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ある国の国立美術館に収蔵されている、至宝のうちのひとつ。
ひとりの貴婦人を描いた肖像画、一般に『悲劇の王妃』と呼ばれるこの傑作絵画に、別のタイトルがあったことはあまり知られていない。
この絵を描いた画家本人が呼んだタイトルは、『記憶』だ。
命を落とした者の時間はそこで止まるが、生き残った者には続きの人生がある。
隠された王家の落とし種フレデリックと、ガリア初の女性医師となったシャルロットも、その後の人生を生きた。出生ゆえに革命政府から身を引いたフレデリックは辺境で教鞭を取り、シャルロットはその妻として、平凡だか穏やかな家庭を築いた。二人の幸福な結末に、異論を唱える者はいない。
その一方で、革命家アンリ・ロランは。死ぬはずだった彼は、なかったはずの人生をどう生きたのか。
革命家の人生は穏やかさとは無縁だ。理想を追い求める者に妥協の二文字はない。
激情のまま進むロランは、革命政府を構成する一部の貴族、裕福なブルジョワ階級の富もまた罪とした。共に闘った同志だろうと、ロランの糾弾は免れない。だが結果として、追われたのはロランだった。革命による争いに疲れた民衆は、決裂よりも妥協を選んだ。
命まで危うくなったロランは海を越え、異国に亡命した。そこでジャーナリストの真似ごとなどをして、糊口をしのいでいく。
逃亡先でも彼の理想主義は変わることなく発揮されたが、大小の騒ぎを起こしながらもなんとか生き延びた。親友フレデリックすら、危なっかしいロランがここまで長生きするとは思っていなかった。
そしてこういう危険な男に魅かれるのは、何もリディアーヌのみではない。歳を経てガリア革命の頃ほど純粋ではなくなったロランは何度か結婚し、何度かの別れを経験した。前半生の潔癖さが嘘のように女を求めた。足りるを知らない情熱でもって。
その情熱も失った頃だ。ようやくロランは絵筆を取った。
デッサンのデの字も知らないところから始めた彼は、遅咲きの老画家として知られる。熱狂というほどの努力でもって技術を磨き、後半生で出会った様々な女性の姿をキャンバスに写し取ったため、女性専門の人物画家として高名を得た。
それゆえ後世の者は、彼を元革命家の人物画家、アンリ・ロランと見なしている。
老画家ロランが最後に描いたのが、件の『記憶』だ。
ロランの絶筆となった絵である。それを描いた後もロランには数年の余生があったが、二度と絵筆は握らなかったと伝えられる。まるでその絵を描くためだけに、技術を磨いたかのように。熱心に他の女の絵を描いたのも全て、『記憶』に留めた彼女の絵を描くためだけだったように。
ロランが飽くなき情熱で求めたのは何だったのか。ギロチンから救い出さなかったリディアーヌ王妃を、何十年も経った後で、なぜ描かねばならなかったのか。
謎は憶測を呼び、ひとつの説が生まれる。
老画家の若かりし頃には、悲恋あったのだと。潜り込んだ宮廷で出会った彼女への恋に破れたため、その死後に亡命し、画家になったとされた。そう尋ねられても、本人は否定も肯定もしなかった。
何も語らぬロランが世を去ると、とうとうそれが通説となる。
恐らくリディアーヌ王妃の人生があまりに幸薄すぎたせいだろう。革命の三年前に嫁いだ彼女は享年十八。ギロチンへ送られるためだけに嫁いだようなリディアーヌは、歴史の中でそれほど地味な存在ではない。薄幸の王妃に何か慰めがあれば、と願う人々の心がそのような通説を産んだのだ。
*
ロランにもわからなかった。
『気に入ったわ、本当よ』。
自分がどうしてあの顔を忘れられないのか。あの日、あの午後、ハンカチの下から微笑みかけた王太子妃。あの一瞬の表情が記憶から消えないのは何故なのか。
ロランから見て、リディアーヌは相容れない人種だった。慈善のために動く一方で、豪奢なドレスをまとうことには疑問を持たない、愚かな女だ。宮廷での意味不明なルールを押し付け、当然のように命令してきた。不平等な階級社会の象徴のような、憎い相手だ。革命裁判の判決はロランが下したのではないが、止めるつもりもなかった。
『嬉しいわ、わたくしは』。
それなのに忘れられない。追放の屈辱すら時間が薄れさせたのに、あれだけは。
何人の女を描いても、あの笑顔以上のものに出会えない。だから最後に仕方なく描いたのだ。記憶を元にしたのだから、多少は美化したかもしれないが。憎いはずの王妃の絵を満足のいくところまで仕上げてしまうと、絵を描きたいという狂熱は、何故かそこで尽きた。
そしてもうひとつ、死ぬまで解けない謎がロランにもあった。
決起集会で起こった、親衛隊の闖入事件。直前に悲鳴を上げた女がいた。高いところから群衆を見渡す人間は、案外人々をよく見ている。不可解なことに、ロランには、あの女がリディアーヌだったような気がしてならない。いるはずがない場所で彼女を見た。あれが本当にリディアーヌ王妃だったのか、別人なのか、どうしてもわからない。
死者に問うても答えはない。答えのない謎はいつしか傷となった。埋まることのない傷だ。
勝手な世間がそれを悲恋と呼んだのだが、好きにすればいいと思った。相手に通じないという点では、同じことだ。
「……どうしてもわからないんだ。あれはあんたか?」
アンリ・ロランは、息を引き取る直前にそう言った。何度目かの結婚で得た息子がぎりぎりで駆けつけ、彼に看取られる中だったので、それほど不幸でもなかった。子孫に新たな謎を残しはしたが。
ガリア国がガリア共和国となった後には、原作者も知らない歴史が生まれていく。
終わりのないものはない。人の命は儚く、永遠の愛を誓った唇もいつかは全て土へ還る。幸福だが平凡に生きたシャルロットとフレデリックの存在は、時間の中でやがて埋もれた。
だが芸術の永続性は人の命の比ではない。『悲劇の王妃』は、それを買い取った美術館きっての名作で、世界中の人々がその前で足を止める。本来描かれるはずのなかった絵が、永遠の美として世に残された。
老画家アンリ・ロランの叶わぬ恋は、その絵にまつわる逸話となった。
薄幸の王妃リディアーヌの秘めた恋、その真実は、今も誰も知らない。