1滴 誕生日
今日に限って、この家は誰の気配もなかった。
麗奈は旦那が帰宅すると言っていたから、本日はお休み。
雫ちゃんも「今日は実家に直帰するね」と、朝のチャットで短く告げてきた。
せっかくの誕生日なのに――そんな言葉が、胸の奥で小さく溶けていく。
私はソファに深く腰を沈め、静まり返ったリビングを見回した。
天井の高い5LDK。
仕事部屋が一つあるとはいえ、こんな広い空間は独り身には重すぎる。
足を伸ばしても、指先が誰かの温もりに触れることはない。
ただ、冷たい床の感触と、自分の吐息だけが静かに響く。
明日になれば、みんなで祝おうと話はついている。
でも、雫ちゃんには、まだ私の誕生日を知らない。
私が、わざと伝えなかったから。
麗奈には「今日は雫ちゃんが実家に帰る日だったけど、私の誕生日だから一緒にいるの」と、甘えた声で伝えてしまった。
ちょっとしたいたずらで、二人の怒ったような、困ったような顔が少し見たかった。
……自業自得だ。
きちんと伝え解けば、今夜は雫ちゃんと二人きり、甘く狭い世界を作れたかもしれないのに。
あと十分で、私の誕生日は終わってしまう。
時計の針が、残り三分钟を刻んだその瞬間――
玄関の方から、慌ただしい音が響いた。
私は思わず息を呑み、聞き耳を立てた。
次の刹那、リビングの扉が勢いよく開く。
そこにいたのは、私が、今夜一番会いたいと願っていた女性だった。
息を切らして、肩を上下させ、額に薄く汗を浮かべた雫ちゃん。
乱れた前髪の隙間から、潤んだ瞳がまっすぐに私を捉える。
一瞬、幻じゃないかと目を疑った。
「はぁ……はぁ……間に合いました……!」
「え……?」
「ぎりぎり……間に合いました……!」
「なにが……?」
「もぅ……! 綾さんの誕生日ですよ……!」
理解が追いつかず、私はただ呆然と瞬きを繰り返した。
「え……えっと、綾さん……」
「な、何……?」
雫ちゃんは一歩、また一歩と近づいてくる。
その瞳は恥ずかしさと決意で揺れていて、頬はすでに桜色に染まっていた。
「誕生日おめでとうございます」
柔らかい、けれど確かに震える声。
次の瞬間、彼女は軽やかにステップを踏み、私のすぐ目の前まで寄ってきた。
細い腕が首の後ろに回され、温かい手のひらが背中に触れる。
甘い、ほんのり汗の匂いがした。
そして――
柔らかく、熱い唇が、私の唇に重なった。
短い、けれど確かに「好き」という想いを乗せたキス。
心臓が跳ね上がるほどの衝撃と、甘い痺れが一瞬で全身を駆け巡る。
そっと離れた雫ちゃんの顔は、真っ赤に染まっていた。
潤んだ瞳を逸らそうとして、でも逸らせずに、恥ずかしそうに唇をきゅっと結んでいる。
耳の先まで真っ赤で、息もまだ整っていない。
その姿が、愛おしくて、愛おしくて、
私はただ、胸の奥が熱くなって、言葉を失っていた。
「お祝いにはなりませんか?」
雫ちゃんが少し不安げに首を傾げながら、そう聞いてくる。
「そんなことない。ありがとう」
混乱のあまり、それだけしか言葉が出てこなかった。
喉の奥が熱くなって、声が掠れる。
その瞬間、PCのスピーカーから零時の時報が軽やかに流れ始めた。
ニコニコ動画の、どこか懐かしい電子音。
今日という一日が、静かに終わりを告げる。
「あれ、なんで……?」
「麗奈さんから連絡があって、明日の話をしてたら……『今日は綾の誕生日だよ』って。
私は何の事かって感じで聞いてみたら……今日だって知って、無我夢中で飛び出してきました」
雫ちゃんの声はまだ少し息が上がっていて、頰の赤みが引かない。
その言葉を聞いた途端、胸の奥がじんわりと熱くなった。
嬉しさが、波のように押し寄せてくる。
……でも、親御さんは?
私が心配そうに目を細めると、雫ちゃんは小さく笑って答えた。
「理由を話したら、車を出してくれたんです。『大事な人の誕生日なら、ちゃんと行ってきなさい』って。……本当に、迷惑かけちゃいました」
悪いことをしたなぁ、という想いが胸をよぎる。
それから少しだけ、優しい叱られ方をした。
雫ちゃんの声は怒っているというより、照れくさそうで、甘えた響きが混じっていた。
雫ちゃんからもらった、あのキス。
普通の人にとっては「ただの誕生日プレゼント」かもしれない。
けれど私にとって――雫ちゃんが自分からしてくれた、初めてのキスは、
この世で一番尊くて、甘くて、特別な贈り物だった。
その夜、私たちは一緒に布団に入った。
部屋の灯りを落とすと、暗闇の中で雫ちゃんの体温がすぐそばに感じられる。
細い肩が私の胸に寄りかかり、柔らかい髪が首筋に触れる。
ほのかに甘いシャンプーの香りと、ほんのり残る汗の匂い。
彼女の鼓動が、静かな夜に小さく響いている気がした。
私はそっと腕を回し、雫ちゃんを抱き寄せた。
温かい。
柔らかい。
このぬくもりが、全部私のものだと思うと、胸が痛いほど愛おしくなる。
幸せだった。
ぎゅうっと、言葉にできないほどの幸せが、身体の芯まで染み渡っていく。
誕生日が終わったその夜に、
私は一番大切な贈り物を、腕の中に抱いていた。
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