11話 【オワコン子役の初配信】
――日曜日、午後九時。
画面右上の時計がその数字に変わった瞬間、十和子は大きく息を吸った。
部屋の明かりは少し落としてある。白いデスクの上には、マイク、スマホ、メモ書き程度の進行表。モニターの中では、簡易版の柊ワコが微かに揺れている。
俺は十和子の斜め後ろの部屋の端。配信画面には映らない位置で、ノートパソコンを開いてコメント欄と各種設定を確認していた。
配信予定時刻二分前。待機人数2503人。この画面の向こうで、それだけの人がワコが現れるのを待っている。期待と歓迎だけではない。嘲笑や冷笑もあるだろう。気が付けば手のひらは汗でじっとりとしていて、服でそれを拭う。鼓動も早い。
「イツキ」
配信一分前。秒針をチラリと見ながら十和子は俺を振り返ると、少し紅潮した顔で、楽しそうに笑う。
「始まるね。イツキも楽しんで」
声が出せず、ぎこちない動きで頷くことしかできず、十和子はそれを見てまた楽しそうに口元を隠す。
時計は進む。時刻は近づく。午後九時二分、五十秒。五十五秒。五、四、三、二、一……。
――九時三分。
ジングルも、アイキャッチもなく、2632人の前に柊ワコが現れる。
「おはよっ、こんにちは、こんばんは~!新人VTuber・柊ワコの~……初・配・信で~す」
いつもより高めの声の調子とテンション。コメント欄は一気に沸きあがる。
『きたあああああ』
『ワコだ』
『声!』
『うわ』
『本物じゃん。俺にはわかる』
『なつかし』
『え、普通に泣く』
『オワコンさんこんばんは』
『動き少なw』
『劣化レプリカ野郎www』
『これは別人』
『柊ワコ!?』
『ワコちゃーん』
「今日からね、トワコンチャンネル……始めさせてもらいますっ。本当はね~、まだ準備途中なのよ。でもみんなと早く会いたくてねぇ。ジングルもまだできてないし、アイキャッチも作ってない。アバターは、今これワコVer0.5って言ってね。順次パワーアップするから楽しみにしててね。超かわいいから。あ。今でもかわいいか」
『なん……だと……?』
『柊ワコは二段階の変身を残している』
『手作り感ww』
『自分で言うな』
『かわいい』
「うわ、ありがと。何年振りに言われたかな、そんなこと。うれし~。自己肯定感高まるぅ」
『かわいい』
『かわいい』
『かわいい』
「じゃあね、新人なので、自己紹介から始めたいと思いますっ。柊ワコ、10歳くらいです。好きな食べ物は~なんだろう?大体何でも食べるし、なんでも好きかな。嫌いな食べ物は無し。残さずなんでも食べます」
『偉い』
『16歳だろ』
『シュールストレミングは?』
『昔はトマトが嫌いだったのに』
そのコメントを見て、十和子は頭を抱えて首を振る。アバターにはまだ反映されない動きだ。
「む……か、し?あのね、わたし嫌なことがあって記憶喪失なのですよ。だから、昔のこととかお話できない設定なの。けっして、契約とかの話ではありませんので悪しからず!」
『守秘義務だコレ』
『偽物くさいな』
『トマト克服して偉いね』
『便利な設定ですねー』
「ふふん、でしょ?我ながらいいアイディア!」
『つえぇw』
『10歳児には皮肉が効かねぇんだ』
「今日はね、今~3042人?3?とにかく、想像よりもたくさんの人が見に来てくれてるわけだけど、『ワコちゃんかわいい』でも、冷やかしでも死体蹴りでもいいんだよね。とにかく見に来てくれて、お話をしに来てくれたのが本当に嬉しいんだ。やっぱり、一番キツイのはね……無関心なんですよ」
『重っ』
『急に死体蹴り言うなw』
『素が出た』
「だけど、ただ帰すのも芸がないからね。きっちり今日は楽しんでもらわないとね。ゴホン、いいですか皆さん。今日は~、わたしを好きになった人から帰ってよし!」
後ろで聞いていて思わず吹き出しそうになり、口を押さえる。音を入れる訳にはいかない。瞬間、コメント欄もわっと沸く。
『心がつえぇんだw』
