第八部 山道に忍び寄る者 ― 翡翠をめぐる最初の対立
一 山の静けさを破る足音
秋が深まっていた。
白峰の山々では、朝の冷え込みが強くなり、谷を流れる白瀬の川にも、澄んだ水の底に冷たさが増していた。
木々の葉は赤く染まり、風が吹くたび、黄色い葉が谷間を舞った。山葡萄は黒紫色に熟し、栗や胡桃も落ち始めている。邑の女たちは、木の実を拾い、栃の実を水にさらし、灰汁を抜くための準備をしていた。
男たちは冬に備え、薪を集め、住まいの屋根を直している。
子供たちは、川辺で魚を捕り、乾かした木の枝を集めていた。
いつもの秋だった。
だが、ゴウザだけは、山の様子にわずかな違いを感じていた。
朝早く、彼は山道の入り口に立ち、地面を見つめていた。
落ち葉の上に、見慣れぬ足跡が残っている。
一つではない。
三人、いや、それ以上。
足跡は谷の奥へ向かい、翡翠の原石が見つかる川の上流へ続いていた。
ゴウザはしゃがみ込み、土を指で触れた。
「新しい足跡だ。昨夜か、今朝早くのものだろう」
そこへ、アシナがやって来た。
「どうした、ゴウザ」
「山へ入った者がいる」
「谷の者ではないのか」
「足の運びが違う。山道をよく知る者なら、ここまで落ち葉を乱さぬ」
アシナは、足跡の先を見た。
「石を探しに来た者かもしれない」
「そうだろう。川の土地から、翡翠を欲しがる者が現れたと聞いた。海辺の黒い舟の者たちもいる」
ゴウザは立ち上がった。
「山へ入る者を追い払うだけでは足りぬ。何を求めているのか、まず確かめよう」
二人は邑へ戻り、オトとカガに知らせた。
カガは、しばらく考えた後、静かに言った。
「タケルの使いが来てから、まだ幾日も経っていない。これほど早く山へ人が入るとは思わなかった」
「タケルの者だと分かるのか」
オトが尋ねた。
「まだ分からぬ。だが、稲や青銅を持って山へ来る者がいれば、タケルの言葉を受けている可能性はある」
アシナは弓を手に取った。
「山へ行こう。石を探しているなら、どこまで入ったか確かめたい」
オトは、息子の肩に手を置いた。
「急ぐな。山では、怒りに任せて走る者が先に足を滑らせる。相手の姿を見ても、すぐに弓を引くな。まずは声をかけよ」
「分かっている」
「それでも、もう一度言っておく。山の石は大切だ。だが、人の命は石より大切だ」
アシナはうなずいた。
ゴウザ、アシナ、オト、カガ、そして若者二人が山へ向かった。
山の木々は、すでに冬の支度を始めていた。
その奥に、見知らぬ者たちの足音があった。
二 石を探す男たち
足跡は、白瀬の川の上流にある岩場へ続いていた。
そこは、山から流れ出た石が集まり、翡翠の原石が見つかる場所の一つだった。
川岸には大きな岩が並び、水に洗われた小石が光っている。ところどころに緑色の石が混じり、濡れた表面が朝の光を返していた。
その岩場で、三人の男が石を探していた。
一人は、太い木の枝で石を動かしている。
もう一人は、腰袋から石の小刀を取り出し、岩の表面を削ろうとしていた。
残る一人は、拾った石を籠へ放り込んでいた。
ゴウザは、その様子を見て眉を寄せた。
「石を見分けておらぬ」
彼らが拾っている石の中には、翡翠ではないものも混じっている。色だけを見て、片端から籠へ入れているのだ。
さらに、岩を無理に動かしたため、川岸の土が崩れかけていた。
アシナが声をかけた。
「そこで何をしている」
男たちは驚き、振り返った。
そのうちの一人が、腰の小さな刃物に手をかけた。
「誰だ」
「この山で暮らす者だ。そなたたちは、どこから来た」
「川の向こうからだ。緑の石を探している」
「誰に頼まれた」
男は、少し迷った後、答えた。
「タケル様のもとへ持っていく。稲と青銅の品を渡すと言われている」
カガが一歩前へ出た。
「タケル殿の使いなのか」
