第十部 山の門を守る者 ― まだ見ぬ旅人と緑の石の行方
一 春の山に残された足跡
春の陽射しが、白峰の雪を少しずつ溶かしていた。
山の斜面には、冬のあいだ雪に閉ざされていた岩肌が現れ、雪解け水は細い流れとなって木々の根元を走っている。谷底では蕗の若葉が顔を出し、湿った土の匂いに、芽吹いたばかりの草の香りが混じっていた。
ヌナの邑では、川の土地から届いた稲の籾を、今まで育ててきた稲とは別に分けて保管していた。サナとナギは、それぞれの籾を少しずつ蒔き、芽の出方や育ち方を比べてみるつもりだった。
また、イツキが持ってきた土器の小片を手本に、土の練り方や乾かし方を変えて器を作る者もいた。
青銅の鏡は、邑の人々が集まる場所に大切に置かれている。鏡の裏に刻まれた渦の文様は、子どもたちの間でも評判だった。
遠い川の土地から届いたものは、少しずつ谷の暮らしに溶け込み始めていた。
しかし、山の奥に残された足跡のことを、ゴウザは忘れていなかった。
ある朝、ゴウザはアシナ、オト、カガ、そして山道をよく知る二人の若者を呼び集めた。
「今日は、あの足跡の先を調べる。雪が残る場所もある。無理に奥へ進まず、山の様子を見ながら歩こう」
「足跡を残した者たちを探すのか」
アシナが尋ねた。
「それもある。だが、もっと大切なのは、どこから入り、どこへ向かったのかを知ることだ。山の道を知らぬ者が、迷っているのかもしれぬ」
オトは弓の弦を確かめた。
「人と出会ったとき、まずは話をする。だが、獣に襲われたり、崖が崩れたりすることもある。備えだけはしておこう」
カガは腰の袋に、干し肉と木の実を入れた。
「この先に、翡翠を採る者がいるのなら、どこの土地の者かも聞きたい。石をどこへ運んでいるのかもな」
ゴウザは山を見上げた。
「山には、わしらが知らぬ道がある。知らぬからといって、そこに暮らす者がいないとは限らぬ」
一行は、白瀬の川を離れ、木々の間を縫うように続く細い道へ入っていった。
二 山の奥にある小さな谷
昼近くになったころ、アシナが立ち止まった。
「ここから先、足跡がはっきりしている」
湿った土の上に、複数の足跡が続いていた。
大人の足跡だけではない。少し小さな足跡も混じっている。歩幅は揃っておらず、急いでいる様子もなかった。
「荷を背負って歩いているようだ」
オトが言った。
「こちらへ来た者たちは、山を越えようとしているのかもしれぬ」
ゴウザは、足跡の向きを確かめた。
一行は、岩の間を抜けてさらに奥へ進んだ。
やがて、木々の向こうに小さな谷が開けた。
そこには、細い川が流れていた。川のそばには、いくつかの住まいが寄り添うように建っている。ヌナの邑より小さく、住まいの数も多くはない。
煙が一本、空へ昇っていた。
アシナは、周囲を見渡した。
「人が暮らしている」
「そうだな。ここに住む者たちが、あの足跡を残したのだろう」
ゴウザが答えた。
一行が谷へ近づくと、木の枝を束ねていた男が顔を上げた。
男は四十歳ほど。日に焼けた顔に深い皺が刻まれ、腰には石の小刀を下げている。手には細長い石が握られていた。
男は一行を見つめ、少し離れた場所にいた若者へ声をかけた。
若者はすぐに住まいの方へ走っていった。
やがて、男と同じくらいの年頃の女性が姿を現した。
女性は、長い黒髪を後ろで束ね、首には小さな貝飾りをつけている。
「どこの者だ」
男が尋ねた。
ゴウザが前へ出た。
「白瀬の川が流れるヌナの谷から来た。わしはゴウザ。こちらはアシナとオト、そしてカガだ」
「ヌナの谷……聞いたことがある。山の緑の石を磨く者たちがいるところだな」
「そうだ。お前たちは、この谷で暮らしているのか」
男はうなずいた。
「わしはトウマ。この谷で石を採り、木の実を拾い、川の魚を捕って暮らしている」
女性が続けた。
「わたしはユラ。ここに住む者たちの食べ物や、石を磨く仕事を見ている」
アシナは、トウマの手にある石へ目を向けた。
それは翡翠だった。
だが、ヌナの谷で見つかるものとは、色合いが少し違っていた。淡い緑の中に白い筋が走り、ところどころに黒い点が見える。
「その石は、ここで採れたのか」
アシナが尋ねると、トウマはうなずいた。
「この谷の上にある岩場で見つけた。大きな石は少ない。川の流れに洗われて、小さくなったものを拾うこともある」
ゴウザは、周囲を見渡した。
「ここにも、翡翠があるのだな」
