静かな対峙
「あら、おはよう佑樹」
「母さん、おはよう」
必要はないが、普通の生活を演じるために、佑樹は朝食を摂りにリビングへ足を運んだ。
そこではエプロンをつけた母親の天音優香が、朝食の準備を進めていた。
黒の三つ編みヘアを後ろでまとめ、整った顔立ちに温和な表情を浮かべた肉感的な34歳の女性。
優香はフライパンを軽く振りながら、息子に柔らかい視線を向けた。
「今日はちゃんと起きてこれたのね?
朝ごはん、すぐにできるわよ」
佑樹は短く頷いて席に着いた。
すると、階段の方から元気な足音が響いた。
「ママ~おっはよ~♪ って……ゲッ!? 朝からこのザコザコ兄貴の冴えない死に損ない面見るなんてマジ最悪~!」
黒のツインテールが跳ねるように揺れ、今時の生意気な顔立ちをした少女がリビングに入ってきた。
天音花梨。
佑樹の双子の妹で、中学一年生。ギャルもどきのメスガキ系だ。
花梨は佑樹を一瞥するなり、露骨に顔を歪めて吐き捨てた。
「はぁ? またその陰キャオーラ全開じゃん。ビビりまくって存在感ゼロのゴミ兄貴が朝からウロウロしてるだけで空気ブスブス腐ってくるんだけど~?
マジで息してるだけで害悪なんだよね、お前」
「花梨っ! お兄ちゃんにそんな事言っちゃダメって、何度も言ってるでしょ!」
優香が慌ててフライ返しを置き、妹をたしなめた。
しかし花梨は全く聞く耳を持たず、佑樹の隣にドカッと座ってさらに言葉を浴びせた。
「だってガチでホントのことじゃん? ガキん頃からずっとビビりの極みで、陰キャの塊で、誰にも相手にされなくてさ。
クラスじゃ完全に空気以下、透明人間扱いされてるんでしょ?
私だったらそんな人生、絶対に死にたくなるレベルなんだけど~♪
あ、でも兄貴はもう死に損ないだから関係ないか。うっざ♪」
佑樹は静かに箸を手に取り、黙って食べ始めた。
「花梨、朝からお兄ちゃんにそんな事言わないで。
佑樹は佑樹なりに頑張ってるんだから」
優香がため息をつきながら卵焼きを盛り付けた。
「頑張ってるって……ママ、兄貴が頑張ってるの見えたことあるの?
いつも壁みたいに教室の隅で縮こまって、誰とも話さなくて、ただ息してるだけの腐れザコじゃん。
私、兄貴のそんな情けない姿見てるとマジでイジりたくなるんだよね~♪
昔からずっとそう。
見てるだけで腹立つし、触れるだけで汚れる感じ~♪」
花梨はニヤニヤしながら佑樹の顔を覗き込み、声を尖らせた。
「ねえ兄貴、今日も学校で完全なる空気読めなくて、存在消して一日終わるんでしょ?
『あれ、いたっけ?』って感じで誰も気付かなくて、ただの背景みたいに一日過ごすんでしょ?
マジかわいそ~。
死んだ方がマシじゃん、お前みたいなの」
「花梨! いい加減にしなさいっ!」
優香の声が少し強くなったが、花梨は肩をすくめて笑うだけだった。
佑樹は味噌汁を一口飲み、熱い感触を喉に感じながらも表情一つ変えなかった。
昨日までの佑樹なら、すぐにヘコんで部屋に引っ込むか、学校へ逃げるのがお決まりのパターンだった。
しかし今の彼は全く意に介さず、花梨の言葉を黙って聞いていた。
花梨は箸を動かしながら、横目で兄をじっと観察した。
「ちょっと……何よコイツ?」
花梨は小さく舌打ちした。
「ザコ兄貴のクセに、いつもの陰キャオーラが全く感じられないんですけど~?
それに、ビビりまくってた目つきもしてないし……まるで別人みたいなんだけど。
は? 急に何様のつもり? キモッ」
花梨は眉をひそめ、フォークで卵焼きを突きながら苛立った声で続けた。
「はぁ? 今日、なんかマジでムカつく……いつもならすぐ顔真っ赤にして震えて逃げるクセに、急に平然としてるって何?
朝から超イラッとするんだけど?
