23話 柊木十和子の現在地③ 好きな人の好きな人。
◇◇◇
――朝、目を覚ますと身体は寝汗で濡れていた。
「……あっつぅ」
パジャマの裾で首元の汗を拭うと、ベッドから上体を起こした十和子は一人で呟いた。高校生の一人暮らし。防犯の意味もあり、夜だろうと窓を開けて眠るようなことはしない。いつも通り少し高めの温度でエアコンをつけて眠りについたはず。視線を上げると、確かにエアコンはついている。
カーテンを開けようと立ち上がる。途端、世界がぐにゃりと歪む。
「あれ?」
そのまま歪む世界にあらがうことなく、ぼふっと枕に顔を鎮める。
「あれれれ?」
再度上体を起こす。手で触れた顔は熱く、頭はぐわんぐわんと揺れ、ずきずきと痛む。
「……うそでしょ?風邪……とか?」
体温を測ろうとして、昨年から一人暮らしを始めたこのマンションには体温計がないことに気が付く。当然、風邪薬の類もない。
去年まで過ごした親元にはあった。熱が出れば当たり前のように体温計が出てきて、母が看病してくれて、食べやすい食事を作ってくれた。
けれど、今は一人暮らしだ。
「うあぁ、参ったなぁ」
まずは水を飲もうと考えて、ふらつく足取りで壁に手をつきながらなんとか冷蔵庫へと向かう。喉が渇く。身体が熱い。その道すがら、まず頭に浮かんだのはショート動画の更新予約と週末の配信だ。
(……ショートはあと三日分撮ってあるから大丈夫。今日が日曜日じゃなくてよかったぁ)
水を飲んで、少し何かを食べて、ぐっすり眠ればすぐに治るだろう。子役時代から体調管理には細心の注意を払ってきたが、けっして身体が強いわけではない。
思い当たる節があるといえばある。長時間電車に揺られて海へ赴いた。少しはしゃいで、日差しを浴びすぎたのだろうか?たくさん撮った写真が嬉しすぎて、眠る前にベッドでスマホを眺めすぎていたのだろうか?
イツキのスマホを借りて写真を撮った。あの写真は、今も彼のスマホに残っているだろうか?そんなことを考えて、『イツキは風邪ひいていないかな?』と重い頭で考えた。
冷えたミネラルウォーターをグラスに注ぎ、喉を潤す。ゴク、ゴクと冷水が喉を通るたびに、熱いからだに染みわたり、すぐに蒸発していくような錯覚。頭も、身体も熱く、重く、鈍い。
「あ」
一人暮らしを始めた日に買ったグラスはするりと手をすり抜けて落下する。スローモーションで落下するそれを他人事のように眺めていると、一秒にも満たない時間の後、パリンと乾いた高音とともにグラスはガラス片へと姿を変える。
「あ~……、なにやってんだ私」
片付けなければ――、と思うが、身を屈めるのも億劫に感じてしまい『あとでいいか……』と再び壁伝いにベッドに戻る。
とにかく眠ろう。眠って、起きれば少しは良くなっているはず。
そう考えてのそのそと布団に潜り、枕に顔をうずめる。すると、急に目からぽろぽろと涙が流れ出した。
「本当、私なにやってんだろ」
口を開けば嗚咽が漏れてしまいそうで、必死に口を結ぶ。口に力を入れると、目からはさらに涙が溢れて、生ぬるい涙は熱い頬を濡らす。
父と母と三人の家族チャットを開く。
『助けて』
そう入力して、すぐに文字を消す。何を今さら――。
子供の頃から仕事ばかりで、友人と呼べるのは同じ子役上がりの梓しかいない。トップタレントである梓の夏休みは、まるで電車の時刻表のようにびっしりと埋め尽くされている。こんなささいなことで呼べるはずがない。そして、梓は十和子にとっては友人であると同時に、いやそれ以上に『ライバル』だ。
子供の頃から仕事ばかりだったから、友達がいない代わりに周囲にはたくさんの大人たちがいた。だが、『柊ワコ』が商品価値を失うと、その誰もがいなくなった。過去を消せる勇気もなく、その名残である連絡先だけは今もスマホに残っている。
イツキに連絡をすれば、確実に助けに来てくれるだろう。何でもない顔で、たくさんの食べ物や風邪薬を買ってきてくれるだろう。割れたグラスだってきっと文句を言いながらも掃除してくれることは分かりきっている。
イツキとのトーク画面を眺めながら、十和子は枕に乗せた頭を小さく左右に揺らす。
だからこそ、彼に頼るわけにはいかない。気持ちの弱った今、彼の好意の矢印の向く先を見るのが辛い。
藍沢イツキが好きなのは、『柊ワコ』なのだから。
幸いにして、必要な作業は終わっており、イツキは今日来る予定は無い。トーク画面を閉じて、カメラロールを眺める。一緒に海に行った写真。彼の友人たちとカラオケに行ったときの写真。眺めているだけで自然と口元が弛んでしまう写真たち。
そして、少し考えて十和子は再びトーク画面を開く――。
◇◇◇
ピロンとスマホが鳴り、冷房の効いた自室でアイスを食べながら映画を見ていた浦原はスマホを手に取る。
『お久しぶりです。柊木十和子です。覚えてますか?』