「そうだ。だが、わしらは石を多く採らぬ。食べ物を得る仕事もある。山に入るのは、雪が消え、道が歩けるようになってからだ」
トウマの言葉に、ゴウザは静かにうなずいた。
この小さな谷にも、山の恵みとともに生きてきた人々がいた。
三 異なる手、同じ緑
ユラは、一行を火のそばへ案内した。
住まいの前には、いくつもの石が並べられていた。
その中には、まだ表面を割っただけの原石もあれば、飾りの形に削られたものもある。
さらに、細かな砂で磨かれ、穴を開ける前のものもあった。
アシナは、並べられた石を一つずつ眺めた。
「ここでも、勾玉を作るのか」
「勾玉も作る。だが、わしらのところでは、丸い飾りや、細長い飾りも作る」
ユラは、籠から小さな石の飾りを取り出した。
それは、細長い雫の形をしていた。表面には細かな磨き跡が残っている。
「この形は、川の流れを思わせる。こちらは、山の獣の牙に似せたものだ」
ミヤがここにいれば、きっと喜んだだろう。
アシナは、そう思った。
「穴はどうやって開けるのだ」
「硬い石の先を使い、砂と水をつけて少しずつ回す。両側から穴を進めると、途中でずれにくい。急げば石が割れる」
ユラは、穴を開ける前の飾りを手に取った。
「石を磨くのは、急ぐ仕事ではない。火を見守るように、少しずつ手をかける」
カガが尋ねた。
「この谷で作った飾りは、どこへ運ぶのだ」
トウマは、火の向こうを見つめた。
「南の川沿いに住む者たちへ渡すことがある。向こうからは、塩や魚の干したもの、土器を受け取る。時には、黒い石も届く」
「黒曜石か」
「そうだ。よく切れる石だ。山の向こうから来ることがある」
カガは、うなずいた。
「それなら、わしらの知る道ともつながっているかもしれぬ」
トウマは、石を手に取った。
「以前、青銅の飾りをつけた男が来た。緑の石を見せてくれと言った。石をたくさん集めたいとも言っていた」
アシナとゴウザは、顔を見合わせた。
「その男は、どこの者だった」
「川の向こうから来たと言っていた。名は知らぬ。だが、連れが二人いた。彼らは山へ入る道を尋ねた」
「石を採るためか」
「そうだろう。だが、わしらは道を教えなかった。山を知らぬ者が入れば、迷うだけではない。崖を崩し、川を濁らせることもある」
ゴウザは、深くうなずいた。
「その考えは、わしらも同じだ」
トウマは、少し表情を和らげた。
「ならば、話ができる」
四 山を越えてきた旅人
夕方になると、谷の人々が少しずつ集まってきた。
年寄りの男、若い女、子どもたち。彼らは、ヌナの谷から来た者たちを珍しそうに眺めていた。
そのとき、谷の奥から一人の旅人が姿を現した。
背は高く、痩せた体つきで、肩には古い獣皮の袋を掛けている。髪には白いものが混じり、顔には長い旅の疲れが見えた。
腰には、青銅の小さな飾りがついていた。
その男は、ゴウザたちを見ると、足を止めた。
「ヌナの谷から来た者たちか」
「そうだ。お前は誰だ」
ゴウザが尋ねた。
男は頭を下げた。
「わたしはシノ。山の向こうの川沿いを歩き、石や塩を運んでいる」
カガが前へ出た。
「どこまで行くのだ」
「南の大きな川の土地まで行くこともある。時には、海辺の邑へも向かう」
「タケルの土地を知っているか」
シノは、少し目を細めた。
「知っている。あの土地では、稲を蓄え、青銅の品を集めている。タケルの名を知らぬ者は、少なくなってきた」
「タケルのもとから来た者が、この山へ入ろうとしていたと聞いた」
「それは、おそらく別の者たちだろう」
シノは、肩の袋を下ろした。
「わたしも、緑の石を求める者たちを見たことがある。石を集め、遠い土地へ運ぼうとする者たちだ。彼らは、山の道を知る者を探していた」
「何のために」
アシナが尋ねた。
「石を採るためだ。だが、石を採るだけなら、山を知る者と話せばよい。彼らは、山の道そのものを自分たちのものにしたいようだった」
カガの顔が険しくなった。
「道を押さえれば、石を運ぶ者も決められるからな」
シノはうなずいた。
「そうだ。道を知る者を味方につけ、山へ入る者を選び、採った石を一つの場所へ集める。そうすれば、遠くの土地へも送りやすいと考えている」
「それは、タケルの考えなのか」
ゴウザが尋ねた。
「タケルがどこまで知っているかはわからぬ。だが、タケルの名を使って動く者たちがいることは確かだ」
アシナは、山の方を見た。
昨年、川岸を崩した男たちも、タケルの名を口にしていた。
だが、彼らはタケルから直接言葉を受けたわけではなかった。
