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百合の滴る万華鏡(百合短編集)  作者: 綾


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11/12

11鏡 最後のキスは、まだ消えない

 夏の午後、駅前は眩暈(めまい)がするほどの人で溢れていた。

 アスファルトから這い上がる陽炎が肌を焼く。

 熱い空気の中で、喧騒と電車の発車メロディがせわしなく重なっていた。

 私はハンカチで汗を拭いながら、待ち合わせの相手を求めて何度も周囲を見回す。

 そのとき――背後から滑り込むように、名前を呼ばれた。

「……綾」

 鼓膜(こまく)に届いたのは、胸の奥が跳ねるような、聞き慣れた声。

 振り返ると、人の波を縫うようにして彼女が近づいてくるところだった。

 私と視線が交わった瞬間、彼女の表情がほっとしたように緩む。

「やっと見つけた」

「私も探してたよ。……もう、電話すればよかったのに」

「ううん。電話するより、自分で見つけたかったから」

 そんな気恥ずかしい台詞を、彼女はいつも平然と言う。

 急に顔が熱くなった気がして、私は返す言葉に困って斜め下へと視線を逸らした。

 そのとき、都会のビル風が私たちの間を吹き抜ける。

 ふわりと広がった彼女の長い銀髪が、私の頬を微かにかすめた。

 西日に透ける、彼女の赤い瞳。

 そこに入り込んだ前髪を、彼女が細い指先で払った――その直後、私の手首に、ひんやりとした熱が触れた。

「こっち」

「え?」

「人、多すぎるから」

 躊躇(ちゅうちょ)のない強さで、彼女は私の手を引く。

 ただそれだけのことなのに。

 繋がれた肌の境界線から、夏の陽射しよりもずっと熱い何かが、じわじわと脈打つように流れ込んできた。


 私は彼女の隣を歩きながら、何度もその横顔を盗み見た。

 ずっと前から、好きだった。

 けれどその感情を、私は「ただの友達だから」だと思い込もうとしていた。

 会えれば無条件に嬉しい。声を聞ければそれだけで安心する。

 彼女が私以外の誰かと楽しそうに話していると、理由のない焦燥が胸をざわつかせる。

 これが恋だと認めてしまえば、今までの心地いい関係には二度と戻れない気がしていた。

 だから、何も言わなかった。


 その日も、いつもと同じように過ごすつもりだった。

 昼食を食べて、適当に街を歩いて、夕方になったら駅で別れる。

 それだけのはずだった。

 けれど、夕方になっても、私たちは別れなかった。

「まだ帰りたくないな」

 彼女が、ふと足を止めてそう言った。

「私も」

 自然に言葉がこぼれてから、私は自分の弾んだ声に驚いた。

 彼女も少し意外そうな顔をして、それから嬉しそうに笑う。

「じゃあ、もう少し一緒にいよう」

 約束が交わされた直後、世界が急激に暗転した。

 ポツ、と頬を叩いた雨粒は、数分もしないうちに激しい豪雨へと変わる。

 アスファルトが白く煙るほどの雨の勢いに、私たちはまともな思考を奪われたまま、近くにあったホテルのエントランスへと逃げ込んだ。


 ホテルの客室に入ると、外の喧騒が嘘みたいに遠くなった。

 湿った髪を白いタオルで拭きながら、私は窓の外を眺める。

「すごい雨……」

「完全に帰れなくなっちゃったね」

「……うん」

 それ以上、何を話せばいいのか分からなかった。

 彼女も言葉を失ったように黙り込んでいる。

 窓を叩く激しい雨音だけが、遮音性の高い部屋に奇妙な静けさとして響いていた。

 やがて、ベッドの端に腰掛けていた私の隣に、彼女が音もなく腰を下ろす。

「綾」

「なに?」

「今日、楽しかった?」

「うん。楽しかったよ」

「私も」

 今度は、その言葉が少しも不自然には聞こえなかった。

 彼女が、私の髪にそっと触れる。

 細い指先で私の毛先をすくい上げ、愛おしそうにしばらく眺めていた。

「やっぱり綺麗」

「私の、髪が?」

「銀の綺麗な髪も、だけど……」

 そこで彼女は言葉を止める。

 私は思わず、隣にある彼女の顔を見つめた。

 視線が、真っ直ぐにぶつかる。

 逸らすことなんて、到底できなかった。

「……綾」

 ……もう一度、名前を呼ばれた。

 私の鼓膜を震わせたその声は、あまりにも優しく、ひどく甘いように感じられた。

 胸の奥底にずっとしまい込んでいた、これ以上踏み込んではいけないという頑固な境界線。

 それが今、跡形もなく崩れ去っていくのを自覚した。

 雨に濡れて少し冷えた彼女の指先が、迷いながらも私の頬へと触れる。

 肌に伝わる冷ややかな感触が、かえって私の体温を急激に押し上げていくようだった。

 彼女の視線が、私の唇へと落とされる。

 抗う術など最初から持ち合わせていない私は、差し出される熱を受け入れるように、ゆっくりと瞼を下ろした。

 視界が閉ざされた直後、柔らかな唇が静かに重なる。

 ほんの数秒。

 互いの吐息が、かすかに混ざり合うだけの短いキス。

 それでも、合わさった熱の境界線から、彼女の秘めた想いがすべて流れ込んでくるような錯覚さえ覚えた。

 そっと唇が離れたあとも、私たちの間に言葉は生まれなかった。

 窓を打つ雨音だけが、二人を引き裂くように部屋に響いている。

 けれど、気まずさなんて微塵もなかった。

 至近距離で見つめ合う彼女の赤い瞳には、戸惑いながらも、どこか深く安堵したような光が浮かんでいる。

 言葉はなくとも分かってしまった。

 むしろ、ずっと前からこうなる瞬間を、私たちは互いに待ち焦がれていたのだ。

 言葉にすれば壊れてしまうと恐れていた関係は、いま、より強固な熱となって、私の胸をいっぱいに満たしていた。

「嫌だった……?」

 至近距離から、彼女が掠(かす)れた声で小さく尋ねてくる。

「……ううん」

 私が首を横に振ると、彼女の唇が嬉しそうに弧を描いた。

「よかった」

 薄暗い部屋の中、窓の外を流れるヘッドライトの光に照らされたその笑顔があまりにも愛おしくて、私は胸の高鳴りに突き動かされるまま、今度は自分から彼女の唇を塞いでいた。

