1話 砂埃の街道
日陰には雪がうっすらと残る開けた草原。
気温が低いわけではないが、吹き抜ける風が体温を奪っていく。
春先にしてはまだ寒さの残る午後。
草原を割る様にまっすぐに伸びる街道を、一台の馬車が砂埃を巻き上げながら走っていた。
「ちくしょう! よりにもよって今日に限って……!」
慌ただしく周囲に視線を配る御者の男は、顔を歪ませると感情のままに言葉を吐き捨てた。
額の汗が一筋、頬を伝って落ちていく。
いつもなら安全のために護衛の兵士を乗せるか、馬車に同行してもらうのが常套だ。
だが、今回の様に見晴らしの良い場所では魔獣や盗賊に襲われる危険性は低い。
そもそも、この辺りに住む魔獣は冬眠する種族が多く、特に今年の冬は例年より長引いていることもあり、問題ないと思っていた。
それに加えて、行商に転職をしてから15年。
荷物を届けることに失敗したことは一度も無いというのが細やかな自慢だった。
その慢心がこの事態を招いてしまったのだろう。
馬車の両側と後方を、狼型の魔獣が群れをなして追走している。
まるで、慢心のツケを払えと死神が追ってきているようなこの境遇に、全身から血の気が引いていく。
先ほどから指先が冷たいのは寒さのせいだけではない。
男は震える体を鼓舞して馬車の左側に視線を向けた。
狡猾な魔獣達が、隙あらば襲おうと様子を伺うようにピタリと一定の距離を保っている。
今回の積荷は食料ではない。
だから、肉食の奴らが狙うのは――。
鞭を持つ右手に力が籠る。
「ちくしょう、ちくしょう! 食われてたまるか!」
パシン!と、馬の臀部を叩く音が響いた。
だが、馬も魔獣から逃げようと、白い湯気のような熱気を立ち上らせながら全力で走り続けている。
――もうこれ以上速度は上がらない。
男は、鞭をもう一振りしようとしたところで、汗で持ち手がすっぽ抜けた。
宙を舞い後方へと消えていくそれを茫然と見つめ、歯軋りと同時に自分の太ももを殴る。
「くそっ――!」
荷台に乗っているのは老人が一人と子供が二人。
それ以外の積荷は大したものを積んでいない。
荷台を捨てれば生存率は上がる……か?
良心をとるか、保身をとるか――。
男の中で良くない考えが膨れ上がっていく。
視界の左端に違和感を感じ振り向くと、一頭の魔獣が距離を詰めていた。
五歳になる娘との思い出が走馬灯のようにフラッシュバックする。
「行ってらっしゃい」と手を振ったあの姿を最後にするわけにはいかない。
男は魔術を唱え迎撃するが、魔獣を狙ったそれは地面にぶつかり焼け跡を残す。
意図せず牽制した形となり、魔獣は再び群れの方へと戻り並走を続けた。
このままじゃジリ貧だ。
男は右手で頬を伝う汗を拭うと唇を噛み締める。
そして、ゆっくりと言葉を吐いた。
「お客様方……、大変申し訳ないが――」
その続きを口にしようとした時、二人の少年のうち片方が遮るように言葉を発した。
「おっさん、止めてくれ!」
止める?
馬車を――?
「バカなことを言うな! この状況が分かってないのか! 三十頭近い群れのど真ん中だぞ!
止まったら、すぐに食われちまう!」
「……まぁ、それもそうか。おっさん、馬車はそのままでいい」
車輪と地面がぶつかるけたたましい音の中、二人の少年は立ち上がると、後方を見据えて鞘から剣を引き抜いた。
日の光を浴びた彼らの剣が、キラリと眩しく輝いた。
まさか、
たったの二人で――?
「やるぞ、カイン」
馬車の速度は時速五十キロ。
先ほど話しかけてきた少年は、荷台から飛び降りる。
そして、瞬く間に後方の魔獣達を殲滅していく。
その光景に息を飲む。
もう一人の少年は、身に着けた首飾りから手を離すと、
「おじさん。もし、魔獣がまだ追ってきてたら、僕たちの方に戻ってきてね」
そして、その少年は左側を追走する魔獣の群れに飛び込んでいった。
ああ、彼らがいて良かった。
誰かの命を犠牲にしなくて良かった。
本当に、良かった――。
男は潤む目元を拭うと、力強い眼差しで手綱を握り直す。
「いけるぞ、生きて帰れる!」
そんな男の心情など知らず、荷台には呑気に寝息を立てている老人だけが残されていた。
………………
魔獣の群れを殲滅した僕たちは剣を鞘に収める。
静かな草原に、カチンと小さな金属音が鳴った。
「この辺の魔獣はどうよ?」
近づいてきたその声に僕は振り向く。
そこには、久しぶりの運動でスッキリしたとでも言いたげな表情のローゼンが立っていた。
「グラティア周辺の魔獣よりは強いけど――」
ジリッ――。
その時、背後で熱気を纏った何かが膨らむ感覚。
僕は反射的に振り向きざまに剣を振るうと、微かな手応えとともに魔獣の首を跳ね飛ばした。
直後、切断され宙を舞う魔獣の口から赤く光る何かが飛び出す。
「うお!? 危ねぇ!」
ローゼンが飛び退くと、その何かは彼の足元の草を焦がした。
その焼け跡はブスブスと音を立てながら、うっすらと白い煙を上げている。
「え……? 火の魔術?」
「なんだよ。この辺の奴は魔術を使うのか? 羨ましい奴らだな」
ローゼンは足元に転がる魔獣の死骸に苦々しい視線を向けている。
辺りには二十頭ほどの狼型の魔獣の死骸が転がっていた。
吹き抜ける冷たい風が、動かなくなった魔獣達の毛を撫でていく。
その風の吹く方から、馬の足音が聞こえてきた。
魔獣に追われる馬車が砂埃を上げながらこちらに向かってきている。
「もうひと仕事だね」
僕たちは馬車を追う群れに向き合うと剣を握り直した。
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