「そうだ。あの方は、緑の石を求めておられる。私たちは、石を探して集めるように言われた」
「この山の者たちに、話を通したか」
「話を通す必要があるのか。石は山にある。誰のものでもないのだろう」
ゴウザは、静かに答えた。
「山の石は、誰か一人のものではない。だが、誰もが好き勝手に掘り出してよいものでもない」
男は、鼻で笑った。
「石を拾うだけだ。何が悪い」
「石を拾うために、川岸を崩している。山の水が濁れば、下で暮らす者たちも困る」
「少し崩れたところで、どうということはない」
ゴウザの目が厳しくなった。
「この川は、谷の人々の飲み水にも、魚の住む場所にもなっている。山を傷めれば、その先で暮らす者たちまで苦しむ」
男たちは顔を見合わせた。
アシナは、彼らの籠を見た。
中には、緑色の石だけでなく、白い石や黒い石も混じっている。
「その籠の石は、すべて翡翠ではない。色だけで拾っても、勾玉にはならぬ」
「ならば、どれが翡翠なのか教えろ」
「石を見分けるには、色だけでは足りない。重さや割れ方、表面の様子を確かめる。だが、石を探す前に、この山の者たちへ話を通すべきだ」
男は不満そうに言った。
「そんなことをしていては、いつまでたっても石が集まらぬ」
カガは、男の目を見た。
「急いで集めることが、よいこととは限らぬ。山を荒らして石を集めても、その後に何も残らなければ、道は続かない」
男は返事をしなかった。
やがて、彼らは籠を抱え、山道の下へ戻っていった。
しかし、その足取りは、山から去る者のものではなかった。
アシナには、彼らが再び来るように思えた。
三 山を守る者たちの話し合い
その日の夕刻、ヌナの邑では、周辺の小さな邑からも人々を招き、話し合いが開かれた。
火の周りには、年長者、石を採る者、玉を磨く者、山の道を知る者たちが集まっていた。
ゴウザは、山で見たことを話した。
「川岸の岩を動かし、土を崩しながら石を拾っていた。石の見分けもせず、籠へ詰めていた」
一人の男が言った。
「山に石があるのなら、拾って持ち帰ることは自由ではないのか」
別の女が答えた。
「石を拾うだけならよい。けれど、川岸を崩してまで集めれば、雨が降ったときに土が流れる。魚の住む場所も変わってしまう」
「山の奥へ入る道を、知らぬ者に教えてよいのか」
「教えなければ、知らぬまま危険な場所へ入り、命を落とすかもしれない」
意見はさまざまだった。
そのとき、サエが口を開いた。
「石を欲しがる者が増えたからといって、石を磨く手が急に増えるわけではない。石を採る者、選ぶ者、形を整える者、磨く者。それぞれに時間がいる」
彼女は、掌に小さな翡翠の原石を載せた。
「この石は、見た目には緑が濃い。だが、ここに細い割れ目がある。無理に削れば、途中で割れてしまう」
サエは、原石を火の光にかざした。
「石をよく見ずに集めても、勾玉にはならぬ。山から持ち出すことだけを急げば、使えぬ石ばかりが増える」
ミヤも言った。
「原石を運ぶだけなら、重い荷を背負うことになります。加工途中の石なら、形を作る手間は少なくなりますが、最後の磨きが必要です。完成した勾玉は、すぐに身につけられます。欲しがる人が何を求めているのかを聞いて、渡すものを選ばなければなりません」
「ならば、山から出す石の量を決めればよい」
ゴウザが言った。
「採ってよい場所と、採ってはならぬ場所を分ける。川岸を崩すことはしない。石を拾う者は、山を知る者と一緒に入る。石を持ち出す前には、谷の者たちへ知らせる」
年長者たちは、互いに顔を見合わせた。
「誰が、その決まりを守らせる」
オトが答えた。
「一人に任せるのではない。山へ入る者たちが、互いに見守ればよい。決まりを破った者がいれば、皆で話す」
「遠くから来た者にも、それを守らせられるのか」
カガが言った。