今回の足跡を残した者たちも、同じように誰かの名を使っているのかもしれない。
五 緑の石が結ぶもの
その夜、トウマの谷では、小さな火を囲んで話し合いが行われた。
ユラは、作りかけの飾りを持ってきた。
「わたしたちの谷では、翡翠を遠くへ渡すことがある。だが、石をすべて運び出すことはしない。山に残す石もある。これから先に生まれる子どもたちにも、山の恵みを残しておきたいから」
ゴウザは、静かにうなずいた。
「わしらの谷でも、同じように考えている」
ユラは、アシナへ一つの飾りを差し出した。
それは、淡い緑色の小さな雫形だった。表面は滑らかに磨かれているが、穴はまだ開いていない。
「これを持っていってほしい。あなたたちの谷の石と比べてみて」
アシナは、両手で受け取った。
「ありがとう。ミヤにも見せたい」
「ミヤというのは、石を磨く人?」
「そうだ。勾玉を作っている。石の色や筋をよく見て、一つずつ形を決める」
ユラは微笑んだ。
「いつか会ってみたい。わたしたちの磨き方と、あなたたちの磨き方を比べてみたい」
「きっと喜ぶだろう」
カガは、トウマに尋ねた。
「この谷の石を、川の土地へ渡すときは、どのようにしている」
「原石を渡すこともある。だが、遠くへ運ぶときは、形を整えた石にすることが多い。大きな原石は重いし、割れれば使えなくなる。磨きかけの石なら、運ぶ者も扱いやすい」
「完成した飾りは?」
「欲しい者がいれば渡す。だが、手間がかかるので、たくさんは作れぬ」
カガは、深くうなずいた。
「わしらの谷でも、同じように考えている。原石を求める者、加工途中の石を求める者、完成した勾玉を求める者。それぞれに、必要なものを届ければよい」
シノが、火の向こうから言った。
「そのようにすれば、石を一つの場所へ集めずとも、いくつもの道が生まれる。道がいくつもあれば、一つの道が塞がれても、石は別の土地へ届く」
ゴウザは、火を見つめた。
「だが、道が増えれば、山へ入る者も増える。山の恵みを守るための約束も必要になる」
トウマはうなずいた。
「ならば、山を知る者同士で話し合おう。ヌナの谷の者だけでも、この谷の者だけでもない。山を歩く者たちが、互いに知らせ合えばよい」
アシナは、その言葉を聞いていた。
山を守ることは、山の入口を塞ぐことではない。
山の恵みを知り、使い、次の世代へ残すこと。
そのためには、山を知る者たちが互いに手を取り合わなければならない。
「わたしたちの谷でも、皆に話そう」
アシナは言った。
「山の石を求める者が来たら、まず話をする。山を知らぬ者には、山を知る者が道を教える。石を採るなら、採り方も教える。だが、山を荒らすことは許さない」
トウマは、アシナの顔を見つめた。
「若いのに、よく山のことを考えているな」
「山は、わたしたちの暮らしを支えている。守らなければならないものだから」
六 帰り道に見つけたもの
翌朝、一行はトウマとユラに見送られ、ヌナの谷へ戻ることになった。
出立の前、シノがアシナへ声をかけた。
「川の土地へ行くなら、気をつけたほうがよい」
「何かあるのか」
「タケルのもとには、遠い土地から多くの者が集まっている。稲を求める者、青銅を求める者、翡翠を求める者。皆がそれぞれの願いを持っている」
「タケルは、皆の願いを聞いているのか」
「聞いているだろう。だが、すべてをかなえることはできぬ。人が集まれば、争いも生まれる」
シノは、肩の袋を背負い直した。
「タケル自身は、人々を飢えさせたくないと思っているのかもしれぬ。だが、タケルの名を使って利益を得ようとする者もいる。誰が何を望んでいるのか、よく見たほうがよい」
アシナは、深くうなずいた。
「ありがとう。忘れない」
帰り道、一行は山の中腹で足を止めた。
そこには、古い石を積んだ小さな場所があった。
石は自然に崩れたものではなく、人の手で並べられているようだった。
ゴウザは、その石の並びを調べた。
「ここは、山道の分かれ目だ。昔から通る者がいたのだろう」
「この先にも道があるのか」
アシナが尋ねた。
「ああ。だが、わしもすべてを知っているわけではない」
石のそばには、細い植物繊維が結ばれていた。
それは、道を示すための目印のようだった。
「誰かが、ここを通った者に知らせを残したのかもしれぬ」
カガが言った。
「山の向こうの者たちも、道を伝え合っているのだろう」
ゴウザは、石の並びを崩さないように、その場を離れた。
七 ヌナの邑に戻って
