第九部 緑玉を求める使者 ― 川の王から届いた申し出
一 雪解けの谷に届いた知らせ
冬のあいだ白峰を覆っていた雪は、南向きの斜面から少しずつ姿を消し始めていた。
山の奥では、まだ深い雪が谷間に残っている。けれども、日当たりのよい岩場には小さな草が芽を出し、雪解け水は白瀬の川へ集まり、冬よりも勢いよく流れていた。
ヌナの邑にも、春の仕事が戻ってきた。
男たちは弓の弦を確かめ、欠けた石鏃を取り替えた。狩りに使う槍の柄を締め直し、骨で作った釣り針や、魚を捕らえる網の傷みを調べる者もいる。
女たちは冬のあいだに蓄えた木の実や干し魚を確かめ、土器のひびを直し、春の山菜を採るための籠を編んでいた。
稲を育てる者たちは、籾を入れた籠を開き、種に残しておいたものの傷み具合を調べている。昨年収穫した稲は、食べる分と次に蒔く分に分けて蓄えてあった。
ナギは、母サナとともに籾を選んでいた。
「かあ、この籾は少し小さいね」
「そうだね。小さくても芽を出すものはあるけれど、種にするものは、ふっくらして傷のないものを選んでおこう」
「去年より、たくさん実るかな」
「それは、土と水と陽の光に聞いてみなければわからないよ。稲も毎年同じようには育たないからね」
ナギは籾を一粒ずつ確かめた。
この谷で稲を育てるようになってから、まだ長い年月が過ぎたわけではない。けれども、人々はすでに、籾を食べてしまわずに残すこと、鳥に食べられぬよう見守ること、水の具合を確かめることを覚え始めていた。
その日の昼過ぎ、山道を見回っていた若者が、邑へ駆け戻ってきた。
「ゴウザ! 山背の道から人が来る。四人だ。荷を背負っている」
ゴウザは、手にしていた木の枝を置いた。
「どこの者か、わかったか」
「まだわからぬ。だが、一人は腰に青銅の飾りをつけていた」
その言葉に、カガが顔を上げた。
「川の土地の者かもしれないな」
アシナも、山から戻ったばかりの足を止めた。
昨年から、翡翠を求める者たちの動きは絶えなかった。山へ入り、川岸を荒らした者たちもいた。タケルの名を口にする者もいた。
そして冬が終わるころ、ゴウザたちは山の奥に新しい足跡を見つけていた。
誰が残したものか、まだわかっていない。
「まずは話を聞こう」
ゴウザが言った。
「遠くから来た者を、初めから敵と決めてはならぬ。だが、山のことを尋ねるなら、皆の前で話してもらう」
アシナは、腰の石の小刀を確かめた。
「わかった」
ミヤも翡翠を磨く小屋から出てきた。
「また川の土地からかしら」
「そうかもしれない」
アシナが答えると、ミヤは山の方へ目を向けた。
「石を求める人が増えるほど、山のことを考えなければならなくなるね」
「そうだな」
春の風が、二人の髪を揺らした。
二 タケルの言葉を預かる者
四人の旅人は、夕暮れ近くになってヌナの邑へ到着した。
先頭の男は三十歳を少し過ぎたほど。背が高く、肩幅が広い。黒髪を後ろで束ね、腰には青銅の飾りを下げている。
男はゴウザたちの前で立ち止まり、深く頭を下げた。
「遠い川の地より来た。わたしはイツキ。タケルの言葉を預かっている」
カガが尋ねた。
「タケル自身は来ていないのか」
「来てはいない。タケルは川の土地を離れられぬ。田の水を見、蓄えた稲を分け、遠くから来る者たちを迎えている」
「それで、何を伝えに来た」
「まずは、皆の前で話したい。だが、その前に長い道を歩いてきた者として、火と水を分けてもらえぬか」
ゴウザはうなずいた。
「火は誰にでも分ける。腹が空いているなら、食べ物も出そう」
サナたちは、干した魚を炙り、栃の実を煮て、山菜を添えた食事を用意した。
旅人たちは、温かな食べ物を口にした。イツキは、干し魚をゆっくり噛みながら、邑の様子を眺めていた。
