【第二話] 戻る人、進む人
大戦が終結し、あの死線から半年が経った。
王国騎士団本部。
高い窓から薄い昼光が差し込む執務室で、団長が書類から目を離さずに淡々と告げた。
「……ウエスティン。第九辺境騎士団への赴任を命ずる」
表向きは“人手不足の支援”。
だが、その本質は違った。魔力を失い、かつてのような戦い方ができなくなった者への、波風を立てない静かな退役勧告。それがこの人事の意味だった。
ウエスは表情を一切崩さず、静かに敬礼を返した。
「ハッ。謹んで拝命いたします」
本部を出ると、夕暮れ時の王都はいつもと変わらず賑やかだった。
露店の威勢のいい呼び声、無邪気な子どもたちの笑い声、遠くから響く鍛冶場の金槌の音。かつて自分が命を懸けて守り抜いた、平穏な日常の音がそこにある。
だが、ウエスの耳にはそれらがどこか遠く、薄い膜を隔てた向こう側の出来事のように聞こえていた。
(……俺は、もう“最強”じゃない)
かつてはこの街を歩くだけで、羨望と敬意に満ちた道が開いた。
だが今は、すれ違う若い騎士たちがちらりとこちらに視線を向け、すぐに気まずそうに逸らしていく。
哀れみか、あるいは「かつての英雄も形無しだな」という好奇の目か。
どれでもいい。ウエスは気にする風もなく、ただ淡々と、家路への歩を進めた。
ただ、胸の奥に澱のように沈む重さだけが、彼の足取りをいつもより少しだけ鈍らせていた。
我が家の扉を開けると、出迎えたのは夕食の温かい匂いと、耳に心地よい柔らかな声だった。
「おかえりなさい、ウエス」
エプロン姿のシーンが、穏やかな微笑みを浮かべてそこに立っている。
その声を聞くだけで、胸の重さがすっと軽くなるのを感じた。
その時、廊下の角から、小さな頭がひょこっと顔を出した。
「……お父さん、おかえり」
息子・セレン、八歳。
まだ幼いながらも、驚くほど他人の機微を察する、空気を読む子だった。
セレンはウエスの表情をじっと見つめ、何かを察したように、そっとシーンの後ろに隠れた。
ウエスは重い鎧を外しながら、短く事実だけを告げた。
「……辺境に行くことになった」
その言葉に、シーンは驚かなかった。もちろん、取り乱して怒ることもない。
ただ、静かにウエスへと近づいた。
ウエスの腕にそっと手を伸ばし──けれど、彼が抱える戦士としての誇りと、魔力を失った痛みを慮るように、触れる寸前で手を止めた。
「そう。じゃあ……あなたがいつでも帰ってくる場所を、私がちゃんと整えておかないとね」
その絶妙な距離感と交わされる言葉が、二人が共に歩んできた長い年月と、深い信頼を物語っていた。
「……お父さん、遠いの?」
後ろから、セレンがそっと近づいてきて服の裾を引いた。
「少しな。馬で何日かかかる場所だ」
「……そっか」
セレンはそれ以上、何も尋ねなかった。
ただ、ウエスの胸元を、何かを見透かすようなじっとした瞳で見つめている。
(この子は……本当によく見ている)
ウエスは大きな手で、息子の頭を軽く撫でた。セレンはくすぐったそうに細い目をさらに細めて笑い、またシーンの後ろへと隠れた。
その夜、寝室で荷物をまとめるウエスの背中に、シーンがそっと近づいた。
彼女の手には、細い銀鎖のネックレスが握られている。その中央で、小さな、だが澄んだ光を放つ石が揺れていた。
「……共鳴石を、アクセサリーに?」
「ええ。落とさないように。それに……こうして身につけていてくれたら、私の声が届きやすいから」
ウエスは言葉を失った。
魔力を焼き切られたウエスには、もう能動的に魔導具を起動する力はない。シーンはそんな彼でも扱えるよう、そして自身の負担にならないよう、治癒師としての卓越した技術を用いて、この石を細工したのだろう。
ウエスの胸元で、その石は彼の静かな鼓動──生きている「音」に寄り添うように、微かに、温かく明滅した。
彼女の愛は、いつも目立たず、静かで、そして深かった。
ふと気づくと、廊下の影からセレンがじーっとその石の光を見つめていた。その幼い瞳は、共鳴石が放つ極微細な魔力の揺らぎを、敏感に捉えているようだった。
「夜になったら、声を聞かせてね」
シーンが微笑む。
「ああ。必ず」
出発前夜の夕食は、豪奢なものではなかった。
けれど、いつもと変わらない、身体の芯まで温まる家庭の味だった。
シーンはスープの器を置きながら、静かに、しかし確信に満ちた声で言った。
「あなたは“戻る人”じゃなくて、進む人よ」
かつての栄光や、失った力にしがみついて振り返る人ではない。どんな境遇になっても、前を向いて一歩を踏み出す人。ウエス以上に、彼女は彼の本質を理解していた。
ウエスはスプーンを置き、ふっと口元を緩めた。
「……そうかもしれんな」
夫の言葉に、シーンは満足そうに微笑む。その柔らかな笑みは、ウエスの胸の奥に、消えることのない小さな灯をともした。
眠れないウエスは、窓辺に立ち、月明かりの下で胸元の共鳴石を指先でなぞった。
微かに帯びる温もりから、記憶が静かに蘇る。
──十数年前、二人の婚儀の日。
まだ駆け出しだった頃、小さな神殿で手を重ね合わせた瞬間。二人の魔力が初めて深く重なり合い、眩い光が生まれた。
『あなたの声は届くわ。どれほど遠くに離れていても、絶対に』
あの時の彼女の誓いは、今もウエスの胸の奥で、確かに生き続けている。
寝室のベッドの上で、シーンは静かに目を閉じていた。
しかし、彼女の心の中にある確信は、一瞬たりとも揺らいでおらず、ただ静かに夫の無事を祈っている。
(あなたは、まだ終わっていない。これから、また新しく始まるのよ)
出発の朝。まだ周囲が薄暗い、静寂に満ちた時間。
ウエスが愛馬に荷物を積み終えると、シーンが外へと見送りに現れた。その少し後ろには、寝癖をつけたまま眠そうに目をこするセレンがいる。
「……いってらっしゃい、お父さん。また……夜に声、聞こえる?」
ウエスは胸元の共鳴石をそっと手のひらで握りしめた。
「ああ。ちゃんと聞こえるさ」
シーンがウエスを見上げ、静かに言った。
「あなたは一人じゃないわ」
「……分かっている。お前の声があるからな」
二人は触れ合わない。強く抱きしめ合うこともしない。
ただ、お互いの瞳の奥にある約束だけを、静かに確認し合う。
ウエスが馬の手綱を引き、ゆっくりと歩みを進めると、セレンが小さく、何度も手を振った。
朝霧の向こうへ消えていく我が家の佇まいと二人の姿が、ウエスの胸に深く刻み込まれていく。
最強の力を失った男が、愛する者たちの声を受け、新たな道を進み出す。
──しかし、その朝。ウエスはまだ、知る由もなかった。
彼が赴く第九辺境の森で、“家畜が消える”という奇妙で不穏な噂が、不気味に広がり始めていることを。