お前みたいな下級生物が偉そうに座ってるだけで吐き気するわ」
佑樹は静かに食事を終え、箸を置いた。
「母さん、ご馳走さま。
ボク、もう学校行くよ」
佑樹はそう言って席を立ち、身支度を整えに自分の部屋に戻った。
花梨は兄の後ろ姿を見送りながら、苛立ちを隠さずに母親に言った。
「ねえママ、アイツなんか完全に変じゃない?
いつものザコザコ死に損ない兄貴じゃないんですけど?」
「はぁ、どうして花梨はいつも佑樹のことをそんな風に言うのかしら?
別に何とも変じゃないと思うわよ?」
優香は首を傾げて答えた。
花梨は呆れたように目を見開いた。
「ちょっとママガチで気付いてないのっ!?
誰がどう見てもおかしいと思うよ!
今のアイツ、目つきも雰囲気も声なんかが全部違うの、分かんないのっ!?
マジで信じらんない……」
花梨はさらに声を尖らせ、吐き捨てるように言った。
「はぁ……まさかママがこんなに鈍いなんて……だからあんな奴に騙されて、女作って逃げられるんだよね。
アイツ、兄貴みたいなゴミに似てるからママも一生損するだけじゃん」
「花梨っ!!」
優香の穏やかな表情が一瞬で崩れ、激昂した母親は花梨の頬を強く張った。
バチンッ!という乾いた音がリビングに響いた。
優香と花梨のやり取りをよそに、佑樹はすでに家を出て登校していた。
彼は妹が母親にぶたれたことなど露知らず、何事もなかったかのように以前の自分として振る舞った。
(今更誰かと仲良くする気なんかないし、急に変わったボクを不審に思われる恐れがあるから……普段はいつものボクとして過ごすとしよう)
心の中でそう決めた佑樹は、霧散しかけていた陰キャオーラを再び纏い、神の心を授かる前の自分として日常を過ごすと決意した。
教室ではクラスメートが次々と入ってきて、友達同士で挨拶を交わしていた。
しかし存在感を再び消した佑樹には、誰も目もくれない。
ゾロゾロと登校する生徒たちの中に、片想いだった女子もいた。
彼女はイケメンの彼氏と仲良く手をつないで教室に入ってきた。
昨日までの佑樹なら胸が張り裂けそうな光景だった。
だが今は、二人の仲睦まじい姿を見ても何の感情も湧かなかった。
(なるほど……神の心は、あの子への想いも綺麗に除去したのか。
あの二人を見ても何も感じないなんて……少しおかしいね)
心の中で静かに呟き、佑樹は想いが昇華したことを悟った。
授業中、ある変化があった。
以前の佑樹は授業の内容をほとんど理解できず、成績は学年最下位だった。
居残り授業を何度も受けても学力は一向に上がらず、教師がさじを投げるほどだった。
それが原因で花梨によくイジられていた。
しかし神の心を授かった今の佑樹は違っていた。
教師の説明を一度聞いただけで内容がすっと頭に入り、教科書を開けば文章の意味がすぐに理解できた。
問題もスラスラと解けるようになっていた。
(すごいな……これが神の心の力か。
精神が完全無欠になったおかげで、集中力も記憶力も別次元だ)
佑樹は内心で驚きながらも、表情には一切出さず、静かにノートを取った。
午前中の授業は驚くほど順調に終わった。
昼休みになった。
この学校は給食がなく、各自で弁当を持参する。
以前の佑樹にとって昼休みは地獄だった。
クラスメートが談笑する中、一人でいるのが苦痛で、いつもクラスから逃げて人気のない場所で弁当を食べていた。
しかし三大欲求が排除されているので、空腹を感じない佑樹にとって食事は「普段の陰キャを演じるため」のものだった。
彼はいつものようにクラスから離れ、校内を適当に散策しながら時間を潰すことにした。
特に目的もなく歩いていると、後ろから声が飛んできた。
「オイ、そこのザコザコ兄貴っ!」
振り向くと、右頬を赤く腫らした花梨が、親の敵でも見るような目で佑樹を睨みつけていた。
佑樹は花梨の腫れた頬を気にも留めず、怒る妹と向き合った。
「花梨、ボクに何か用?」
「大アリよっ!……お前のせいで……お前のせいで私、ママに殴られたんだよっ!」
何食わぬ顔で何も知らないように聞いてきた佑樹の態度に、さらにヒートアップした花梨が激昂した。
「そうだろうね。
お前のことだから、母さんに余計な事を言って怒らせたって事だね?
その叩かれた顔が何よりの証拠だ。
あの温厚な母さんが怒るなんて、花梨が父さんの事を言ったんだろ?
