりと一日を過ごす贅沢を味わっていた」
ウエスは嘘をついた。
昼間の焦りも、指先から出た煤のことも、言葉の端々にすら出さなかった。
自分の一番惨めな足掻きを、彼女に心配させるわけにはいかない。
けれど、共鳴石の向こうのシーンは、ウエスの声の微細な強張りを感じ取っているようだった。
追及はしない。
ただ、包み込むような柔らかい声で言葉を続ける。
『ふふ、ウエスがぼんやりだなんて、想像がつかないわ。……こちらはね、今日セレンと市場へ行ったの』
「セレンが何かねだったか?」
『正解。新しい飾りのついたリボンと、甘いパン。駄目と言ったら、ウエスが昔よくやっていたみたいに、露骨に眉をひそめて見せて……誰に似たのかしらね』
「俺はそんな顔はしない」
『いいえ、そっくりよ』
くすくすと笑うシーンの声。
ウエスはベッドに背を預け、天井を見上げながら目をつむった。
「シーン」
『なあに?』
「パンは……上手く焼けたか」
『もう、急に何の話? ……まあまあよ。表面が少し焦げちゃったけれど、味は悪くなかったわ。今度、第九駐屯地に送れたらいいのに』
「やめておけ。ガレンの奴、カチカチのパンでも一気に飲み込んで喉を詰まらせる」
『ひどい言い草ね。今度はもっと柔らかく焼くわよ』
他愛もない会話。
王都の天気がどうだとか、辺境の夜風がどれほど冷たいかとか、市場の野菜が高くなったとか。
大戦の英雄でも、隊長でもない、ただの男と女の会話。
ウエスはシーンの言葉の合間にある、穏やかな「呼吸の音」に耳を澄ませていた。
「……シーン」
『ええ』
「……お前の声を聞いていると、落ち着く」
共鳴石の向こうで、一瞬だけ息を呑む気配がした。
それから、心底愛おしそうな、甘い溜息が聞こえる。
『私もよ、ウエス。……あなたがどれほど遠くにいても、どれほど辛いものを抱えていても。その声を聞けば、私はあなたが無事だと分かるの』
「……ああ」
『無理をしすぎないでね。あなたは……もう、一人で世界を背負わなくていいのだから』
「ああ。分かっている」
短く答えながら、ウエスは共鳴石を胸の真上に置いた。
石から伝わる温もりが、冷え切った体内に染み渡っていく。
『おやすみなさい、ウエス』
「おやすみ、シーン」
通信が切れ、共鳴石の光が静かに消える。
部屋は再び暗闇と静寂に包まれた。
しかし、ウエスの胸の奥にあった無力感は、もう消えていた。
魔力などなくてもいい。
腕が動く限り、剣を振り、部下を育て、生きてこの場所へ帰る。
ウエスはゆっくりと目を閉じ、穏やかな深い眠りについた。




