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百合の滴る万華鏡(百合短編集)  作者: 綾


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12/13

12鏡 十五夜に楔を

 夜になっても、屋上のコンクリートは昼間の熱を微かに残していた。

 フェンスに背を預けて、ぎゅっと膝を抱え込む。

 見上げた十五夜の月は、天頂近くまで昇っていた。

 黄色や白というより、どこか凍てついた銀のようにも見える。

 風が吹くたび、私の銀色の髪が頬を撫でた。

 髪が月光をきれいに拾い上げて、私の赤い目の端まで、かすかな光の筋を運んでくる。

 はるか下の中庭からは、誰かがススキを束ねる乾いた音が響いていた。

 紙皿が擦れ合う音。ひそやかな低い笑い声。

 校舎の向こう側には、まだ文化祭の熱を惜しむ誰かが残っているらしい。

 私はその遠い喧騒を聞き流しながら、ただ月だけを見つめていた。


「綾」

 その足音には、最初から気づいていた。

 唯は階段を一段飛ばしで歩くような雑な真似はしない。

 今日も、いつもの規則正しいリズム。

 重い扉が開く音のあとに、彼女の細い影が静かに月明かりの中へと伸びてきた。

「また一人でいた。みんな下で文化祭の余韻で楽しそうに話してるのに」

 唯はそう言いながら、私のすぐ隣にしゃがみ込んだ。

『制服が汚れるよ』

 そう言いかけて、自分のスカートもすでにコンクリートに擦れていることに気づく。

 言葉はそのまま喉の奥に引っ込めた。

 肩と肩のあいだには、数センチの隙間が空いている。

 触れそうで、どうしても触れ合わない、もどかしい距離だった。

 唯は膝の上に置いた紙袋から、まだかすかに湯気を立てているお団子を取り出した。

「待たせすぎちゃった?」

「待ってない」


 嘘だった。

 本当はずっと待っていた。

 期待して待っていた自分を、自分で認めたくないだけだ。

 唯ならきっと、私を見つけてここまで来てくれると信じてしまっていたから。

 唯はふっと、小さく鼻を鳴らした。

 いつもの、愛らしい癖。

「可愛い女の子なのに」ってからかったとき、

「物心つく前からの癖なんだもん」って、夜を撥ね退けるようなキラキラした笑顔で返してくれた記憶が、胸の奥でふわりと蘇った。


 唯は私に、お団子を二つ手渡してきた。

 私の手のひらにそれが乗った瞬間、触れ合った彼女の指先がひどく熱く感じられる。

 唯の体温が熱いのか、それとも私の温度が跳ね上がっているのか。

 境目が分からなくなるほど、互いの熱が同調しているようだった。

 彼女の指は細くて繊細なのに、今夜は少し湿っている。

 ここまで走ってきたからだろうか? それとも、緊張しているのだろうか。


「熱いよ」

「知ってる」

 唯はそう言いながら、手元の月見団子をすでに小さくかじっていた。

 白い粉が唇の端についている。

 そんな子供っぽい顔のままで、「冷ましてから渡せばよかったね」とのんきに言ってきた。

 私も、自分の手のひらにあるお団子を見つめる。

 まん丸な形は、今夜の空に浮かぶ月とよく似ていた。

 口に運んで、一口食べてみる。

 思ったよりもずっと甘くて、少しだけ驚いてしまった。

 月見団子ってこんなに甘かったんだ、と初めて知った。


「唯」

「ん?」

「何で、お団子を持ってここに来たの?」

 唯はすぐには答えず、しばらく月を見上げていた。

 夜風に黒髪が揺れて、彼女の耳の後ろが不意に覗く。

 なだらかな白い首筋を、月の光が細い線のように綺麗に縁取っていた。

「綾がここに居るって分かってたし、今日は十五夜だから。実際の満月までは、あと二日くらいあるみたいだけどね」


 さらりと言われた。

 けれど、『私がここに居るから』というその答えに、私の胸の奥が一度だけ、強く跳ね上がるのが分かった。

 私は残りの団子をそっと紙袋に戻して、膝の上で手を組み直す。