あまりに他人行儀な文面に、浦原は一人吹き出してしまう。
『文面固すぎて草。逆になりすましっぽいんだけど』
再びスマホが音を立て、返信が届く。
『本人です。不躾な質問なんですけど、今って忙しいですか?』
『さらに固くなったな。ヒマだよ。ヒマ。超ヒマ。もしかして遊んでくれんの?』
『もし、本当に暇で暇でしょうがなかったらでいいんですけど、お金ならいくらでも払うので、イツキには内緒で、ちょっと物を運ぶだけの簡単なお仕事しませんか?』
『闇バイトかな?』
『いえ、違います。なんと言いますか』
なかなか要領を得ないやり取りを楽しみながら、浦原は十和子にビデオ通話をかける。
「はよー。とわこちゃん、どした〜?」
軽い呼びかけをした浦原は、画面に映る十和子を見て状況を察する。
「ありゃ、具合悪い?どした?」
「……風邪ひいちゃいまして」
「結構辛そうね。熱は?」
「体温計、無いからわかんないです」
「へぇ」
浦原はビデオ通話を続けたまま立ち上がり、着替えを始める。背後では浦原が見ていただろう映画の音声が流れ続けている。
「とりま行くよ。うちにかけて来たってことはそういうことっしょ?」
「……おっ、お金なら!たくさん払えるから!」
眉を寄せて、切実に訴える十和子を見て、浦原はにっと笑う。
「いらんし。頼ってくれて嬉しいよ、うちは。準備してるから住所送っといて」
心身の弱った十和子は、あまりの頼もしさに目元に涙が滲んでしまう。
「……はいっ!ありがとうございます!」
◇◇◇
「じゃますんでぇ〜」
コンビニ袋とスーパーの袋を両手に抱えて、汗だくの浦原は十和子のマンションを訪れる。
「あ、いらっしゃい浦原さん。……本当にごめんなさい」
「出迎えとかいらんから寝てろし。うお、なにこれ。マキビシ!?」
冷蔵庫の脇に散らばるガラス片を見て浦原は驚きの声を上げる。
「や。手を滑らせちゃって。片付けるの億劫でそのまま……、です」
「あー、はいはい。そういう感じね。めぐるちゃんに任せとけって」
「めぐる……ちゃん?」
十和子が問い返すと、浦原は照れくさそうにはにかみ笑いを浮かべる。
「ん?うちの名前。似合わんっしょ?」
マスクをした十和子はふるふると首を横に振る。
「ううん。超かわいい、です」
予想しなかったストレートな褒め言葉に、浦原も顔を赤くして笑う。
「わはは、こりゃだいぶ熱あんなぁ。あ、体温計買って来たよん」
――結果、熱は38.4℃もあった。
風邪薬を飲んで、寝汗を拭いて、額に冷却シートを貼ってもらい、布団に戻される。
「冷たくて気持ちいい」
「その熱ならそりゃそーよ。今おかゆ作ってっけど、ゼリーも飲んどきなね。下がんなかったら医者行きだから」
「……風邪、うつしたらごめんね」
「全然よゆーよ?うち風邪ひいたことないし。つーか、超お高そうなマンションだけど、家賃おいくら?」
布団に半分顔を隠した十和子は、言いづらそうに口を開く。
「……分譲」
「マジか。さすがすぎんね」
そんな話をする間におかゆが完成。
「じゃん。普通の卵がゆ〜」
と、言いながら別皿には梅干し、しらす、シャケフレーク、昆布など、いくつもの味変が盛られている。
「どんなんが好きかわからんかったからさ、好きに食べてよ。食べれそ?嫌いなものはないんだっけ?」
十和子はこくりと頷く。
「すっごいおいしそう。……いただきます」
浦原はニコリと笑う。
「めしあがれ」
十和子がおかゆを食べ終わると、浦原はベッドに寄りかかりながらリビングのテレビで映画を眺める。家で見ていた映画の続きだ。十和子もベッドで横になってテレビを見る。
「寝てろー?」
「大丈夫。浦原さんのおかげでだいぶ楽になったもん」
「スーパーめぐるちゃんナースさん、な?」
真面目な顔で訂正する浦原。十和子はつられて笑ってしまう。
「めぐるちゃん、だけもでいい?」
自分で言っておいて、いざ言われると少し照れくさい。
「……ま、まぁ。うん。いいよ」
しばらくの間、二人は無言で映画を見ている。
「あのさー。別にたいしたことじゃないんだけどさ」
画面を見ながら、浦原が十和子に問う。
「うん。なに?」
「なんでイツキ呼ばなかったん?や。うちはとわこちゃんに頼られたのはめちゃ嬉しいから超ありなんだけど。家にいても映画見てただけだし」
何秒か経っても返事がなく、『あ、まずったか?』と思い浦原は振り返る。
十和子は眉を寄せて、いくらかの諦念を覗かせる微笑みを浮かべて答えた。
「イツキが好きなのは『ワコ』だから」
浦原の目が少しだけ見開き、十和子は申し訳なさそうに言葉を続ける。
「……弱ってる時はそれがちょっとだけキツいかなぁって」
その表情を見て、浦原は呆れ顔で小さくため息をつくと、十和子の頭をよしよしと撫でる。
「バカだねぇ、君ら」