『帰れない』
『帰りたくない場合はどうすれば……』
「仮にお客さんが減ったとしたら、その人はわたしのことを好きになってくれたってことだよね。どうかな~。減るかな~減れ!減って!お願い!」
『視聴者減望む配信者おる?』
「帰れ!帰って!帰ら……ないね。まだか。まだわたしの魅力が伝わってないってことね。はいはい、わかりましたよ。ケッ」
『態度悪い子供は嫌いだよw』
『これは天才子役』
『帰りませんw』
まるで空気が目で見えているかのように、手で触れられるかのように自在にこね回して、ワコはコメントと遊ぶように、声を弾ませた。
サポートをする側の人間としては失格なんだろうけど、いつしか俺は緊張も胃の痛みも忘れて、ただ画面の中のワコを夢中で眺めてしまっていた――。
「しょうがない。まだ続けるかぁ」
十和子はわざとらしくため息をついてクスクスと笑う。
企画も進行表もない雑談は続く。配信時間は30分を超え、40分を超え、同時接続者数も緩やかに増え続けていく。
『この子有名な子なの?めちゃおもろいんだけど』
そのコメントが流れた瞬間、今まで流れる水のように止まらなかったワコの言葉がピタリと止まる。
――『過去の柊ワコ』を知らない、純粋な初見のコメント。
『どうした?』
『接続不良か』
『おーい』
『放送事故w』
五秒続いた沈黙は、永遠とも思える長さに感じられた。
「@hatoya89さん」
コメントの横に並ぶアカウント名を読み上げて、ワコは声を震わせる。
「……あのさぁ。わたし泣かせてどうしようっての?絶対、一生このコメント忘れないからなぁ!このやろう!あ~、もうっ!ver0.5で良かったよ。表情出ないからさ!くっそぉ、ティッシュ……ティッシュを」
『泣いてんのか』
『俺も泣いた』
『おワコwww』
『くっそ』
『はいはい、仕込み仕込み。……ティッシュどこだ?』
ズっと一度鼻をすする音をマイクが拾い、それも気にせずワコは配信を続ける。
やがて、一時間が経つ。あらかじめ設定しておいた学校のチャイム音が終了のアラームだ。
「ありゃ、時間だね。それじゃ、柊ワコの初配信……今日はこの辺で!やってほしいこととか、質問とか、歌ってほしい歌とか、あったらコメント欄に入れといて。みんな、今日は本当にありがとう!子供はもう寝る時間だよ、お休み~!」
ワコの元気な声が響き、一切の余韻もなくチャンネルは即配信終了。
『早っ』
『余韻ください』
『またね~』
『おやすみ』
『子供は寝る時間、か』
名残惜しそうに流れるコメントを眺めながらヘッドホンを外すと、俺も現実世界へと戻ってくる。
十和子もヘッドホンを外し、クルリと椅子を回転させて俺を見る。
「イツキ、どうだった?」
無邪気に笑い、俺に感想を求めてくる。
「……い、いやいや。順番が違うでしょうが。先にお疲れ様って言わせてくれよ」
一時間もの間、最大4533人の前で絶え間なく話し続けることがどのくらいの重圧なのか。俺には想像もできない。グラスに注いだカフェオレを手渡すと、十和子は満足げにそれを受け取り、手で俺の言葉を促す。
「うん、言っていいよ。はい、どうぞ」
「あー……。お、お疲れ様」
いざ催促されるとなかなかに照れくさい。
「じゃあ、今度は私の番ね。どうだった?」
座ったまま、俺を見上げて、十和子は言葉を待つ。
なんと伝えたらいいかと思い、口に手を当てて少し考える。『すごすぎる』『天才かよ』『ヤバい』『想像以上』いくつも浮かんだ誉め言葉は、本心でありながらもどれも陳腐に思えてしまう。
「楽しかった」
お前仕事しろよ――と思われてしまいそうだけど、口をついて出たのはそんな言葉だった。
それを聞いた十和子は、少し目元を赤くしながら、泣きそうなくらいの笑顔で俺に手のひらを向ける。
「私も。すっごく!」
釣られるように俺も手のひらを向けると、十和子の手のひらは俺の手のひらを打ち、パンと一度軽快な音を立てた。