「守らぬ者には、山の道を教えない。石を採る場所にも入れない。だが、話を聞き、守ると約束する者には、取り交わしの場を開けばよい」
アシナは、火の向こうに座る人々を見渡した。
「私たちは、山を閉ざしたいのではありません。山の恵みを、遠くの人々にも届けたいのです。ただ、山が傷み、谷の暮らしが壊れるような採り方はできません」
しばらく沈黙があった。
やがて、ゴウザがうなずいた。
「山の石を守ることは、山の中に閉じ込めることではない。山がこれからも石を抱き、川を流し、人々を生かせるようにすることだ」
その言葉に、人々は賛同した。
こうして、ヌナの谷と周辺の邑の間で、翡翠を採るための約束が交わされた。
山を知る者と入ること。
川岸や崖をむやみに崩さないこと。
必要以上に石を持ち出さないこと。
原石、加工途中の石、完成した勾玉を区別し、誰がどこへ運ぶのかを伝えること。
それは、誰か一人が決めた掟ではなかった。
山と川を守りながら、皆が暮らしていくために、話し合って生まれた約束だった。
四 石を磨く手、稲を育てる手
話し合いの翌日、ミヤはサエとともに、石を磨く場所へ向かった。
そこでは、何人かの若者が翡翠を削っていた。
水を張った浅い器の中で、石を少しずつ動かし、粗い砂で表面を整える。石を削るときには、力を入れすぎない。水を絶やさず、石の様子を見ながら、少しずつ形を変えていく。
削り終えたら、砂を細かなものに替える。
その作業を何度も繰り返し、表面をなめらかにしていく。
若者の一人が、ミヤへ尋ねた。
「どうして、同じ石でも、磨くと色が変わって見えるのだろう」
ミヤは、石を受け取った。
「表面の細かな傷が消えて、光が石の中へ入るようになるからよ。石の奥にある緑が、少しずつ見えてくるの」
「もっと強く削れば、早くきれいになるのではないか」
「急ぐと、石が欠けるわ。石が嫌がることをしてはいけないの」
サエが笑った。
「石は口をきかぬが、割れれば返事をする。手を急がせた者は、その音を聞くことになる」
若者たちは笑った。
その横では、アシナとナギが、川辺から運んできた稲の籾を確かめていた。
「この籾は、次に蒔く分だ。食べるものとは分けておく」
アシナが言うと、ナギは籠を二つに分けた。
「こっちは食べる分。こっちは種にする分ね」
「そうだ。種にする籾は、よく実ったものを選ぶ。湿らせないようにして、虫や鼠が入らない場所へ置く」
ナギは籾を一粒手に取った。
「小さな粒なのに、これから田を作るのね」
「川の土地では、多くの人が手をかけていた。ここでも育てるなら、皆で力を合わせなければならない」
ナギは、少し離れた湿地を見た。
「ハルたちの浜にも、稲を育てられる場所があるかもしれないと言っていたね」
「そうだ。だが、海水が入り込む場所では難しい。川の水が届く場所を探さなければならない」
「稲を育てる者も、翡翠を磨く者も、同じように手を使うのね」
「そうだな」
アシナは、妹の頭に手を置いた。
「食べ物を作る手も、石を磨く手も、舟を直す手も、どれも大切だ」
ナギはうなずいた。
谷の暮らしは、少しずつ変わり始めていた。
山の石を運ぶ道だけでなく、稲を育てるための場所も探すようになっていた。
五 再び現れた黒い舟
それから幾日かが過ぎた。
ある朝、白瀬の川の下流から、見慣れぬ男が一人、谷へやって来た。
年は三十ほど。背は高く、日に焼けた顔には深い皺が刻まれている。腰には小さな青銅の刃物を下げ、肩には獣皮の袋を担いでいた。
男は、ヌナの邑へ着くと、アシナとゴウザに会いたいと申し出た。
「私は、川の土地から来た。名はサガリという」
「何を求めて来た」
ゴウザが尋ねた。
「翡翠を求めている。タケル様から、山の谷に石があると聞いた」
アシナは、サガリの顔を見た。
「タケル殿の使いか」