花梨は昔から人の気持ちを全く考えないからね」
「なっ!?……」
花梨は一瞬、言葉に詰まった。
いつもならビクビクして逆らわない兄が、今日はハッキリと反論してきたことに驚き、しかも優香に余計な一言で激怒され、叩かれた事まで見抜かれて、顔を赤くした。
それもそのはず、全ては花梨の自業自得であり、佑樹には何の非もないのだ。
「……なんなのよアンタはっ!? ビビりのクセにっ! ザコのクセに私に逆らうなっ!!
反論するんじゃねぇよっ!!」
己の非を認めない花梨の怒号が廊下に響き、通りかかった生徒たちが二人に視線を集中させた。
佑樹は小さくため息をついた。
目立つことを避けたいと思っていたのに、花梨によって陰キャ学生生活にピリオドが打たれてしまったことを悟った。
「花梨、ボクはもうお前の所有物でも、召使いでも、奴隷でもない。
ボクは天音佑樹……ただの天音佑樹として生きていくから、もうボクに構わないでくれ」
ブチッ!
「黙れぇぇっ!!」
静かで声に力強さの籠もった佑樹の決別ともとれる言葉に花梨は完全にキレて佑樹に掴みかかろうとした。
「ちょっと二人とも! そこで何してるのっ!?」
眼鏡をかけた保健の先生が騒ぎを聞きつけて駆け寄り、花梨を止めた。
「廊下でそんな大声を出して何があったの!? 天音さん……だったわね? あなた、この子と何を揉めてるの?」
先生は生徒たちの話から元凶が花梨だと判断し、佑樹には何のお咎めもなく、花梨だけを厳重注意した。
佑樹はその場を静かに離れながら、心の中で小さく呟いた。
(……これで、完全に陰キャの殻が破れてしまったね)
花梨は先生に注意を受けながらも、佑樹の背中を燃えるような目で睨みつけ続けていた。
佑樹は校舎の裏手にあるベンチに腰を下ろし、静かに目を閉じた。
(花梨のあの腫れた頬……母さんがそれだけ怒るなんてアイツ、相当なことを言ったんだろうな)
神の心が与えてくれた完全な精神は、どんな罵倒も痛みも受け止めるが、決して傷つかない。
しかしそれでも、妹の言葉の一つ一つが過去の過ちを思い出させる。
昔、佑樹は何度も花梨の苛立ちから逃げた。
父親がいなくなってからの家庭の重圧を、妹に押し付けるような形で放置してきた。
それが過ちだった。
(もう逃げない。
どんなに罵倒されようと、どんなに睨まれようと、ボクは真正面から向き合う。
それが神の心を授かった者の宿命だ)
腫れた花梨の頬が脳裏に浮かぶ。
無限の精神が24時間稼働している今なら、軽い傷などすぐに治せるのだが……結束を結んでいない相手に能力を使うのはリスクが大きい。
それに、外部に知られてはならないという絶対の制約もある。
佑樹はゆっくりと立ち上がり、残りの昼休みを静かに過ごした。
放課後。
教室で一人荷物をまとめていると、再び花梨が近づいてきた。
「待ちなさいよ、クソザコ兄貴」
「まだ何かあるのか?」
「当たり前でしょ! さっきの続きよ!」
花梨は周囲の視線を気にしながらも、声を抑えきれずに続けた。
「ママに叩かれたのも、お前のせいだって言ってるの!
お前がいつもヘラヘラしてるから、私がイライラして……結果的にあんなことになったんだから、責任取れよ!」
「責任、ね……」
佑樹は静かに妹の目を見つめ返した。
「ボクが過去に逃げ続けたせいで、花梨がこんな性格になった部分もあるのかもしれない。
それもボクの過ちだって認めるよ」
「は……? 急に何言ってんの? キショい……」
花梨が一瞬たじろいだ。
しかし佑樹は退かず、淡々と続けた。
「でもこれからは違う。
ボクはもう逃げないし、花梨が何を言おうと、何をしようと、ちゃんと向き合う。
それでいいだろ?」
「お前何言って……ふざけんなよ」
花梨は唇を噛み、目を逸らした。
その横顔に、いつもの毒舌とは違う、わずかな動揺が混じっていた。
佑樹は心の中で静かに誓う。
(過去の過ちを、一つずつ清算していく。
妹とのこの関係も、その一つだ)
こうして、2人だけの静かな対峙は、まだ始まったばかりだった。