住まいのそばでは、子どもたちが籠を編む真似をしている。少し離れた場所では、男たちが弓の修理をしていた。土器を焼く場所からは、薪の煙が細く立ち上っている。
「この谷は、冬を越すための蓄えをよくしているな」
イツキが言った。
「山の木の実も、川の魚も、海から届く塩もある。何もかもが豊かなわけではないが、皆で手を貸して暮らしている」
ゴウザの言葉に、イツキはうなずいた。
食事が終わると、彼は荷を広げた。
最初に取り出したのは、青銅の鏡だった。
ヌナの邑の人々にとって、鏡は見知らぬ道具ではない。すでに遠い土地から運ばれた鏡を見た者もいるし、磨かれた青銅の面に顔が映ることも知っている。
しかし、イツキが持ってきた鏡には、これまで谷で見たものとは異なる細工があった。
丸い鏡の裏には、細かな渦の文様が刻まれている。その周りには、鳥の羽を思わせる線が幾重にも重なっていた。縁には小さな突起が並び、光を受けるたびに赤銅色の輝きを変えていた。
「これは、タケルが大切にしている鏡と同じ作り手の手によるものだ。海の向こうから来た鏡を、遠い土地の職人が写し、さらに細かな文様を加えたと聞いている」
ミヤが鏡の裏をのぞき込んだ。
「文様の線が細かいね。青銅を流し込む型に、これほど細い模様を刻んだのかしら」
「そうだと聞いた。作る者によって、模様も形も違う」
カガが尋ねた。
「これを、タケルからの贈り物として持ってきたのか」
「そうだ。タケルは、ヌナの谷との結びつきを大切にしたいと言っている。この鏡を、そのしるしとして贈りたいそうだ」
ゴウザは鏡を手に取り、しばらく眺めた。
「美しい細工だ。だが、鏡を受け取ることと、タケルの言葉に従うことは別だ」
「もちろんだ」
イツキは答えた。
次に取り出したのは、稲の籾だった。
それも、人々が知らないものではない。
ナギもサナも、すでに稲を育て、籾を選び、食べている。だが、イツキの籾には、谷で育てているものとは違う特徴があった。
粒の形がやや細長く、籾殻の色も少し濃い。
「これは、タケルの土地で育てている稲の一つだ。水の多い場所でよく育つものもあれば、少し水が少なくても実をつけるものもある。これは、川の水が長く残る場所で育ててきた」
サナが籾を手に取った。
「うちの籾より、少し細いね。実ったときの穂はどうなるの?」
「穂はよく垂れる。実のつき方も違う。だが、この谷で同じように育つとは限らない」
「それなら、少しだけ試してみよう。今ある稲と一緒に育てて、違いを見てみたい」
「タケルも、そうしてほしいと言っている」
ナギは、二つの籾を並べて見比べた。
「同じ稲でも、育った土地によって違うんだね」
「そうだよ」
サナが答えた。
「人も土地も、それぞれに違う。だから、よいところを見つけていくのさ」
三 新しい土器の知恵
イツキが次に取り出したのは、土器の小片だった。
それは、薄く焼き上がっており、縁には細かな刻み目があった。表面は滑らかで、内側には黒く焼けた跡が残っている。
サナは、それを受け取ると、指先で縁をなぞった。
「よく焼けているね。薄いのに、簡単には欠けなさそうだ」
「川の土地では、土を選ぶときに、細かな砂を混ぜることがある。土によっては、焼くときに割れやすいからだ」
「砂を混ぜるのは、こちらでもやっているよ。土の具合を見て、混ぜるものを変えている」
「そうだろう。だが、こちらでは土をよく乾かしてから砕き、細かな砂と混ぜる者もいる。器を作る前に、土を何度も練り直す」
サナは、土器片の厚さを確かめた。
「焼く前の乾かし方にも工夫がありそうだね」
「急に乾かすと、ひびが入る。風の通る日陰で、少しずつ水を抜く。焼くときも、初めから強い火を当てず、ゆっくり温める」