「使いではない。私は、自分で物を取り交わす者だ。タケル様とも話をしたことがある」
「山へ入る前に、話し合いに来たのか」
「そうだ。石を採る者たちの決まりがあると聞いた」
ゴウザは、男を見つめた。
「その決まりを守るつもりか」
「守る。だが、石を少しでも多く手に入れたい。稲も青銅も持ってきた。必要なものがあれば渡そう」
サガリは、袋から青銅の小さな飾りを取り出した。
その表面には、渦のような文様が刻まれている。
「これは、遠い土地で作られたものだ。稲もある。塩も欲しいと聞いている。私が石を運べば、川の土地と海辺の邑との取り交わしも広がるだろう」
カガは、青銅の飾りを見た。
「確かに、よい品だ。だが、石をどれほど求めている」
「原石を多く欲しい。できれば、形を整えた石もほしい。完成した勾玉も、いくつか見せてもらいたい」
「何のために」
「遠い土地の者たちが、緑の石を欲しがっている。私は、それを運びたい」
カガは、少し考えた。
「それなら、取り交わしの場で話そう。山へ入ることは、まだ許せぬ」
サガリは、すぐに反論しなかった。
「分かった。まずは、品を並べよう」
その態度は、これまでの男たちとは違っていた。
しかし、アシナには、サガリの目の奥にある強い欲を感じた。
彼は、石を見ている。
その石がどこから来たのか、誰が磨いたのかよりも、どれほど遠くへ運べるかを考えているようだった。
六 最初の対立
翌日、サガリとの取り交わしが始まった。
彼は、稲の籠を三つ、青銅の飾りを幾つか、石の刃物を持ってきた。
カガは、それらを一つずつ確かめた。
「稲は、どのようにしてここまで運んだ」
「川の土地から、舟で運んだ。濡れぬように籠へ入れ、舟の中で覆いをかけた」
「青銅の品は、誰が作った」
「遠い土地の職人が作ったものだ。私は、それを取り交わして手に入れた」
ミヤは、青銅の飾りを手に取った。
「細かな模様がある。型の中に、この模様を刻んだのね」
「そうだ。作る者は、土の型をよく整える。型が割れれば、品も壊れてしまう」
ミヤは、翡翠の加工途中の石を並べた。
サガリは、その中から大きなものを選んだ。
「これを、すべて欲しい」
「その石は、まだ磨き上げていません。表面に細かな傷も残っています」
「それでもよい。遠い土地で磨く者に渡す」
「石の中に割れ目があるかもしれません。無理に削れば、割れてしまいます」
「割れたら、別の石を使えばよい」
その言葉に、ミヤの表情が曇った。
「石は、簡単に替えられるものではありません。山で採れる石は、一つずつ違います。割れた石にも、残った部分に美しい色があることがあります」
サガリは、肩をすくめた。
「私は、石を磨く者ではない。運ぶ者だ。石を欲しがる者のもとへ届ける。それが私の役目だ」
カガは、静かに言った。
「ならば、石を磨く者の話も聞いてほしい。山から石を採る者の話も聞いてほしい。運ぶ者だけでは、道は続かない」
サガリの顔が険しくなった。
「そなたたちは、何でも話し合い、時間をかける。だが、遠い土地では、今すぐ石を欲しがる者がいる。私が遅れれば、別の者が石を持っていく」
「急ぐ者がいるからといって、山を傷めてよいわけではない」
ゴウザが言った。
サガリは、ゴウザを見た。
「山を傷めずに石を多く採る方法はないのか」
「石が多く見つかる場所を知っている。だが、そこには崖もあり、足場の悪い場所もある。むやみに人を入れれば、落ちて命を失う」
「ならば、山を知る者を雇えばよい」
「山を知る者は、山を売るために生きているのではない」
ゴウザの声が、少し強くなった。
「山の水を飲み、木の実を採り、獣を追い、石をいただいて暮らしている。山を荒らせば、自分たちの暮らしも壊れる」
サガリは、黙った。
そのとき、取り交わしの場の外から、若者の声が上がった。
