69話 盤面を、読む。
◇◇◇
「ねぇ……っ、圭!あの子、梓ちゃんじゃないの!?ねぇ!」
「えっ、すごい!お兄なんなの!?何者!?」
鷹屋敷の母が困惑した様子で問い詰めて、その後ろからは妹の陽菜が室内の梓をのぞいては興奮した様子でその場で何度か飛び跳ねているが、鷹屋敷はお茶の載ったトレーを渡されながら首を捻る。
「時鳥梓さんだけど。なんでお母さん知ってるの?」
「知ってるわよ……!あんた同じクラスだったの!?言ってよ!」
「なんで?」
その表情で問答の意味のないことを悟った母は、手で部屋に戻るように促す。
「……ま、いいわ。部屋に戻りな。何か必要だったら呼びなさいね」
「うん、わかった」
トレーを持った鷹屋敷が部屋に戻る。梓は濡れた服を着替えて、頭にタオルを載せて座る。服は鷹屋敷の妹の服。小柄な梓にちょうどピッタリだ。
「明日、二次予選の決勝だったよね。本当ごめん」
将棋界で八つあるタイトルの一つ棋凰。次の一局に勝てば、鷹屋敷は棋凰戦決勝トーナメントに進出が決まる。未だ高校一年。当然ながら、最年少の快挙になる。
「朝早いので手短にお願いしますね。どうしたんですか」
梓は物珍しげに鷹屋敷の部屋をキョロキョロと見渡す。高校生の部屋に似つかわしくないモンスターPC以外は壁一面の本棚と、辺りに散乱する棋譜の山。そして複数の将棋盤、碁盤、リバーシやチェス。様々なボードゲーム。唯一の飾り気は、本棚の上に飾られた十和子のサインだ。
「あたし男の子の部屋入ったの初めて〜」
玄関での様子とは打って変わって、ケロリとした梓は声を上げる。
「あの、時鳥梓さん。僕明日朝早いので、手短にお願いしますね。どうしたんですか」
ゲームのNPCのように同じような言葉を繰り返す鷹屋敷。梓は変わらぬ鷹屋敷の物言いにクスリとしながら、きちんと正座に座り直して頭を下げる。
「うん、ごめん。助けて」
思いがけずまっすぐな言葉に鷹屋敷は目を見張る。
「助……ける?僕が?時鳥梓さんを?」
困惑した様子で手近に置いてあった扇子を手に取り、パチン、と一度鳴らす。
「お金です?確かに少しは貸せますが」
梓は首を横に振る。
「ううん、お金はあたしもかなりあるから。気持ちは嬉しいよ、ありがとっ。じゃなくてさ、もう時間も全然ないんだ。……一緒に考えて欲しいんだよね。どうすれば、ヴァルプロの社長をぶっ飛ばして、……あたしとトワコが楽しく遊べるのかを」
鷹屋敷は扇子を鳴らしながら、やはり首を傾げる。
「ばる……ぷろ?」
「あはは、そこからかいっ」
鷹屋敷はいつの間にか盤の前に座する時と同じ表情になっていた。パチン、と扇子の音が鳴る。
「えぇ、お願いします。全部教えてください。相手と、時鳥梓さんが、どんな駒を持っていて、今がどんな盤面なのか。それがわからないと、戦えませんから」
少し前まで絶望の淵にいた梓の口元が弛み、身体を突き抜ける何かに思わずぶるりと身震いしてしまう。
「ちょっと……、いや、だいぶ長くなっちゃうけど、本当にいいの?」
「えぇ、お願いします。全部教えてください。勝ちたいんでしょ?」
鷹屋敷の右手が持つ扇子は、一定のリズムで音を鳴らし、ジッと梓を見るその瞳は梓を見てすらいないように見えた。
「……か、勝てるかな?」
「そう思って対局する人はいませんよ。勝つんです」
そして、梓は説明を始める。芸能界のげの字も知らない鷹屋敷に、単語一つ一つを説明しながら、自分と十和子の昔話も交えながら、あまり主観的にならないように、時折当たり前の前提を聞き返されながら、扇子の音と、梓が話している途中もずっと何かをつぶやく鷹屋敷の声を聴きながら、梓は話を続ける。今が何時なのかは、二人とも全く気にもしなかった。
「つまり、その社長はなにをしたんです?」
女性タレントたちから聞いた神原の悪行を都度ぼかして伝えていると、それに苛立ったように鷹屋敷が問い返し、梓は苦笑いで答える。
「や、そこは察しなよ」
「察する?勝敗のかかった局面で敢えてそこをぼかすメリットは?つまり、その社長はなにをしたんですか?」
何度ごまかそうとしても話を戻される。梓は観念して、恥ずかしそうに、目をそらしながら、小声で呟く。
「……女の子に、悪いことするんだよ」
「悪いこと?」
さらに問い返す。梓は観念して真っ赤な顔で鷹屋敷に耳打ちする。鷹屋敷は少し眉を寄せてからようやく納得したように扇子を鳴らして頷く。
