70話 時鳥梓は一人泣く。
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結論から言えば、梓は契約書にサインをした。20年契約、マージンは事務所が9割。未成年である為、両親の同意書を添えて法的に不備のない契約を梓とヴァルプロは取り交わした。神原曰く『猿回しの猿』に付けた、20年の長期に渡る固い首輪。契約が終わる頃、梓は36歳になる。
その契約が有効かどうかはさほど問題ではない。首輪を付けた、と言う事実が大事なのだ。
鷹屋敷が決勝トーナメント進出を決めた翌日、梓がヴァルプロと契約を交わした数日後――、海外のいくつかの放送局が日本最大手芸能事務所の醜聞を報道した。
優越的地位を用いた言外の脅迫による不当な契約、ワンマン社長である神原主税による未成年タレントへの長年にわたる性的搾取、そしてそれを実質看過してきた日本のメディアの腐敗。告発したのは、かつて一世を風靡した元朝ドラ女優。彼女を中心とした何人かの被害者たちが、海外メディアに向けて声を上げ、それは世界に発信された。
証拠はない。言ったもの勝ちかもしれない。便乗もあるかもしれない。火のないところに煙は立たず――、と言ったら少し乱暴だろうか?スポンサーたちは世間の目も感じながら、事態が収まるまでヴァルプロが関わっている番組へのCM出稿を差し控えることになる。
怒り心頭の神原は各社の重鎮に檄文を送るが、それはほぼリアルタイムで海外メディアによって報道される。当初はネットニュースでしか報道されなかったヴァルプロ醜聞。もはや地上波メディアも無視することはできなくなり、一社、また一社とこの問題を報道し始めた。他人事のように、正義感を気取って。
やがて、もはや見過ごす事は出来ない――と、まじめな顔をしてヴァルプロ幹部がそれに乗る。甘い汁を吸った立場の彼が、いち抜けたとばかりに一転神原のワンマン体制を語り、自分には罪がないことを暗にほのめかし、保身の為に用意していた証拠を叩きつける。子会社を使った利益の不正還流と私的横領。これは明確な刑事事件だ。
落城寸前の燃え盛る帝国から、一人、また一人と逃げ落ちていく――。
ヴァルハラプロモーション本社ビル、その最上階に位置する社長室。コン、コン、と分厚い扉がノックされて、返事を待たずに扉が開く。
「失礼しまーっす。お呼びですか、社長っ」
入室してきたのは梓。室内には秘書の姿はなく、神原と、梓のマネージャーである篠田のみがいた。当然ながら応接テーブルには菓子も、茶も用意はされていない。
神原は何食わぬ顔で普段通りの梓を見て、嬉しそうに笑う。
「おう、梓。ふっ……っはははは。やってくれたなぁ」
「え?なんのことです?」
わざとらしくしらばっくれる梓。それすらも神原は満足そうに眺める。
「あの女にこんな絵図が描けるわけねぇだろ。それはワシがよくわかってる」
――あの女、とは告発の代表者になった元朝ドラ女優のことだ。
「あはは、ひっどぉ。そんなことばっかり言ってるからみんなに嫌われるんですよ」
「わはは、違いない」
梓は楽しそうにクスクスと笑い、神原は豪快に笑い返す。ヴァルプロ解体は必至で、神原は特別背任や業務上横領で収監は免れない。そんな状況にもかかわらず、二人はまるで今まで通りのように笑いあう。そばに立つ篠田一人が、悲痛な面持ちで直立している。
「いくつか答え合わせいいか?それしとかないとムショの中でモヤモヤすんだろ」
すでに刑務所に入る前提で神原は語り、梓は頷く。
「それは酷ですねぇ。しょうがないなぁ、どうぞ」
「なんで契約書にサインした?」
20年、取り分1割の契約。しかもしっかり親の同意付き。梓は『え?そこ』とばかりに眉を寄せて答える。
「サインしないとトワコの記事止まんないじゃん。それだけは絶対阻止しなきゃだったし。それに、……曰く、『勝ちを確信すると読みが鈍る』ってさ」
腕を組んで、どや顔で梓は語る。
「なるほどな。お前をあの高校に入れたのは大正解だったわけだ」
