2滴 4月1日の逃げ道
窓から差し込む四月の陽光は、まだどこか頼りなく、それでいて残酷なほどに明るい。
放課後の教室は、掃除当番が適当に掃き出した後の埃が、逆光の中でキラキラと踊っていた。
私は、隣の席で自分の机に突っ伏している未希の横顔を、盗み見るように眺めていた。
「ねえ、綾。……私、好きな人できたんだ」
不意に、未希が顔を伏せたまま呟いた。
心臓がドクンと跳ね、手に持っていたシャーペンの芯がパキリと音を立てて折れる。
私は慌ててノートに視線を落とした。
「……へえ。どこのクラスの人?」
「内緒。でも、すごく優しくて、私のわがままも笑って許してくれる人だよ。ちょっと意地っ張りなところもあるけど、そこがまた可愛いっていうか」
未希の声は、いつになく熱を帯びていた。
その温度が、私の胸の奥をキリキリと締め付ける。
今日は四月一日。エイプリルフール。
そんなことは、カレンダーを見るまでもなく分かっている。
けれど、未希はこういう時に限って、とびきりたちの悪い「本当のこと」を嘘のふりして混ぜてくる。
「今日の夜、その人に告白しようと思ってるんだ。……綾、応援してくれる?」
未希がゆっくりと顔を上げ、私を覗き込んできた。
その瞳は、いつもの悪戯っぽさの中に、隠しきれない真剣な光を宿している。
応援なんて、できるわけがない。
私は未希が好きだ。
友達という、壊す勇気も持てないまま二度目の春を迎えてしまった。
臆病で意気地なしの私だと思う。
「……勝手にすれば。未希の恋なんて、私には関係ないし」
吐き捨てた言葉は、自分でも驚くほど冷たくて、トゲがあった。
未希は一瞬だけ、捨てられた子犬のような顔をして、すぐにいつもの、私を苛立たせる悪戯っぽい笑みを無理やり作った。
「ひどいなあ、親友なのに。じゃあ、今日の夜……二十四時になる前に、返事をもらったら連絡するからね。私の恋が叶うか、それとも嘘になるか。……ちゃんと見ててよ」
未希はそう言い残して、カバンを掴むと逃げるように教室を出て行った。
重い沈黙が、私一人を取り残した教室に居座る。
嘘ならいい。全部、今日という日のせいにできる真っ赤な嘘であってほしい。
でも、もし未希が本当に誰かの隣で笑うことになったら。誰かの腕の中で、あの無防備な笑顔を向けることになったら。
「……大嫌い、エイプリルフールなんて」
私は折れた芯をそのままに、ノートの余白を真っ黒に塗りつぶした。
外では、部活動に励む生徒たちの声が遠く響いている。
私と未希の、壊れそうな境界線だけを残して、世界は無情に回っていた。
放課後の教室を逃げるように飛び出してから、家までの道のりをどう歩いたのか覚えていない。
自室のベッドに倒れ込み、天井を見つめる。視界の端では、スマートフォンの画面が時折通知を知らせて光るけれど、そのどれもが未希からのものではなかった。
「……バカみたい」
口をついて出た独白が、静かな部屋に虚しく響いていた。
今日は四月一日。世界中が嘘に溢れる日。
テレビのニュースも、SNSのタイムラインも、どこか浮ついた「嘘」で塗り固められている。
けれど、私の胸を焦がしているこの痛みだけは、どんなに「嘘だよ」と笑い飛ばそうとしても消えてくれない。
時計の針は十九時を回った。
未希が言っていた「今日の夜」が刻一刻と近づいてくる。
もし本当に未希が誰かに告白して、その想いが成就してしまったら、明日からの私は、どんな顔をして彼女の隣に立てばいいのだろう。
「おめでとう」なんて、死んでも言いたくない。
けれど、「私の隣にいて」なんて、もっと言えるわけがない。
未希の好きな人って、誰?