夕暮れ、アシナたちはヌナの邑へ戻った。
ミヤは、アシナの姿を見つけると、すぐに近づいてきた。
「無事に戻ったのね」
「ああ。山の奥に、小さな谷があった。そこにも翡翠を磨く者たちが暮らしていた」
アシナは、ユラから預かった雫形の石を見せた。
ミヤは、それを受け取ると、光にかざした。
「きれいな石ね。白い筋が、川の流れのように見える」
「ユラという女の人が磨いたものだ。わたしたちの磨き方と比べたいと言っていた」
ミヤは、嬉しそうに微笑んだ。
「ぜひ会ってみたい。どんな砂を使い、どのように穴を開けるのか、聞いてみたいわ」
「トウマという男もいた。山の石を採りすぎないようにしている。あの谷の者たちも、山を大切にしていた」
ゴウザが、邑の人々に話した。
「山の奥には、わしらの知らぬ暮らしがある。そこにも翡翠を採り、磨き、遠い土地へ届ける者たちがいる。これからは、互いに山の様子を知らせ合うことにした」
カガは、シノから聞いた話を伝えた。
タケルの名を使って、山の道を押さえようとする者たちがいること。遠い土地から集まる人々の願いが、必ずしも一つではないこと。
人々は、静かに話を聞いた。
「タケルは、悪い者なのか」
ナギが尋ねた。
アシナは、首を横に振った。
「そうとは言えない。稲を育て、食べ物を蓄え、人々を守ろうとしているのだろう。ただ、その名を使う者たちが何を考えているのかは、わからない」
「それなら、タケル本人と話をすればよいのではないか」
ミヤが言った。
「いつか、そういう日が来るかもしれない」
アシナは答えた。
ゴウザは、山を見つめた。
「その前に、わしらが山の約束を確かなものにしなければならぬ。誰が来ても、何を求めても、山を荒らさず、皆で分け合うという約束だ」
八 新しい道の始まり
その夜、ヌナの邑では、山の道について話し合いが行われた。
ヌナの谷の者だけでなく、近くの小さな邑からも人々が集まった。
山へ入る者は、山を知る者とともに歩くこと。
川岸や崖をむやみに崩さないこと。
翡翠は必要な分だけ採り、採った場所を伝えること。
原石、加工途中の石、完成した勾玉を区別し、誰がどのように扱うのかを明らかにすること。
山の道を一人の者に独占させず、行き来する者たちが互いに知らせ合うこと。
そして、山の恵みを次の世代にも残すこと。
人々は、それらを確かめ合った。
その話し合いの最後に、ゴウザが言った。
「山には、門があるわけではない。木々の間を歩けば、誰でも入ることはできる。だが、山の恵みを受け取る者には、守らねばならぬことがある」
彼は、火の向こうに座る人々を見渡した。
「山の門を守るとは、山を閉ざすことではない。山を大切にする心を、皆で守ることだ」
その言葉に、誰も異を唱えなかった。
アシナは、ミヤのそばに座っていた。
ミヤの膝には、ユラから預かった翡翠の飾りが置かれている。
「いつか、ユラと一緒に石を磨けるといいね」
アシナが言った。
「ええ。違う土地で育った人の手が、同じ石を磨く。それは、とても素敵なことだと思う」
「山の道がつながれば、もっと多くの人と会えるだろう」
「でも、急いではいけないわね」
ミヤは微笑んだ。
「石を磨くときと同じ。少しずつ、確かめながら進めなければ」
二人の前では、火が穏やかに燃えていた。
外では、白瀬の川が春の水を運んでいる。
その水は、谷を下り、やがて遠い海へと向かう。
山の石もまた、人々の手から手へ渡り、川を越え、海を越えていく。
だが、どれほど遠くへ運ばれても、石が生まれた山を忘れてはならない。
そのことを、ヌナの邑の人々は、もう一度確かめたのだった。
第二巻 第十部 了
次回予告
第三巻「炎と土のあいだ ― 暮らしを育てる火」へ ― 第一部「川の王の宴 ― 緑玉をめぐる人々の思惑」
タケルのもとへ、イツキがヌナの谷から持ち帰った勾玉が届く。
タケルは、その美しさに心を奪われる。だが、勾玉を見た者たちの中には、石そのものよりも、それを手に入れることで得られる力を考える者がいた。
川の土地では、遠い地域から旅人や品物が集まる宴が開かれる。稲の酒、魚、塩、青銅の飾り、そして翡翠。さまざまな土地の人々が出会う中で、タケルの願いと、彼の周囲に集まる者たちの欲望が、少しずつ異なる姿を見せ始める。
一方、ヌナの谷では、稲の新しい種が芽を出し、土器づくりにも新たな工夫が生まれようとしていた。
山と川、海と平野を結ぶ道は、さらに遠くへ伸びていく。