その一言で鷹屋敷の関与すら神原は悟り、梓は両手の人差し指をくるくると示しながら、言葉を続ける。
「どの道あの二択だったら最初から決まってるんだから、だったらまず最初にそのカードは切っておこうってわけ。そうすれば、油断も誘えるし、時間も稼げる。あとは、火が燃え広がるのを待ってるだけ~」
「もし、ダメだったら?」
神原はジッと梓の目をのぞき込んで問う。
「そしたら20年楽しくやるだけだよ。そして、トワコと共演する日を待つ!」
悲壮感もなく、それでいて完全に覚悟の決まった瞳と言葉。それだけに神原にはまだピースが足りない。
「どうしてそこまで柊に入れ込む?」
その質問は梓にとって愚問以外の何物でもない。
「どうして?決まってるじゃん。トワコだからっ。他に理由いる?」
理由はない。理屈ではない。おそらく世界で、もう一人にしか理解されない言葉。
「わはは、そうか。これでスッキリした。もう下がっていいぞ」
「はいは~い。それじゃ、二人ともお達者で~」
軽く笑って手を振り、梓は扉に手をかける。
「あぁ、梓」
社長が呼び止める声が聞こえ、振り返りはしないものの、梓の手が止まる。
「ムショの中でも楽しませてくれよ。ワシはテレビが好きなんだ」
ドアノブを持つ手にわずかに力が入り、思わず口が、涙腺が弛む。だから、梓は振り返らずにひらひらと手を振り、部屋を出た――。
人のいない最上階、エレベーターへと向かう梓。後ろでバタンと勢いよく扉が開く音がして、息を切らせて誰かが駆け寄ってくる。誰か、と言いはしたが一人しかいない。
「あっ……梓ちゃん!」
――梓のマネージャーである篠田だ。この世界に入ってから十年、ほとんど親のように梓の世話をしてくれた中年の男性。梓と同じ年の娘がいる。
「お。篠田さん。どしたん?」
息を切らせて、顔面蒼白で、脂汗を流しながら、篠田は最上階のレッドカーペットの上で土下座をする。
「たっ……たすっ!助けてください!」
ヴァルプロはもはや沈みゆく船。再就職を望むが、同業からは敬遠されてなかなか働き口が見つからない現実。対する梓はどこの事務所に移ろうと諸手を挙げての大歓迎だろうし、マネージャーを連れての移籍だろうとたやすく容認されるだろう。
「止められなかったんです!……私ごときに神原社長が止められるはずがなかった。申し訳ないとは思っていました!ずっと!……私にも、娘がいるんですっ」
「里奈ちゃんだよね。知ってるよ」
梓は土下座する篠田の前にしゃがみこんで、笑顔で頷く。篠田はそのまま悲痛な言葉を続ける。
「マンションもっ……、35年ローンなんです!まだ半分以上残っていて……だから!だから私も!どうか一緒に――」
「篠田さん、顔を上げて」
優しい声色で梓は声をかけて、篠田は恐る恐る顔を上げた。梓は声色通りの表情で、優しく微笑んで、ぽんぽんと篠田の肩を叩いた。
「ずっと知ってて黙ってたんでしょ?あたしがトワコを大好きなのを知っててさ。それでもずっと黙ってたんでしょ?」
成長でイメージがずれたのは事実だろう。事務所がずれたイメージのままゴリ押しして飽きられたのも事実かもしれない。それでも、ヴァルプロが圧力をかけさえしなければ、成長したイメージで再びブレイクできたかもしれない。いや、したはずだ。梓はそう確信している。
ヴァルプロは、その可能性すら潰した。それが梓には許せない。
「一言あたしに相談してくれれば、今回みたいに一緒に戦えたかもしれないのに。報告・連絡・相談。この世界で、篠田さんから最初に教わったことだよ?」
まだ右も左もわからない駆け出し時代。自分と同じ年の娘の写真を見せてくれてから、得意げに篠田は教えてくれた。社会人の基本の『き』、と。
それを思い出しながら、懐かしみながら、梓は言葉を続ける。
「だから無理。今までありがとう。お疲れ様。ばいばい、黙って沈め」
篠田はカーペットに突っ伏して、慟哭を上げる。梓はそのままエレベーターに向かい、それに乗り込むと、――その場にしゃがみ一人泣いた。