 その夜、私たちは何度も抱きしめ合った。

 互いの存在を確かめ合うように名前を呼び、少しでも離れるのが恐ろしくて、すぐにまた身体を寄せ合う。

 明日からのことなんて、何一つ考えなかった。

 ただ今、この瞬間に大好きな人と求め合えていること。

 それだけで、私の世界は完全に満たされていたから。


 翌朝、目を覚ますと、外はまだ薄暗く、雨が降り続いていた。

 枕元の時計は、午前六時を指している。

 すでに身支度をすべて終えた彼女は、窓際に立って、灰色に煙る外の景色をぼんやりと見つめていた。

「あ……起こしちゃった?」

 シーツが擦れる音に気づいた彼女が、すまなそうに振り返る。

「ううん。私もそろそろ起きるところだったから」

 それは、嘘だった。

 実際は、彼女がベッドから離れていく気配に、胸がざわついて目を覚ましただけだ。

 私も急いで身支度を整え、私たちは並んで部屋を出た。

 彼女が静かに客室のドアを閉め、ホテルのカードキーをバッグに仕舞う。エレベーターへ向かって歩き出す彼女の背中を、私は一歩後ろからじっと見つめていた。

 このまま時間が止まればいいのに、と強く思った。

 フロントでチェックアウトを済ませ、ホテルの自動ドアをくぐれば、昨夜までの夢のような時間は終わってしまう。

 現実に戻り、いつもの駅で、いつものように別れなければいけない。

 行かないで、と引き止めたかった。

 けれど、喉の奥が引き攣ったように締まり、言葉が声にならない。

 エントランスの手前で、彼女がふと足を止めて振り返る。

「綾?」

「……ううん。なんでもない、行こうか」

 無理に作った笑顔で答えると、彼女は少し不思議そうな表情を浮かべた後、静かに自動ドアの方へと歩き出した。

 私たちは雨の降る街へと戻っていく。

 自分の唇にそっと指先で触れると、まだ昨夜の甘い熱が残っている気がした。

 あのとき――もっと強く、壊れるくらいに抱きしめておけばよかった。

 けれど、そのときの私はまだ知らなかったのだ。

 私たちのこの恋に、最初から冷酷な終わりが用意されていたことを。


 ある夜、一つのソファに並んで座っていると、彼女が私の肩にそっと頭を乗せてきた。

 私の、長い銀髪が二人の間で揺れて、鎖骨のあたりを微かにくすぐる。

「眠い?」

 問いかけると、彼女は私の肩に頭を乗せたまま、小さく頷いた。

「ちょっとだけ」

「寝てもいいよ」

「寝たら帰れなくなる」

「じゃあ泊まれば?」

 ふっと笑いながら、私は冗談のつもりで言葉を返した。

 けれど、彼女からの軽い軽口は戻ってこなかった。

 彼女は少しの間だけ静かに黙り込むと、逃げるように私の肩へ深く顔を埋めてしまう。

「……それができたらいいのに」

 布越しに届いた彼女の声は、夏の夜の熱気には不釣り合いなほど、妙に寂しく冷えて聞こえた。

「何かあるの?」

 胸を突くような違和感に私が尋ねると、彼女はしばらくの間、自分の呼吸の音だけを響かせていた。

「綾には、話さなきゃいけないことがある」

 その言葉を聞いた瞬間、背筋に冷たい水が走るような、最悪の予感が脳裏をよぎった。

 けれど、私はそれ以上を重ねて聞くことはしなかった。

 ここで言葉を促してしまえば、今手の中にある壊れやすい幸せが、一瞬で粉々に砕け散ってしまいそうだったからだ。


 それからしばらくの間、私たちはまるで暗黙の了解のように、その話題を注意深く避けながら過ごした。

 少しずつ蝉(せみ)の声が遠のき、世界から夏の色彩が薄れていく。

 夜風が本格的に冷たさを帯び始めた頃、彼女が会話の途中で、ふと窓の外の遠くを見つめる時間が増えていった。

 私は、その横顔に浮かぶ陰りに気づいていた。