サナは興味深そうにうなずいた。
「それなら、うちでも試せる。土は同じでなくても、焼き方を変えれば違いが出るかもしれない」
「タケルは、こうした知恵を互いに分け合いたいと言っている」
イツキは、土器片をサナに渡した。
「川の土地の作り手も、ヌナの谷の土器を見たいそうだ。こちらにはこちらの土があり、こちらの火の使い方がある。互いに見れば、まだ知らぬことが見つかるだろう」
「それは、よいことだね」
サナは微笑んだ。
「土器は、食べ物を煮るにも、木の実を灰汁抜きするにも、魚を煮るにも使う。よい器が増えれば、皆の暮らしが楽になる」
アシナは、イツキの荷を眺めた。
「タケルは、稲や土器のことだけでなく、青銅の品も持ってきたのだな」
イツキは、もう一つの包みを開いた。
中には青銅の小さな刃物が入っていた。
刃は薄く、先端が少し曲がっている。木を削ったり、植物の繊維を切ったりするためのものらしい。
オトが手に取った。
「石の刃とは違うな。どのように手入れをする」
「石のように打ち欠いて刃を作るのではない。熱して形を整え、研いで使う。使えば刃も鈍る。手入れをしながら長く使うものだ」
「獲物を解くには、石の刃もよく切れる。だが、木を削る仕事には役立つかもしれぬ」
オトは刃の形を確かめ、丁寧に包み直した。
イツキが持ってきた品々は、どれも遠い土地で人々が工夫してきた暮らしの跡だった。
ヌナの邑の人々も、すでに知っているものを見直し、まだ知らない工夫を学ぶことができる。
そのことに、彼らは素直な喜びを感じていた。
しかし、カガだけは、まだ尋ねていないことがあった。
四 タケルが求めるもの
翌朝、邑の人々が集まる火のそばで、イツキはタケルから預かった申し出を伝えた。
「タケルは、これからもヌナの谷と川の土地が行き来することを望んでいる。稲の種を分け、土器づくりの知恵を交換し、青銅の品も必要に応じて届けたいと言っている」
「こちらからは何を渡せばよい」
カガが尋ねた。
イツキは、少し間を置いて答えた。
「翡翠だ」
火の周りの人々は、静かに顔を見合わせた。
「タケルは、翡翠を求めている。川の土地には、緑の石を身につけたい者が増えている。遠い土地から来た者も、ヌナの谷の石を欲しがっている」
「どのような石を求めるのだ」
ミヤが尋ねた。
「山から採ったままの原石も、形を整えた石も、完成した勾玉も、どれも見たいと言っている」
「原石なら、石を見分ける者が必要です。形を整えた石なら、どのような飾りにするのかを考える者が必要です。完成した勾玉なら、磨いた者の手間もあります」
ミヤは、手元に置いてあった三つの石を示した。
「これが原石。こちらは形を整えた途中のもの。そして、これが完成した勾玉です。同じ翡翠でも、そこにかけた手間は違います」
イツキは、一つずつを確かめた。
「タケルは、その違いも知りたいと言っている」
「それなら、石を見せることはできます」
ミヤは答えた。
「けれど、すべてをタケルのもとへ集めることはできません」
イツキは、ミヤを見た。
「まだ、そこまでは話していない」
カガが静かに言った。
「では、話してもらおう。タケルは、翡翠をどのように集めたいのだ」
イツキは、今度はすぐには答えなかった。
やがて、彼は口を開いた。
「タケルは、川の土地を通って遠くへ向かう品々を、できるだけ一つの場所で取りまとめたいと考えている。翡翠も、その一つだ。山から採れる石を、まず川の土地へ届けてほしい。そこから先は、タケルのもとに集まる者たちが運ぶ」
「山へ入る道も、タケルに知らせるのか」
ゴウザが尋ねた。
「山の道を知る者と、川の土地から来る者が一緒に歩けるようにしたい。採る場所や運ぶ量も、話し合って決めたいと言っている」
