【第十一話】初めての向き合う悪意
ホブゴブリンとの死闘が終わり、駐屯地には一時の平穏が戻っていた。
しかし、ユアンの心だけは、あの戦いの日から取り残されたままであった。
「……また、置いていかれる」
夕暮れ時、宿舎の裏手で剣を振るう仲間の姿を遠巻きに見つめながら、ユアンは小さく拳を握りしめた。
あの戦いを経て、仲間たちは確実に変わった。それぞれの課題を見つけ、それを乗り越えようと前を向いている。
それなのに、自分だけはあの日の恐怖を引きずったまま、一歩も前に進めていない。
焦燥感だけが、泥のように足元にまとわりついていた。
そんな折、隊長のウエスから命じられたのは、駐屯地近くの町への「単独パトロール」だった。
「町の中だ、緊張しすぎるなよ」
出発際、先輩騎士のドレイクがポンと肩を叩いて送り出してくれたが、ユアンの胸のバクバクという高鳴りは一向に収まらなかった。
忍び寄る「人間の悪意」
夕暮れ時の町は、どこか活気に欠け、薄暗い影が長く伸びていた。
家路を急ぐ人々の足音が遠ざかる中、不意に、人気のない路地裏から「ドサリ」と重く濁った音が響いた。
ユアンは息を呑み、壁に身を潜めながら路地を覗き込んだ。
「おいおい、これだけか? 商売人ってのはもっと溜め込んでるもんだろ」
そこにいたのは、野盗の末端らしき三人の男たちだった。
地面に組み伏せられた商人の胸ぐらを掴み、下卑た笑みを浮かべている。
(い、行かなきゃ……僕は騎士だ……!)
ユアンは必死に自分を奮い立たせ、震える声を絞り出した。
「そ、そこまでだ! 武器を捨てて、その人から離れろ!」
男たちの視線が一斉にユアンに注がれる。
しかし、彼らの目に怯えはなかった。
ユアンの小刻みに震える膝、今にも逃げ出しそうな頼りない瞳、そして仕立ての良すぎる綺麗な装備。
それらを見定めた瞬間、男たちの顔に邪悪な嘲笑が浮かんだ。
「あァ? なんだ気取ったガキが。おい、その剣、人に突き刺す覚悟があって抜こうとしてんのか?」
一人の男がギラついたナイフを弄びながら、ゆっくりと近づいてくる。
その瞬間、ユアンの思考が真っ白に染まった。
魔物の目には、ただ飢えと凶暴性だけがあった。
しかし、いま目の前にいる男たちの目にあるのは、明確な「愉悦」と「欲」。
弱者をいたぶり、恐怖する姿を楽しもうとする、底知れない人間の悪意だった。
ツンと鼻を突く、生臭い鉄の臭い。
蛇に睨まれた蛙のように、ユアンの身体は完全に凍りついた。
教わったはずの呼吸法はどこかへ吹き飛び、酸素が上手く吸えない。
足はまるで地面に縫い付けられたかのように、一歩も動かなかった。
「腰抜けが。それは俺たちが貰っていくぜ」
男たちはユアンの横をすり抜ける際、その力のない手から商人の金袋をひったくった。
そして、抵抗する気力すら失った商人をどさりと突き飛ばし、暗闇の奥へと消えていった。
「……動けよ……っ、動いてくれよ、僕の足……!」
誰もいなくなった路地裏で、ユアンは自分の太ももを拳で何度も殴りつけた。
しかし、足はただガタガタと震えるばかりで、遠ざかる男たちの足音だけが、ユアンの鼓膜を容赦なく打ちのめしていた。
駐屯地での涙と、灯された光
泥まみれになり、失意のまま駐屯地へ戻ったユアンは、ウエスの前で膝をついた。
溢れそうになる涙を必死にこらえながら、震える声で事実を報告する。
「……申し訳、ありません……。僕は、ただ見ていることしか……」
「なんだと!?」
報告を聞くや否や、血気の多いガレンが机を叩いて立ち上がった。
「お前、騎士の面汚しが――」
怒鳴りかけようとしたが、その肩をドレイクが強い力で制した。
ドレイクは何も言わず、ただ沈痛な面持ちでユアンを見つめていた。
部屋を支配する重苦しい沈黙。
その中で、デスクの向こう側にいたウエスがゆっくりと立ち上がった。
彼はユアンの前に歩み寄ると、その場に膝をつき、泥を被ったユアンの瞳とまっすぐ視線を合わせた。
隊長が、自分と同じ目線にいる。
それだけで、ユアンの目から堪えていた涙がポロポロと溢れ落ちた。
「ユアン。魔物は飢えれば襲うが、人間は愉悦や欲で牙を剥く。それは魔物よりもタチが悪い」
ウエスの声は、どこまでも静かで、驚くほど優しかった。
「初めてその悪意に触れて、足がすくむのは、お前が正常な人間である証拠だ。恥じることはない。今日のその恐怖は、いつか次にお前が人間と対峙するとき、お前自身と、誰かを守るための強固な『盾』になる」
ユアンは溢れる涙を袖で乱暴に拭った。
胸の奥の焦りが、ウエスの言葉によって少しずつ形を変えていくのを感じていた。
まだ、震えは止まらない。
それでもユアンは、震える右手で腰の剣の柄を、今度は力強く握り直した。
ウエスは満足そうに小さく頷くと、すっと立ち上がり、部屋にいる全員に向かって短く告げた。
「明日から、基礎からやり直すぞ。――ユアン、お前はまだ折れていない」
その言葉は、冷え切っていたユアンの胸の奥に、消えることのない静かな灯火をともしたのだった。