 うつむいた拍子に銀の髪が前に落ちて、唯がそれを横からじっと見つめているのが気配で伝わってきた。

 彼女の視線が、熱い。

 肌に触れられてもいないのに、見つめられているだけで、髪の根元がざわざわと粟立(あわだ)つ。

 唯がこんなにも熱を帯びた視線を私に向けてくるのは、初めてのことだった。

 戸惑いと、それ以上の何かが、胸の内で静かに膨らんでいく。


「……触ってもいい?」

 唯が、いつもより低い声で聞いてきた。

 私は言葉を返すことができなくて、ただ、素直に首を縦に振った。


 唯の指が、私の髪の間にゆっくりと滑り込んできた。

 髪を梳(と)くというよりは、そこに私の存在があるかを確かめるような、とても静かな動きだった。

 一筋ずつ、拾い上げた月の光を指の間に通していく。

 そっと目を伏せると、自分の睫毛(まつげ)の影が頬に落ちる感覚さえ、はっきりと分かるほど世界が静まり返る。

 唯の指先が私の耳の後ろをかすめたとき、私は思わず息を止めてしまった。

「冷たいね」

 その囁きを最後に、唯の手の動きが止まる。

 私はゆっくりと顔を上げた。

 彼女との距離は、もうほとんど残されていない。

 唯の黒い瞳の奥に、月光を浴びた私の銀の髪と、赤く揺れる瞳がまっすぐに映り込んでいる。

 真上から降り注ぐ十五夜の月が、私たちの狭い隙間に、白い楔(くさび)を打ち込んでいるようだった。


「綾」

 私の名前を呼ぶ唯の声は、いつもよりずっと低い。

「今日は、逃げないでね」

「逃げるつもり……ない」


 昨夜は、廊下の角で言葉もなく別れた。

 一昨日は、図書室の棚の陰で、互いの指先だけを触れ合わせて終わった。

 そして今夜は、この遮るもののない屋上で、月が真上にいる。

 もう、逃げ道は風しかなかった。

 唯の身体が、先に動いた。

 引き寄せられるように、私の額へとじりじりと顔を寄せてくる。

 私はほんの少しだけ、顎を下げて彼女を迎え入れた。

 まだ唇が触れ合う前だというのに、唯の吐息がひどく甘く感じられる。

 先ほど食べたお団子の名残と、夜の冷気が重なり合った瞬間、下の中庭から響いていた笑い声が、急に遠くへ弾け飛んだ気がした。

 すべての音が消え去っていく。

 世界が、私たちを引き裂くこの狭い隙間だけになっていく。


 触れ合ったキスは浅く、それでも永遠に続くかと思うほど長いようにも思えた。

 唯の手が、私の頬へと回ってくる。

 愛おしむように、親指が私の目尻をそっと撫でた。

 頑なに目を閉じようとしない私を、唯はどこまでも優しい眼差しで見つめている。

 彼女はひとしきり私を見つめたあと、ゆっくりと睫毛(まつげ)を伏せた。

 私は、それでも彼女を見つめ続けていた。

 目を閉じた唯の眉が、わずかに切なげに寄るところまで、すべてを視界に収めていたかった。

 やがて唇が離れるとき、私たちのあいだには糸のように細く張り詰めた沈黙だけが残る。


「ずっと見てたね」

 唯が微笑みながら言う。その声は少しだけ掠(かす)れていた。

「唯を見てた」

「どうして?」

「この赤い瞳に、全部焼き付けたくて」

 唯は私の子供じみた返しに、短く笑った。

 彼女は膝の上の紙袋から、今度は小さなペットボトルを取り出した。中身は麦茶だった。

 キャップを開けて、先に私へと手渡してくる。

 私はそれを受け取り、一口だけ含んだ。

 冷たい液体が喉を通り抜けていく。

 お団子の甘さが引いていくと同時に、麻痺していた唇の熱が急激に引き戻されていくのが分かった。

「願い事はした?」

 私が尋ねると、唯は静かに首を横に振った。

「してないよ。そんなことをしたら、この『今』が、どこか薄くなってしまう気がしたから。それに、そもそも十五夜に願い事をする風習なんてあったっけ?」

「今ってなに? あと、願い事の風習はなかったっけ?」


 唯は私の問いには答えず、代わりに私の手首をそっと取った。

 ドクドクと脈打つその場所に、自分の指先を重ねてくる。

 それはまるで、自分の命の鼓動を、そのまま相手に預けているかのような動きだった。