「話し合って決めるというなら、こちらの者も同じように決めるのだな」
「そうだ」
「ならば、なぜ、すべての石をまず川の土地へ集める必要がある」
ゴウザの声には、怒りはなかった。
ただ、山のことをよく知る者として、譲れない思いがあった。
イツキは、しばらく考えた。
「タケルは、道を守りたいのだ。遠い土地から来る者たちが増えれば、荷を奪う者も現れる。運ぶ者がばらばらでは、争いも起こりやすい。タケルのもとで道を見守る者を置けば、荷を守れると考えている」
「守る者が、いつか荷を取り上げる者にならぬとは限らぬ」
カガが言った。
「道を守ることは大切だ。だが、道を一人の者が押さえれば、通る者はその者の言葉を聞かなければならなくなる」
イツキは、目を伏せた。
「タケルは、皆を飢えさせたくないのだ」
「それは、わしらも同じだ」
ゴウザは答えた。
「だが、誰かを飢えさせないために、別の誰かの山を奪ってよいわけではない」
火の中で、枝が静かに崩れた。
五 山の恵みを誰が守るのか
その日の午後、アシナとミヤは、ゴウザ、カガ、オトとともに山へ向かった。
イツキも同行したいと申し出た。
「山の様子を自分の目で見たい。タケルに伝えるにも、話だけでは足りない」
ゴウザは少し考えてから答えた。
「山を知る者と一緒ならよい。ただし、勝手に石を持ち帰ってはならぬ」
「わかった」
一行は、白瀬の川沿いを進み、やがて岩の多い斜面へ入った。
ゴウザは、雪解けで緩んだ地面を確かめながら歩いた。
「この辺りは、冬の間に土が動いている。足を置く場所を間違えると、崩れるぞ」
イツキは、慎重に足元を見た。
やがて、翡翠の原石が見つかる場所へ着いた。
岩の間には、緑色を帯びた石が顔を出していた。川の流れに洗われた小石もあれば、岩の割れ目に残っているものもある。
ゴウザは、一つの石を拾い上げた。
「これが山の石だ。ここから石を選ぶ。見た目が緑でも、すべてがよい翡翠とは限らぬ」
ミヤは、石の表面を水で濡らした。
「水に濡らすと色がよく見えます。でも、それだけではわかりません。筋の入り方や、石の硬さ、割れた面も見ます」
アシナは、少し離れた岩場を指さした。
「去年、あの辺りを荒らした者たちがいた。土を崩して、石を籠に詰めていた」
イツキは、その場所を見つめた。
「タケルの名を出した者たちか」
「そうだ。だが、あの者たちが本当にタケルの言葉を受けていたのかは、まだわからない」
「わたしも、あの者たちのことは知らない」
イツキは、川岸の崩れた跡を見た。
そこには、土を戻した跡が残っていた。草の根が少しずつ広がり、川の水が岸を削らないように、石が並べ直されている。
「ここを直した者たちがいたのだな」
「そうだ。自分たちで崩した土を戻した」
イツキは長い間、その場所を眺めていた。
「タケルにも、このことを伝えよう。山を荒らさずに石を採ることが、どれほど大切なのか」
ゴウザは、山の斜面を見上げた。
「山は、石だけを出すところではない。水を生み、木を育て、獣を養う。山を傷めれば、川も谷も傷む。石を求めるなら、そのことを忘れてはならぬ」
「わかった」
イツキは、静かにうなずいた。
六 受け取るもの、渡すもの
数日後、ヌナの邑では、タケルの申し出について話し合いが行われた。
川の土地との行き来を続けることに、反対する者はいなかった。
稲の種も、土器の知恵も、青銅の道具も、人々の暮らしを豊かにする可能性がある。遠い土地の者と品を取り交わすことは、すでに海辺の邑や島々との間でも行われている。
問題は、翡翠の行き先だった。
カガが言った。