「なるほど」
鷹屋敷はまたぶつぶつと独り言を始める。将棋ではなく、碁盤を取り出して、その各所に将棋の駒や碁石を置き、時折首をかしげては、石を置く。おそらく彼の脳内を表すそれは梓には全く理解が出来ない。盤面にはチェスの駒やリバーシの石も加わり、さらに複雑に、賑やかになっていく。
梓は不規則に室内に響くパチ、パチ、という音を心地よく、頼もしく聴き入りながら、鷹屋敷の右手を眺める。
「ネイル用品、持ってくればよかったね」
嘘やお世辞を言うことのない鷹屋敷、恐らく本当に気に入っている駒のネイル。明日は勝てば最年少での決勝トーナメントという大一番。そんなささやかなお礼もできない自分を歯がゆく思う。
「そうだ、知ってました?」
盤面から目を上げずに、鷹屋敷が呟く。そして、梓の返事を待たずに言葉は続く。
「時鳥梓さんに爪を飾ってもらった時、僕負けたことないんです」
おそらく耳に届いていないと思った言葉が届いていたことと、思わぬ言葉に目を丸くする。
「意外。ゲン担ぎとか気にしないと思ってた」
「ゲン担ぎというか、ただの事実ですね。せっかくだからお願いします」
そういって鷹屋敷は右手を開いて梓に向ける。
「いや、だからネイル用品ないんだって」
鷹屋敷の視線が梓に戻り、次の瞬間彼は立ち上がる。
「あ、そうか。陽菜なら持ってるかな」
「えっ、ちょっ……今何時だと――」
梓が止めるよりも早く、鷹屋敷は部屋を出る。時刻は午前二時を回っていた。
明日は朝早いと言っていた。そんな彼をこんな時間まで付き合わせてしまった罪悪感が、今更ながら重く胸にのしかかる。明日は大事な対局なのだ。今ならまだ間に合うかもしれない。
自嘲気味に小さくため息をついて、立ち上がる。折よくネイル用品の入ったポーチを持った鷹屋敷が部屋に戻る。
「トイレです?出て右か一階がよければそっちにもありますよ」
「や、今更だけど迷惑掛けちゃったなって」
鷹屋敷はそんな言葉に耳を貸さず、梓にポーチを渡す。
「では、お願いします」
そういって、再び盤の前に座り、肘置きに右手を置き、広げて爪を向ける。ただそんな動きだけで、梓は泣きそうになってしまう。事実、涙はにじむ。
「……うん。梓ちゃん、頑張っちゃうよ!」
「かっこよくしてくださいね、かっこよく」
「任せといて」
――気づけば、カーテンの外は明るくなっていて、鳥のさえずりが聞こえていた。
梓の瞳には、完全に光が戻っていた。鷹屋敷はダメを押すように梓の目を見据える。一睡もしていないにも関わらず、気分が高揚している今はその瞳には疲労の色は一切見えない。
「飛車角を守って玉を失う。これは初級者にありがちな悪手です。飛車を切っても、角を渡しても、どれだけ形勢が悪かろうが、一手でも先に相手の玉を取れば勝ち。それが将棋においての勝利条件です。だけど、これは今回は当てはまらない。失うとしても、それは――」
続く鷹屋敷の言葉に梓はコクリと頷く。
「うん、やってみる。……ありがと」
ハイタッチ、と手のひらを向ける。だが、鷹屋敷は手を動かす素振りもない。
「おい、こらぁ。ハイタッチだよ。手ぇ上げて」
「手?」
ネイルの施された右手を上げると、梓は力強くそれに手のひらを合わせる。
室内にパンと小気味よい音が響いて、梓はいたずらそうに笑う。
「勝利の女神がネイルしてあげたんだから、絶対勝ってよね」
わずかな痛みと熱を感じる手のひらを眺めてから、鷹屋敷は梓を見る。
「勝ちますよ。だから、時鳥梓さんも。絶対に」
「……勝ぁつっ!」
力強く、両手で、全力でガッツポーズをとり、梓は声を上げた。
そして、玄関先。梓は見送られる鷹屋敷の両親と妹に深々と頭を下げた。
「大事な対局前なのに、本当にご迷惑をおかけしちゃいました。もし、万が一のことがあったら――」
梓は頭を上げて、自分の胸に手を当てながら、大真面目な顔で両親と妹に宣言をする。
「あたしが一生面倒を見ますから!」
それを聞いて妹は色めきだって喜ぶ。
「やったぁ!お兄っ、負けて!」
「やだよ、負けないよ」
――天才棋士・鷹屋敷四段、欠伸をかみ殺しての大逆転劇!最年少で棋凰戦決勝トーナメント進出決定!
そんな記事がスポーツ新聞各紙の紙面を飾った数日後、ヴァルプロに激震が走ることになる。




