9鏡 熱を溶かす、熱を重ねる
机の上の試験管では、青紫色の試薬の液だまりが、プツプツと小さく気泡を弾きながら乾きかけている。
私は、汚れきった木製の作業台に両手をつき、目の前の真鍮製蒸留器の管から噴き出す青白い魔力の蒸気から、一瞬たりとも目を離さずにいた。
いいえ、目を離せなかったのだ。
そうしていなければ、胸の奥の激しい鼓動が口から飛び出してしまいそうだったから。
予定より遅い、嫌な予感ばかりが頭をよぎるので、考えないようにずっと作業をしていた。
そのとき、地下工房の重い扉が静かに開き、夜の冷たい湿気と泥の匂いが室内の空気をわずかに揺らした。
「――戻ったわ、アヤ」
低く、しかし長旅の緊張がほどけたような、かすかに震える声が工房に響いてきた。
振り返るまでもない。
革靴の重い底が石畳を叩き、死地の冷気と熱を纏ったエルナがそこにいた。
長旅で使い古したボロボロの革鎧はあちこちが抉られ、その合わせ目から覗く彼女の肌にはいくつもの痛々しい傷跡が残っている。
ああ、またそんなに傷をこしらえて……。
工房の空気を重く押し下げるのは、直前まで命のやり取りをしてきた彼女の肉体が放つ、生々しいほどの熱だった。
その圧倒的な存在感が、澱んだこの空間の空気を一瞬で塗り替えていた。
生きて帰ってきた。
その厳然たる事実だけで、私の凍りついていた心臓がドクリと跳ねた。
「……遅かったわね」
ああ、またそんなに傷をこしらえて……。
私は冷めかけたフラスコからわずかに視線を外し、低い声で呟いた。
動かした銀髪の毛先が冷え切った頬を重たくかすめ、私はただ、じっとエルナを見つめ返した。
彼女はふっと柔らかく微笑み、静かに歩み寄ってきた。
逃げ場のない作業台の角と、エルナの身体に挟まれるようにして、私の背中がひやりとした石壁に押し付けられた。
ふわりと伸びてきた大きな手が、私の顎を優しく捕らえた。
戦士の硬くなった指先なのに、私に触れる時だけは、まるで壊れ物を扱うように信じられないほど慎重になっているのが凄くわかる。
そこから伝わる体温は異常なほど高く、私の冷え切った血肉を優しく溶かしていくような、愛おしさに満ちた熱量を帯びていた。
すぐ目の前にある彼女の顔には、いくつもの戦いの傷跡が残っているけれど、それすら悔しいくらいに綺麗で、見惚れてしまいそうになる。
呼吸のたびに豊かな胸元が柔らかく上下し、切なげな熱を孕んだ甘い吐息が私の鼻先を直接叩いた。
「ねえ、聞いてるのアヤ。……相変わらず、私の顔を見ても少しも動揺しないのね」
「……早くその袋を出しなさい。素材が劣化するわ」
声がわずかに震えてしまうのを隠すように、私は冷たい言葉を遮った。
本当にどこを見てそう言っているのこの朴念仁は。こんなにドキドキしているのに、動揺してないように見えるわけ?
本当にもう。
けれど、エルナは切なそうに、けれど愛おしそうに小さく笑い声を漏らす。
私の強がりなんて、とうに見透かされているのだろう。
意地の悪い彼女は、こういう時にあえて何も言わずに楽しむのだ。
彼女は手元の革袋を無造作に作業台に放り出すと、もう片方の手で私の腰を強く引き寄せ、背中に腕を回して逃げ場を完全に塞いだ。
冷たい鎧の表面と、その内側で燃え盛る彼女の狂おしいほどの体温が、薄いシャツの布地を越えて私の体にじっとりと溶け込んでくる。
拒絶する理由なんて、最初からないのだ。
悔しいけれど、彼女の腕に強く抱きしめられた瞬間、泥や鉄の混ざったエルナの匂いと、狂おしいほどの甘い熱が、私の頭の芯まで一気にとろけさせていく。
「離しなさいよ、エルナ。蒸留器の火が狂うわ」
声が震えてしまうのを隠すように、私はわざと冷たい言葉をぶつけた。
けれど、エルナの腕は私を締め付ける力を少しも緩めようとはしない。
「狂ったらまた一から組み直せばいいわ。それよりアヤ、あなた、またここから一歩も動かずに、ろくに飯も水分も摂ってないでしょう。こうして触ってなきゃ、あなたはいつの間にか勝手に消えてしまいそうだから」
低い声が耳元を優しく震わせる。
それどころか、私の体を自分の身体にこれ以上ないほどぴったりと密着させてくる。
「っ……、エルナ……」
彼女の柔らかい唇が、私の強がりを強引に奪うように、頬から滑って私の唇へと重ねられた。
泥や鉄の混ざった匂いと、狂おしいほどの甘い熱が口内に流れ込んでくる。
不器用で、だけど激しい執着に満ちたキスに、私の指先はいつの間にか、彼女の汚れた革鎧を強く掴み返していた。
互いの鼓動がうるさいほどのリズムでぶつかり合う中、ただ彼女の放つ圧倒的な熱に心地よく流されながら、私たちはゆっくりと息を重ね合っていた。
どのくらいの時間が経っただろう。
ようやく唇が離れたときには、私の冷え切っていた身体は、驚くほどエルナの熱で満たされていた。
「……本当に、バカね。帰ってきた早々、強引なんだから」
まだ少しだけ名残惜しそうに私の腰に回されている彼女の手の上に、自分の手をそっと重ねる。
エルナは悪戯が見つかった子供のように、けれど本当に嬉しそうに、くしゃりと眉を下げて笑った。
机の上の蒸留器からは、相変わらず青白い魔力の蒸気が細く立ち上っている。
火が狂うなんて言ったけれど、狂うはずが無いのはお互いに知っていた。
「アヤ、お腹空いた。なんか美味いもの作って」
「……座って待っていなさい。ついでに、その酷い怪我の手当てもしてあげるから」
呆れたようにため息をつきながらも、私はもう、彼女から視線を外さずにいた。
泥と夜の匂いに満ちていた地下工房の空気は、いつの間にか、私を呼ぶ彼女の温かい体温の匂いで満たされていた。
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