 気づいていたのに、終わりの始まりを告げられるのが恐くて、何も聞けないまま平穏な日常のフリを続けた。

 環境が変わり、息が白くなり始めたある夜、とうとう彼女が重い口を開いた。

「私、もうすぐここを離れなきゃいけない」

 投げかけられた現実に、私はかけるべき言葉を見つけられず、ただ黙って彼女を見つめることしかできなかった。

「夢を諦めたくないんだ」

「……うん」

「でも、綾と離れるのも嫌」

 彼女の声が、今にも泣き出しそうなほどに微かに震えていた。

 私の瞳に映る彼女の輪郭が、涙で滲(にじ)んで歪んでいくのを止められなかった。

 胸を引き裂かれそうなのは、私だって同じだった。

 私にも、進まなければならない夢がある。

 彼女にも、どうしても譲ることのできない大切なものがある。

 どちらかが自分の未来を諦めてしまえば、きっとこの先も形だけは一緒にいることができるのだろう。

 でも、それは私たちの恋を、歪んだ形で続けることとは違うのだ。

 彼女の人生から一番輝かしい夢を奪い去ってまで、自分のエゴで隣に繋ぎ止めたいとは、どうしても思えなかった。

「私たち、どうしたらいいんだろうね」

 答えのない問いを、彼女がぽつりと呟く。

 私は最後まで、正しい答えを返すことができなかった。

 その代わり、言葉にならないすべての感情を込めて、彼女の冷え切った手を強く、強く握りしめた。

 秋の終わりが近づくまで、私たちはそれまで以上に何度も会った。

 確実な別れがすぐ目の前まで迫っていると分かっていたからこそ、二人の時間を一秒でも惜しむように大切にした。

 いつものように食事をして、静かになった街を散歩して、部屋の明かりを消して映画を見た。

 涙を隠すように何度も笑い合った。

 互いの体温を焼き付けるように、何度も何度も抱きしめ合った。

 けれど、二人とも心の奥底では綺麗に理解していた。

 どれほど愛おしく愛を重ねても、この贅沢(ぜいたく)な時間には、絶対的な終わりがあるということを。


 木枯らしが吹くようになった頃、彼女が私の部屋へやってきた。

 その日の彼女は、いつもよりずっと静かで、言葉を慎重に選んでいるように見えた。

 二人で並んでグラスを傾けながら、私たちは、これまでの短い思い出を静かに振り返った。

 まだ熱気の残る夏の日、初めて一緒に過ごした日のお互いのぎこちなさ。

 駅前の人混みの中で、迷わないようにと私の腕を強く掴んでくれたこと。

 突然の豪雨に見舞われて、二人で必死になって近くのホテルへ逃げ込んだ夜。

 そんな他愛のないくだらない思い出まで、私たちは一つずつ丁寧に手繰り寄せていった。

 お互いに笑い合っているのに、胸の奥は引き裂かれるように苦しかった。

 夜が深くなるにつれて、部屋の中の沈黙が徐々に重さを増していく。

 彼女が静かに枕元の時計へと視線を向けた。

「そろそろ行くね」

 告げられたその言葉を聞いた瞬間、私の胸の奥は凍りついたように冷たくなった。

「うん」

 私は静かに立ち上がり、玄関まで彼女を見送るために歩いた。

 彼女が厚手のコートに袖を通し、ゆっくりと外へと繋がるドアを開ける。

 隙間から、私たちの関係を完全に終わらせるような冬の冷たい空気が、一気に足元へと流れ込んできた。

「じゃあ……元気で」

「うん。綾も」

 彼女が完全に外へ一歩を踏み出そうとした。

 その瞬間、私は思考よりも先に動き、彼女のコートの袖を強く掴んでいた。

「……待って」

 驚いたように、彼女がゆっくりと振り返る。

 何か彼女を引き止めるための強い言葉を、今すぐに言わなければいけないと思った。

 行かないでほしい。

 本当は今でも壊れるくらいに好き。

 一秒だって離れたくない。

 言いたいことや胸を満たす感情は、いくらでも溢れるように存在していた。