「川の土地へ翡翠を渡すことはできる。だが、すべてをそこへ集めることはできない。海辺の邑にも、島々にも、緑の石を求める者がいる」
「山の石を採る者は、これまでどおり、山を知る者と一緒に行く」
ゴウザが続けた。
「崖や川岸をむやみに崩さない。必要以上に採らない。石を持ち出すときは、どの場所から採ったものかを伝える」
ミヤは、勾玉を手に取った。
「原石を渡すなら、石を加工する者がいる土地へ。形を整えた石なら、その続きを磨ける者へ。完成した勾玉なら、身につけたいと願う者へ。石の姿に合わせて、届ける先を考えたい」
アシナも言った。
「山の道を知る者を、タケルのもとへ差し出すことはできない。道を案内することはできる。だが、その道を誰が使うかは、谷の者たちも一緒に決める」
イツキは、一つ一つの言葉を聞いていた。
「タケルは、すぐには納得しないかもしれぬ」
「それでも、伝えてほしい」
ゴウザは答えた。
「稲の種を分けてくれることには感謝する。鏡もありがたく受け取ろう。土器の知恵も学びたい。だが、山を一人の者のものにすることはできぬ」
「タケルは、山を自分のものにしたいと言っているわけではない」
イツキは、少し強い口調で言った。
「道を守り、品を集め、皆が困らぬようにしたいのだ」
カガは、穏やかに返した。
「その願いはわかる。だが、よい願いから始まったことでも、いつか違うものになることがある。タケルのもとに石が集まり、石を運ぶ者が集まり、道を守る者が集まれば、やがて誰もタケルに逆らえなくなるかもしれぬ」
イツキは、黙り込んだ。
「道は、皆が歩くものだ」
ゴウザが言った。
「誰か一人のためだけにあるのではない」
長い沈黙の後、イツキは頭を下げた。
「わかった。皆の言葉を、そのまま持ち帰ろう」
七 鏡に映らぬもの
出立の日、イツキは青銅の鏡をゴウザへ差し出した。
「これはタケルからの贈り物だ。ヌナの谷との結びつきを願う気持ちは変わらない。受け取ってほしい」
ゴウザは鏡の裏に刻まれた渦の文様を見た。
「ありがたく受け取ろう。ただし、これはわし一人のものではない。皆が集まる場所に置き、必要なときに皆で見られるようにする」
「それでよい」
鏡は、邑の人々が集まる場所に大切に納められた。
稲の種は、今育てている稲と分けて保存し、春の試しの場所で少しだけ育てることになった。
土器の小片は、サナが預かり、土の練り方や乾かし方、焼くときの火の扱いを比べてみることにした。
青銅の刃物は、オトが預かり、木を削る仕事に使ってみることになった。
それぞれの贈り物は、谷の暮らしの中へ静かに迎え入れられた。
出立を前に、イツキはアシナとミヤに声をかけた。
「タケルは、お前たちが作る勾玉を見たいと言っていた。遠い土地の者たちも、ヌナの谷の緑の石を求めている」
ミヤは、腰に結んだ布袋から一つの勾玉を取り出した。
それは、淡い緑の中に白い筋が流れる、小さな雫形の勾玉だった。
「これを持っていってください。けれど、これは売るためだけに作ったものではありません」
「では、何のために?」
「石を見つけた者、運んだ者、磨いた者。皆の手がつながって、ようやくできたものだからです。遠い土地の人にも、そのことを知ってほしいのです」
イツキは、勾玉を両手で受け取った。
「タケルにも、そう伝えよう」
アシナが言った。
「川の土地の人々が、この石を大切にしてくれるなら、これからも届けたい。だが、山を荒らす者には渡せない」
「わかった」
イツキは、勾玉を布に包み、胸元へしまった。
やがて、四人の旅人は山背の道へと歩き出した。
その背中が木々の向こうへ消えるまで、アシナとミヤは見送っていた。
「これで、タケルもわたしたちの考えを知ることになるね」
ミヤが言った。
「そうだな」