 私も愛しさが抑えきれなくなり、反対の手で、無意識に唯の前髪をそっと耳へと掛けた。

 指先が柔らかな耳たぶに微かに触れる。

 それだけで、唯の肩がびくりと小さく跳ね上がった。

「綾の手、今夜は温かいね」

「唯が、こうして触れてくれているからだよ」


 その言葉を聞いた瞬間、唯の瞳が愛おしそうに細められた。

 次に重ねられたキスは、さっきよりもずっと深かった。

 互いの歯が軽く当たるほどの強さで、唯の舌先が、ためらいがちに私の輪郭へと触れてくる。

 私はそれを拒むことなく、すべてを受け入れた。

 こぼれ落ちた私の髪が唯の腕に絡みつき、目頭の奥が急激に熱くなっていく。

 泣いているわけではない。

 ただ、彼女の存在が私に近すぎるだけだ。

 そのまま唯の手が、私の腰へと回ってきた。

 薄い夏服の生地越しに、彼女の指の形がはっきりと伝わってくる。

 私はその力に身を委ねるようにして、彼女の身体に軽くもたれかかった。

「ここで、このまま……」

 唯が唇の隙間で、熱い吐息とともに呟く。

「誰か、来ちゃうよ」

「来てもいいよ」


 そんなの嘘だと分かっている。

 けれど、今の私たちを閉じ込めてくれるその嘘が、たまらなく甘かった。

 私は唯の胸に顔を埋めた。

 薄い布地を通して、唯の心臓の音が規則正しく聞こえてくる。

 けれど私たちの鼓動は、同じ速さではなかった。私の方が、少しだけ早いかもしれない。

 はるか下の方から、ススキの葉が擦れ合う音がかすかに響いた。

 誰かが「月、きれい」と小さく呟く。

 その声は、本当は私たちまで届いてなどいないのだろう。

 届かないふりをしたまま、唯は私の首筋へと唇を落とした。

 熱い。そして、短い。

 それでも、私の赤い目の奥が、また熱く滲(にじ)んでいく。


「綾」

「ん……」

「銀の髪、今夜は月よりも近いね」

「今、私に一番近いのは唯だよ」


 唯はその言葉には答えず、確かめるようにもう一度だけ唇を重ねてきた。

 今度は、決して急がない。

 十五夜の月は欠けない。

 その欠けない月の下で、私たちはいつまでも同じ場所に立ち続ける。

 お団子はすっかり冷めて、ペットボトルの麦茶は減って。

 夜風だけが、私の銀の髪を何度も何度も揺らしていく。

 唇が離れたあとも、唯は私の手を、決して離そうとはしなかった。


「帰りたくない」

 唯がぽつりと呟く。

「まだ、いいよ」

 私も同じ気持ちで、そう言葉を返した。

「どのくらい?」

「月が、少し傾くまでなら……良いんじゃないかな」

 唯は小さく頷いた。

 そのまま、私の肩へと頭を乗せてくる。

 預けられたその心地よい重さは、今夜の私たちにはちょうどよかった。

 私は空いた方の手で、唯の背中をゆっくりと、慈しむように撫でる。

「綾」

 唯が、私の肩に顔をうずめたままで言った。

「来年も、見たいな」

「来年も、また一緒に十五夜を見よう」

「綾がここに残るなら、私もまた来るから」

「残るよ」


 それは、とても短い約束だった。

 それでも、今夜の私たちを照らす月には、その一言だけで十分に足りた。

 はるか遠くから、夜の訪れを告げる鐘が一つだけ鳴り響くのが聞こえてきた。

 下の中庭にいた人たちが、ようやく帰り始める気配が微かに伝わってくる。

 けれど、私たちはまだ動かない。

 この甘くて切ない余韻を、一秒でも長く肌で感じていたかった。

 唯の指が、私の指の間で一度、確かめるように強く握られる。

 私はその温もりに応えるように、ぎゅっと握り返した。

 不意に強くなった風が私の銀の髪を押し上げ、視界の正面を横切っていく。

 その白銀の向こう側には、どこまでも青白く輝く、欠けない月があった。

 私たちは最後にもう一度だけ優しく口づけを交わし、恋人繋(こいびとつな)ぎのまま、静かになった学校の屋上をあとにした。

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