【第十話】治療院の記憶
それはまだ、ウエスが「王国最強の剣士」として国中で持て囃され、羨望の的となっていた頃。王都の一角にある静かな治療院でのことだった。
夕暮れの琥珀色の光が差し込む部屋で、若き日のウエスは黙って硬い椅子に座っていた。猛訓練の最中、派手に刃を受け流し損ねて腕を深く切ったのだ。
周囲の人々は、彼をただの“無敵の記号”として扱い、誰もその内側にある生身の痛みを見ようとはしなかった。 怪我をすれば、「さすが最強、また派手な無茶をしたものだ」と英雄譚のように笑われるだけ。
もし痛みを訴えれば、「国の盾たる最強の男が弱音を吐くな」と失望混じりに囁かれるだけ。
だからウエスは、いつしか心を閉ざし、黙ることを覚えた。 どんな痛みも、どんな泥のような疲れも、誰にも言わず、ただ一人で黙って耐え忍ぶことこそが「最強」の義務なのだと自分を縛り付けていた。
そんな彼の前に、白い衣をまとった一人のうら若き少女が、音もなく静かに歩み寄ってきた。
「……お怪我ですね。腕、見せてもらえますか」
それが、シーンとの最初の出会いだった。
ウエスは感情の失せた最低限の生返事だけを返し、無造作に血に染まった腕を差し出した。 もともと治療師との無駄な会話は苦手だった。どうせ「英雄様」と気を遣われるか、腫れ物を触るように扱われるだけだと、どこかで冷めて決めつけていたのだ。
だが――その瞬間だった。
シーンの白く華奢な手が、傷口のすぐ近くにそっと添えられた途端、彼女のすべての動きがピタリと止まった。
(……なんて、綺麗な音……)
息を吸い込むようにぽつりと漏れたその言葉に、ウエスは驚いて目を瞬いた。
「あなたの魔力……とても綺麗です」
「……俺の魔力が、綺麗? 力が強いという意味ではなく、か?」
シーンは少しだけ困ったように視線を迷わせた後、意を決したように真っ直ぐウエスを見つめて頷いた。
「はい。私は生まれつき、人の魔力の揺らぎが“音”として聞こえるんです。子どもの頃からずっと……街を行き交ういろんな人の音が頭の中に聞こえてしまって。それは刺々しい怖い音や、欲望に乱れた音ばかりで……少し、人が苦手だったんです」
ウエスは言葉を失い、少女の横顔を見つめた。
「でも、あなたの音は全然違います。これほど強大で圧倒的なのに、誰も脅かそうとしない、誰も傷つけようとしない……本当に静かで、澄んでいて……。聞いているだけで、私の心がすごく落ち着く音がします」
力ばかりを求められ、破壊の規模でしか評価されなかった人生で、自分の魔力を「綺麗」と言われたのは初めてだった。それどころか、戦うための力の中に“優しさ”があると言い当てられたのも、人生で初めてのことだった。
凍てついていた胸の奥が、ほんの少しだけ、じんわりと温かくなっていく。
「でも……痛み、少し我慢していますよね。音が……優しさの裏で、少しだけ哀しそうに震えています」
「……そこまで、分かるのか」
「はい。わかりますよ。あなた、痛い時ほど、そうやって頑なに黙り込んでしまうでしょう?」
ウエスは静かに息を呑んだ。 戦友にも、家族にさえも気づかれたことのない、己を縛る孤独な癖を、出会ったばかりの初対面の少女に完璧に言い当てられたのだ。
治療がすべて終わる頃、シーンは柔らかく、小さく微笑んだ。
「またいつでも来てくださいね。あなたの音……聞いていて、すごく心地いいので」
その言葉は、ウエスの頑なな胸の隙間に、静かに、けれど深く落ちて消えなかった。
数日後。また別の訓練で軽い怪我を負ったウエスは、導かれるように再びその治療院の門を叩いた。
「……あ、また来てくれたんですね」
驚き半分、嬉しそうに目を細めるシーンに、ウエスはぶっきらぼうに「怪我をしたから、治療の必要があっただけだ」と短く返した。だが、本当は自分でも気づいていたのだ。
このシーンという少女の前でなら、言葉を飾る必要もなく、沈黙している時間が全く苦にならないということに。
他の治療師たちは、おべっかを使ったり気を遣って無理に話しかけてくるが、シーンは違った。必要なことだけを静かに語りかけ、あとは魔力の音に耳を傾けながら、淡々と、しかし極めて丁寧に治療を続ける。 その穏やかな沈黙が、戦場と訓練の毎日に追われるウエスにとって、妙に心地よく、救いになっていた。
そして、ある日のこと。 度重なる無理が祟り、腕だけでなく肩まで酷く痛めたウエスが治療院の重い扉を開けた瞬間、シーンは彼の顔を見るよりも早く言った。
「音が激しく震えています。あなた、やっぱり痛い時ほど口を閉ざしてしまうんですね」
誰の目にも完璧な「最強の団長」として振る舞い、誰にも気づかせなかった肉体と精神の悲鳴を、彼女は“音”という揺るぎない真実で完全に理解していた。
「あまり無茶をしすぎないでくださいね。あなたの綺麗な音が乱れてしまうと……私まで、胸が苦しくて心配になってしまうので」
心から自分を案じ、慈しむように微笑むシーンを見つめながら、若きウエスの胸は、かつてないほど激しく鼓動した。
(……ああ。俺は、この人の笑顔を、この温もりを、生涯を懸けて守りたい)
その胸に湧き上がった感情は、巷で囁かれるような軽い恋という言葉よりも、ずっと静かで、ずっと深い、魂の誓いに近いものだった。
「――ウエス? もしもし、聞いてる?」
共鳴石の向こうから響くシーンの少し引き戻すような声で、ウエスはハッと意識を現在へと戻した。
「ああ、すまん。ちゃんと聞いている。お前に初めて、痛い時ほど黙ると音で見破られた時のことを、少し思い出していただけだ」
通信の向こう側で、シーンがすべてを察したようにクスッと愛おしそうに笑う。
『随分と昔の話ね。でもねウエス……今でもちゃんと聞こえるわよ。どれほど離れていても、あなたの、あの頃から変わらない優しくて静かな音が』
ウエスは静かに目を閉じ、胸元の温かい石を、愛おしさを込めてそっと握りしめた。
かつて誇った最強の魔力は失った。しかし、この強固な絆が、彼女の祈りが共にある限り、自分はどれほど泥にまみれようとも、どこまででも進んでいける。
「……ああ。お前の声が聞こえる限り、俺は何度でも立ち上がれる。大丈夫だ」
冷たい夜風が辺境の荒野を吹き抜ける中、二人の“音”は、途方もない距離を超えて、今夜も静かに重なり合っていた。