「それでも、翡翠を求める気持ちは変わらないかもしれない」
「それなら、また話せばよい。石を渡すことと、山を渡すことは違うのだから」
ミヤは、アシナの言葉にうなずいた。
遠い川の土地との結びつきは、これからも続いていく。
けれども、その道がどこへ向かうのかは、まだ誰にもわからなかった。
八 山の奥に残されたもの
その日の夕方、ゴウザとアシナは、もう一度山の見回りに出かけた。
冬の終わりに見つけた足跡の正体を確かめるためだった。
雪解け水で柔らかくなった斜面を進み、岩場の近くまで来ると、ゴウザが足を止めた。
「ここだ」
地面には、複数の足跡が残っていた。
大きな足跡と、小さな足跡。少なくとも四人ほどが歩いたようだった。
近くには、枝を折った跡があり、土の上には黒い炭のかけらが落ちている。
アシナは、炭を拾い上げた。
「ここで火を使ったようだ」
「石を探した跡もある」
ゴウザは、岩の割れ目を調べた。
だが、以前の男たちのように、むやみに岩を崩した跡はなかった。
「山の約束を知っている者かもしれぬ」
アシナが言った。
「そうかもしれぬ。だが、まだ決めつけてはならない」
ゴウザは、岩の陰に目を向けた。
そこには、細い植物繊維の切れ端が落ちていた。その近くに、赤みを帯びた青銅の小さな破片が半ば埋もれている。
アシナは、それを拾い上げた。
「イツキたちのものではないのか」
「違う。あの者たちの足跡とは、通った時が違う」
「タケルの土地から来た者だろうか」
「まだわからぬ。青銅を持つ者は、タケルの土地にだけいるわけではない」
ゴウザは、破片をじっと見つめた。
「この山には、わしらの知らぬ道があるのかもしれぬ」
アシナは、山の奥を見た。
木々の向こうには、まだ雪を残した峰が連なっている。
その奥には、人の足があまり入らぬ谷も、岩の間を流れる小さな川もある。
翡翠がどこまで続いているのか、誰もすべてを知っているわけではない。
「皆を集めよう」
アシナが言った。
「山を知る者たちと、もう一度この道を調べる。知らぬ者が入ってきているなら、先に話をしなければならない」
ゴウザはうなずいた。
「そうしよう。山を守るとは、ただ人を追い払うことではない。何を求めて来たのか、なぜ来たのかを知らねばならぬ」
二人は、足跡を踏まぬよう気をつけながら、邑へ戻っていった。
その夜、白瀬の川のほとりでは、春の虫が鳴き始めていた。
ヌナの邑には、川の土地から届いた新しい稲の種があり、青銅の鏡があり、土器づくりの新しい知恵があった。
そして、山の奥には、まだ見ぬ者たちの足跡が残されている。
人々は、遠くの土地と結びつくことで、これまで知らなかった豊かさを手にするかもしれない。
しかし、豊かさを求める心が、誰かの暮らしを奪うこともある。
緑の石は、山の奥で静かに眠っていた。
その石を誰に届け、どのように分け合うのか。
それを決めるのは、石を欲しがる者の声だけではない。
山で暮らし、川を守り、石を磨き、海へ運ぶ人々の声でもあるのだった。
第二巻 第九部 了
次回予告
第十部「山の門を守る者 ― まだ見ぬ旅人と緑の石の行方」
山の奥に残された足跡と青銅の破片。その正体を探るため、ゴウザとアシナは山道を知る者たちとともに、さらに奥へと進む。
そこで見つけたのは、翡翠を採りに来た者たちの痕跡だけではなかった。山の別の谷で、長く石を磨き続けてきた人々の暮らしがあった。
彼らは、ヌナの邑とは異なる方法で翡翠を選び、加工していた。
やがて、タケルのもとへ届けられた勾玉をめぐり、川の土地にも新たな動きが起こる。
山の門を守るとは、何を守ることなのか。
アシナたちは、これまで知らなかった翡翠の道と、人々の新たなつながりに出会う。




