【第一話】 その音は、闇の深淵で脈打つ
この物語は、かつて最強と呼ばれた男ウエスと、
彼を救った治癒士シーンの“音”が紡ぐ物語です。第一話では、二人の絆が初めて形になる瞬間──
戦場の極限で交わる「共鳴」が描かれます。少し重い始まりですが、ここで生まれた“音”が
二人の未来を大きく変えていきます。
【大戦の最終局面──前線の最も危険な防衛線】
煙る血と、焦げ付いた鉄の臭いが鼻腔を穿つ。
ウエスは仲間を──いや、後方にいる「彼女」を守るため、ただ一人でその場所に立ち続けていた。
本来なら一騎当千と謳われる彼ですら、際限なく押し寄せる魔族の群れを前に、すでに魔力を使い果たし底を突いている。全身の筋肉は悲鳴を上げ、視界は赤く染まっていた。
(……ここを抜かれたら、後ろの部隊が死ぬ)
いや、それだけじゃない。
(……あいつが、シーンが死ぬ。それだけは、絶対に防ぐ!)
胸元でかすかに熱を帯びる、シーンとお揃いの「共鳴石」。
ウエスは愛用の剣を握る右手に、今一度だけ力を込める。
その一心だけで、彼は己の命を削りながら剣を振るい続けていた。
だが──その瞬間、世界の温度が急激に凍りついた。
魔族の群れの奥から、耳ではなく骨の髄を直接叩くような、低く重い響きが走る。
──ドクン。
心臓の鼓動ではない。
足元の地面が、空気が、空間そのものが一瞬だけ不自然に膨らみ、押し返してきた。
ウエスの胸の奥で、わずかに残っていた魔力が理由もなく逆流する。
(……なんだ、今の音は……?)
疑問を抱く猶予すら与えられなかった。
背筋を駆け抜ける、脳髄が痺れるほどの「死」の気配。
振り返るどころか、指先一つ動かすことすら許されない圧倒的な重圧。
夜の闇を溶かしたような濃密な黒霧が、津波のように押し寄せてくる。
その霧が触れた瞬間、空間の輪郭が歪み、兵士たちの持つ通信魔石から狂ったような雑音が弾けた。集められた魔力の残滓が、まるで生きて吸い寄せられるように霧の中へ消えていく。
不気味な黒霧の中から、光を吸い込む空洞の角を生やした男──ヴァルグが揺らめくように姿を現した。
感情のうかがえない無機質な視線が、ウエスを捉える。
「……脆いな」
それだけだった。
言葉を交わす気すらない。気配を消していたわけではなく、存在そのものがこの異質な黒霧と同化している。
ヴァルグがウエスの背にそっと手をかざした瞬間、黒霧が一気にウエスの身体へと侵入した。
──ドクン。
再び、あの不気味な脈動が体内で跳ねる。
肉体そのものが内側から弾けるような、嫌な“破裂音”が響いた。
「……がはっ……っ!!」
膝が折れ、視界が急速に明度を失っていく。
暴走する魔力というより、目に見えない巨木の根が暴れて回路を直に焼き切っていくような、圧倒的な異物感。制御など到底及ばない。
ヴァルグは絶叫するウエスに眼差しすら向けず、ただ奪い取った魔力の感触を確かめるように、静かに指を折り曲げた。まるで熟した果実を摘み取るような、作業的な酷薄さ。
(……ここで、倒れるわけには……いかない)
(まだ……足は動く……!)
