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百合の滴る万華鏡(百合短編集)  作者:


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8/8

8鏡 世界の半分が闇に溶ける夜

 今、誰の胸で眠っているの……?」

 凍てつく夜気にぽつりと零れ落ちた呟きは、白く濁った吐息とともに、容赦のない冷酷な突風にあっけなく掻き消された。

 彼女は今頃、自分ではない別の誰かが温めるベッドの中で、微かに寝息を立てながら、甘い微睡みに身を委ねているのだろうか?

 最悪の想像が脳裏を過るたび、心臓の奥底を鋭利な刃物でじくじくと、生肉を抉られるような激痛が身体を駆け巡ってくる。


 寒さで感覚の麻痺しかけた指先を痛々しく震わせながら、コートのポケットの底で氷のように冷え切っていたスマホを手繰り寄せた。

 液晶が灯ると、目を刺すような青白い光が溢れた。

 その冷徹な輝きが、闇に慣れた視界を確実に侵食していく。

 ディスプレイに冷たく浮かび上がっているのは、数時間前に彼女から届いた『おやすみなさい』という、たった六文字だけの無機質なメッセージだった。

 そこには余計な感情が一切削ぎ落とされた、記号のように隙のない文字列が並んでいる。

 この完璧な画面の裏側で、彼女は今、本当は誰にあの身体を溶かすような甘い声を注いでいるのだろうか。

 自分以外の誰かのために、あのガラス細工のように繊細で綺麗な瞳を、熱い情欲の涙で濡らしているのではないか?


 私には、その真実を確かめる術すら最初から与えられていないのだ。

 彼女は、本当に、残酷なほどずるい人だと思う。

 私の前で見せる姿はいつも、壊れやすい硝子細工でも扱うように慎重に言葉を選び、完璧に調律された美しい笑顔をけして崩そうとはしない。

 私に差し出されるのは、いつだって不純物のない、冷徹なまでに透き通った優しさの出がらしだけだった。


 だが、私が心の底から渇望しているのは、そんな精巧に作られた綺麗なレプリカの愛ではない。

 優等生の仮面のように貼り付いたあの隙のない笑顔を、この手で無理矢理にでも引き剥がしてやりたかった。


 理性もプライドもすべて塵のように脱ぎ捨てて、子供のように声を上げて泣き叫び、みっともなく取り乱す無様な姿を、私はただ、見つめてみたい。

 私だけの手で、彼女が頑なに守るその澄み切った境界線を、めちゃくちゃに掻き乱してドロドロの泥水で濁らせてみたい。


 胸の奥で、不快な金属音を立ててドクドクと何かが鳴り響いた。

 底なしの泥のような独占欲が激しく暴れだす。

 同時に、狂おしいほどの愛おしさが胸を強く突き上げていた。

 二つの毒が衝突し、肺の空気を力任せに絞り出していく。

 呼吸の仕方がわからない。

 胸が、狂いそうなほど苦しかった。

 けれど、それでイイと思う。


 彼女という濁流に深く溺れ、ただ狂信的にそのことだけを想う。

 それだけで私の心は、(ゆが)んだ歓びに満たされていった。

 剥き出しの生肉に爪を立てられ、血が滲むような激痛。

 それこそが、私の至高の快感に他ならない。


 ふと重い顔を上げた。

 凍てついた街灯が、一本の白けたアスファルトを冷たく照らし出している。

 その道は底の知れない暗闇の奥へと、どこまでも遠く、孤独に伸びていた。

 もし、あの暗い道の果てに、彼女がただ一人で私を待っているなら。

 「綾」と。

 あの形の良い淡い唇が、淫らに、優しく、私の名前を紡いでくれるというのなら――。


 手の中の地位も、平穏な人生も、何もかもを後悔なくドブに捨てて構わない。

 私は今すぐ、彼女の元へ迷わず駆け出すだろう。

 それを平然とやってのける狂気を、今の私は飼い慣らしていた。

 世界のすべてを敵に回してもいい。不気味なほどに真っ黒な衝動が、胸の奥でどす黒く渦巻いていく。


 お互いに女の子同士だから、彼女は最後の一線に踏み出せないのだろうか。

 それとも、あの完璧すぎる優しさは防壁なのかもしれない。

 私を心の奥底へ一歩も入れないために築かれた、冷徹な壁だ。


「……だったら、壊してあげるね」


 スマートフォンの画面を乱暴に暗転させ、私は強くアスファルトを蹴りつけた。

 歩調はまたたく間に駆け足へ変わる。

 やがて、抑えきれない衝動のままに全力の疾走へと突入していった。

 深夜の凍てつく空気が、剥き出しのナイフとなって肺の奥を深く刺し貫いていた。

 だが、そんな物理的な痛みなど、今の私の熱い胸の前ではどうでもよかった。

 足がもつれようとも、心臓が破裂しようとも、もう止まることなんてできない。

 どんなに拒絶され、戸惑われたって構うものか。

 私は彼女の心のすべてを解き明かしたい。

 その本当の剥き出しの姿を、この手で無理矢理にでもねじ伏せる。

 ただ受け止めるように、力強く、壊れるほど抱きしめたかった。


 世界の半分が闇に沈むこの夜。

 あの人をこの手でめちゃくちゃに汚し、その奥にある本当の熱に溺れるために。

 ――私はただ、狂ったように夜を駆けていた。

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