脳内で、心当たりのある男子の顔を一人ずつリストアップしては消していく。
サッカー部のエース。
隣のクラスの秀才。
あるいは、塾で一緒だと言っていた他校の生徒。
誰を思い浮かべても、未希の隣に並ぶ姿を想像するだけで吐き気がした。
未希の、あの少しハスキーで心地よい笑い声。
冬の寒い日に、私のポケットに無理やり手を入れてきて「あったかーい」とはしゃぐ無邪気さ。
それら全部が、今日という日を境に、誰か一人のものになってしまう。
二十時。
二十一時。
時間は無情に過ぎていく。
私はスマホを握りしめたまま、一通のメッセージも打てずにいた。
「告白、どうだった?」なんて聞けるはずもない。
けれど、何も送らないままでは、未希との繋がりがぷつりと切れてしまいそうで怖かった。
その時、手の中でスマホが激しく震えた。
表示された名前は――『未希』。
心臓が口から飛び出しそうになるのを必死で抑え、通話ボタンを押す。
「……もしもし」
『……綾?』
電話越しに聞こえる未希の声は、ひどく掠れていた。
泣いているのか、それとも緊張しているのか。どちらにせよ、いつもの彼女とは明らかに様子が違う。
『今から……屋上に来てくれない? 学校の』
「えっ、学校? だって、もうこんな時間だし、門だって閉まってるんじゃ……」
『……裏門の鍵、開いてたから。お願い、綾。私、もう……嘘がつけなくなっちゃいそうで』
未希の声は、今にも消えてしまいそうに震えていた。
「待っていて、すぐ行くから!」
返事も待たずに通話を切り、私は上着をひったくって家を飛び出した。
冷たい夜風が、火照った頬を叩く。
学校の屋上。
そこは、私と未希が放課後によくサボっていた、二人だけの秘密の場所だ。
そこで待っているのは、恋が叶ったという幸福な報告なのか。
それとも、失恋の傷を癒してほしいという残酷な願いなのか。
どちらにせよ、私は行くしかない。
四月一日の魔法が解けるまで、あと少し。
嘘と本当の境界線で、未希が私を待っている。
夜の学校は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
裏門の隙間を潜り抜け、誰もいない校舎へと足を踏み入れる。
心臓の鼓動が、静まり返った階段に嫌なほど大きく響いている。
一段飛ばしで階段を駆け上がり、重い鉄扉を押し開けた。
「……未希!」
冷たい春の夜風が吹き抜ける屋上。
フェンスの向こう側、街の灯りが宝石をぶちまけたように輝く下で、未希は一人、寂しそうに夜空を見上げていた。
「……遅かったね、綾。もう、あと一時間もすれば今日が終わっちゃうよ」
振り返った未希の瞳は、少しだけ赤く腫れていた。
私は呼吸を整えながら、ゆっくりと彼女に歩み寄る。
「……それで、どうだったの。告白の相手、来たの?」
私の問いに、未希は自嘲気味にふっと笑った。
「ううん。待ってたんだけど、全然来てくれなくて。私、やっぱり最低だよね。今日がエイプリルフールだからって、こんな卑怯なことして」
「……卑怯?」
「そうだよ。今日なら、もし振られてもし気まずくなっても、『嘘だよ、エイプリルフールの冗談だよ!』って笑って逃げられる。そう思って、ずっと逃げ道を作ってたんだもん。……でも、いざその人を目の前にしたら、声が震えて、何も言えなくなっちゃった」
未希はそう言って、自分のスマートフォンを私に差し出した。
画面には、送信されずに残っているメッセージの下書きが表示されていた。
『ずっと前から、綾が好きでした。友達のままじゃいられないくらい。これは嘘じゃないよ』
「……え」
思考が停止する。
目の前の文字と、震える未希の肩。それらがゆっくりと私の中で結びついていく。
「未希……これ、相手って……」
「そうだよ。……バカだよね。ずっと隣にいたのに、気づいてほしくて、でも怖くて、こんな日にしか言えなくて」
未希が顔を上げる。その瞳から、堪えていた涙が溢れ出した。
「ねえ、綾。今はまだ、四月一日だよね。……だから、今の言葉、全部嘘だと思ってもいいよ。忘れてくれてもいい。明日からまた、普通の親友に戻ってよ……!」
泣きじゃくりながら私を突き放そうとする未希の手を、私は強く、壊してしまいそうなほど強く握りしめた。
「……嫌だよ」
「え……?」
「忘れるわけないじゃん。……私だって、ずっと未希が好きだったんだから。未希が『好きな人ができた』なんて言うから、ずっと、生きた心地がしなかったんだからね!」
私は未希の細い肩を抱き寄せ、そのまま胸に顔を埋めた。
心臓の音が重なる。未希の体温が、震えが、ダイレクトに伝わってくる。
「……嘘じゃないんだね、綾」
「当たり前でしょ。こんなに苦しくて、こんなに熱い嘘なんて、つけるわけない」
未希の手が、おずおずと私の背中に回される。
時計の針が、重なる音が聞こえた気がした。
日付が変わる。四月二日が、静かに幕を開ける。
「……ねえ、未希。もう四月二日だよ。魔法は解けちゃった」
「……うん。そうだね」
未希が顔を上げ、私を真っ直ぐに見つめる。
そこにはもう、嘘をつくための「逃げ道」なんてどこにもなかった。
「……綾。大好きだよ。これは、エイプリルフールの続きじゃないからね」
「知ってるよ。……私も、大好き」
夜の屋上。冷たい風の中で、私たちは初めて、嘘のない口付けを交わした。
最悪で最高な四月一日の終わりに、私たちの本当の恋が、ようやく産声を上げた。
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