 けれど、彼女の進むべき夢を目の前にして、結局どの言葉も私の口から外へ出てきてはくれなかった。

 私は言葉を紡ぐ代わりに、彼女の身体を正面から強く抱きしめた。

 躊躇(ちゅうちょ)するように一瞬だけ固まった彼女の身体も、やがて私の背中へと細い腕を優しく回してくれた。

「綾……」

 耳元で、切なげに私の名前を呼ばれた。

 その愛おしい声を聞いた瞬間、これまでずっと耐えていた涙が、私の瞳から一粒だけ頬を伝って落ちていった。

 私はゆっくりと顔を上げて、彼女の唇へと自分の唇を重ねた。

 これまで何度も繰り返してきたはずのキスなのに、これが本当に最後なのだと思うと、胸の奥が張り裂けそうなほど痛かった。

 唇が離れたあとも、私たちは離れるのが名残惜しくて、しばらく額を互いに寄せたまま静かに動かなかった。

「……行くね」

「うん」

 今度こそ、私は掴んでいた彼女のコートからそっと腕を離した。

 彼女は夜の冷気の中へと踏み出し、二度と戻らない足取りでゆっくりと歩き始める。

 私は冷たい風が吹き込む玄関先に立ち尽くしたまま、遠ざかっていく彼女の背中をずっと見送っていた。

 道の角を曲がってしまう直前、彼女が寂しそうに一度だけ振り返る。

 私はせめて最後くらいは綺麗な思い出にしようと、精一杯に笑おうとした。

 けれど、引き攣(つ)った唇はうまく形を作れず、最後まで笑うことはできなかった。

 彼女の姿が完全に闇に消えて見えなくなってから、私は静まり返った部屋へと戻った。

 まだ彼女の体温が残る白いシーツの上に、力なく横たわる。

 枕の上には、私の長い銀髪が力なく広がっていった。

 ゆっくりと目を閉じると、出会った夏の日から今日までの出来事が、走馬灯のように次々と鮮明に浮かんでくる。

 会えるだけで楽しかった。

 声を聞くだけで嬉しかった。

 隣にいられるだけで心の底から幸せだった。

 だからこそ、すべてを失ってしまった今の現実に、胸が押し潰されるほど苦しかった。

 私は自分の唇に、そっと細い指先で触れてみる。

 最後のキスの柔らかい感触が、まだそこに確かに残っているような気がした。

「……もう一度、キスしたかった」

 静かな部屋に言葉をこぼしてから、自分でも少しだけ自嘲するように笑ってしまった。

 さっき、自分のすべてを込めてしたばかりだったのに。

 これが最後だと、あれほど自分に言い聞かせて分かっていたはずなのに、私はまだもう一度を欲しがっている。

 きっと、この先何度キスを重ねたとしても、結果は同じだった。

 もっと一緒にいたい。

 もっと他愛のない話をしたい。

 もっとその肌に触れていたい。

 私たちの恋がどれほど綺麗に終わったからといって、これまで彼女を心から好きだった愛おしい気持ちまで、都合よく消えてくれるわけではなかった。


 窓の外では、冷たい冬の風が容赦なく吹き荒れていた。

 私は目を閉じたまま、もう二度と戻ってはこない。

 彼女と過ごしたあの眩しい夏の日々をただ静かに思い出していた。

 いつか遠い未来にこの恋を振り返るとき、私は今よりも少しだけ穏やかな気持ちで彼女のことを思い出せるようになるのだろうか。

 答えの出ないそんな願いを胸の奥で考えながら、私はゆっくりと深い眠りへと落ちていった。


 意識が薄れ、たどり着いた夢の中では、世界はまだ鮮やかな夏の色をしていた。

 あの陽射しが照りつける駅前の激しい人混みの中で、彼女が確かに私の腕を強く掴んでいる。

 私は驚いて振り返り、すぐ近くにある愛おしい彼女の顔を真っ直ぐに見つめた。

 そして今度は――現実では叶わなかった笑顔を、彼女に向かってちゃんと浮かべていた。

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