ウエスが歯を食いしばり、抗おうとすればするほど体内の激痛は増し、全身の回路が焦げ付いていく。
意識が、光の届かない暗闇へと急速に沈んでいく──。
その時だった。
胸元の共鳴石が小さく熱を帯び、遥か遠くから狂ったように自分の名を呼ぶ、聞き慣れた声が響いた。
『ウエスーーー! 聞こえますか、ウエス!!』
その叫びが届いた瞬間──不自然に歪んでいた周囲の黒霧が、波紋のように一瞬だけ激しく波打った。
共鳴石を通した声と空間の揺らぎが、沈みかけていたウエスの胸の奥で、止まりかけていた“音”を跳ね返えさせる。
「…………?」
ヴァルグは初めてわずかに眉をひそめ、不快そうにその空間の揺らぎを凝視した。
しかし、追撃することすら興が削がれたかのように、ただウエスの残骸を見下ろすと、暗闇の奥へと静かに揺らめき消えていった。
魔族の群れをかき分けて、治癒師団の制止を振り切り、ただウエスの名だけを叫び続けて──一人の女性がボロボロになりながら駆け寄ってくる。
シーンだった。彼女はウエスの元へと滑り込むように膝をつくと、崩れ落ちる彼の身体を抱きとめ、震える手でその胸に触れた。
「魔力が……壊れかけてる……! こんなの、通常の治癒魔法じゃ……届かない……!」
ウエスの体温は急速に奪われ、鼓動は今にも途絶えそうだ。
それでも、彼女は絶対にその手を離さなかった。握りしめた共鳴石が、二人の手の中で儚く光っている。
「お願い……戻ってきて……! あなた、言いましたよね……! “私より先に死なない”って……!」
暗黒の深淵へと沈んでいくウエスの意識。
自らの名前すら消えかけようとする中で──ただ一つ、その言葉と共鳴石の温もりだけが彼の魂に突き刺さる。
(……ああ、言ったな)
(お前を残して、先には死なん。絶対にだ……!)
その瞬間、停止しかけていた意識が急浮上した。
暗闇の底で、彼女の声に呼応するように、止まっていたウエスの“音”が再び打ち始める。
「……戻ってきた……! ウエスの音が……生きてる……!」
大粒の涙をこぼしながら、彼女はウエスの胸に強く耳を当てた。
「聞こえます……あなたの音。まだ、ちゃんと……生きてる……っ」
その時、シーンが触れたウエスの胸の奥で、何かが静かに、だが確実に芽吹くように──トクン、と小さな揺らぎが走った。
数日後。
大戦は辛うじて人類側の勝利に終わり、ウエスは野戦病院の天幕のベッドの上で目を覚ました。
傍らでは、すっかり疲れ果てたシーンが、ウエスの右手をきつく握りしめたまま眠っている。二人の手の中には、小さな傷がついた共鳴石が握られていた。
見舞いに訪れた名医は、重そうに首を振った。
「普通なら即死だ。生きているのが奇跡だが……ウエス、お前の全身の魔力回路は完全に焼き切れている。残念だが……お前はもう、二度と魔法を使うことはできない」
魔力を失い、かつての一騎当千の力は失われた。
ウエスは己の胸に手を当てる。
回路は途切れ、内側は空っぽだ。だが、あの戦場で全身を駆け抜けた**「あの不気味な脈動の感触」**だけが、焦げ跡のように胸の奥にこびりついて離れない。
それでも、ウエスは絶望していなかった。
彼はただ、愛おしそうに、ベッドの傍らで眠るシーンの髪を優しく撫でた。
その指先の微かな温もりに安心したように、シーンが寝顔のまま、微かに微笑む。
「……約束、だからな」
力は失った。
だが──守るべきものは失われていない。
あの不気味な音の正体も、自分の身体に起きた異常も、まだ何も分からない。
けれど、最強の力を失った男と、彼を救った彼女の新しい物語が、ここから始まる。
第一話を読んでくださり、本当にありがとうございます。ウエスが力を失い、シーンが必死に呼び戻した“音”──
あの瞬間は、二人の物語の始まりであり、
彼らがこれから歩む未来のすべての原点です。失われたものは大きいけれど、
それでも二人の手の中には、確かに“残った音”がありました。次話からは、戦場の喧騒が去った後の静かな時間の中で、
ウエスとシーンがどう向き合い、
その“音”がどんな形で二人を支えていくのか──
ゆっくり描いていきます。もし少しでも心に響くものがあったなら、
この先の物語も見守っていただけたら嬉しいです。