「川岸の石を持っていった者がいる!」
人々が振り返った。
若い男が、息を切らして走ってきた。
「昨日、山へ入った三人が、川の上流で石を拾っている。籠いっぱいにして、もう下りてきている!」
ゴウザの顔色が変わった。
「誰だ」
「川の土地から来た者たちだ。サガリの仲間かもしれない」
サガリは立ち上がった。
「私の仲間ではない。私は、ここで話をしている」
「では、誰が山へ入ったのだ」
アシナが尋ねた。
「知らぬ」
「ならば、確かめに行こう」
アシナは弓を手に取った。
オトがその腕をつかんだ。
「待て。まずは、山へ入った者たちを見つける。争いを始めるために行くのではない」
アシナはうなずいた。
ゴウザ、オト、アシナ、カガ、そして若者たちは、山へ向かった。
サガリも後を追った。
七 崩れた川岸
川の上流に着くと、岩場の様子が変わっていた。
大きな石が動かされ、川岸の土が削られている。
そのそばには、籠が三つ置かれていた。
中には、緑色の石がいくつも詰め込まれている。
三人の男たちは、さらに石を探していた。
「そこまでだ」
ゴウザの声が響いた。
男たちは振り返った。
「また来たのか」
その一人は、以前山へ入っていた男だった。
アシナは、崩れた川岸を見た。
「どうして、ここまで土を崩した」
「石を取り出すためだ。大きな岩の下に、緑の石があった」
「その石は、どこから出てきた」
「岩の間だ。もっと掘れば、いくらでも出てくる」
ゴウザは、足元を見た。
川岸の土は緩み、細かな砂が水へ流れ込んでいる。
「このまま雨が降れば、崩れた土が川を埋める。魚も住めなくなる」
「少し土を動かしただけだ」
男は言い返した。
「少しではない」
アシナが答えた。
「この場所は、川の水が曲がるところだ。土を崩せば、水の流れが変わるかもしれない」
男は、籠を持ち上げた。
「石はもう採った。持って帰る」
「待て」
ゴウザが前へ出た。
「その石を、どこへ運ぶつもりだ」
「タケル様のもとへだ」
「タケル殿の許しを得ているのか」
「石を集めよと言われた。だから集めた」
「この山の約束を守ると言ったのは、誰だ」
男は答えなかった。
そのとき、サガリが前へ出た。
「お前たちは、私の知らぬところで山へ入ったのか」
男たちは、サガリを見た。
「お前も石を集めているだろう。何が違う」
「私は、まず谷の者たちと話をしている。山へ入る約束も、まだしていない」
「そんなことをしていたら、石はほかの者に取られてしまう」
男は、サガリを押しのけようとした。
アシナは、すぐに間へ入った。
「争うな」
男の手が、アシナの肩に当たった。
アシナはよろめいたが、足を踏みとどめた。
男は腰の刃物を抜いた。
周囲の空気が変わった。
オトは弓を構えたが、矢はつがえなかった。
「刃をしまえ」
男は、オトをにらんだ。
「石を渡せ」
「石は渡さぬ」
ゴウザが言った。
「この山の約束を破った者に、山の石を持ち帰らせるわけにはいかぬ」
男は刃を握りしめた。
そのとき、足元の土が崩れた。
男の片足が滑り、身体が川岸へ傾いた。
「危ない!」
アシナが飛び込んだ。
男の腕をつかみ、強く引き戻す。
二人は、湿った土の上へ倒れ込んだ。
籠が転がり、緑の石がいくつも川へ落ちた。
男は息を荒くしていた。
アシナは、彼の腕を離した。
「山は、そなたを守ってはくれぬ。山の道を知らず、山の土を崩せば、命を失う」
男は、何も言わなかった。
オトは弓を下ろした。
「刃をしまえ。誰も、ここで命を失う必要はない」
男は、しばらくして刃物を腰へ戻した。
川面には、流れ出した土が茶色く広がっていた。
八 石よりも重いもの
男たちは、山から持ち出そうとした石をすべて置いていくことになった。
ただし、ゴウザは石を捨てることはしなかった。
川へ落ちたもののうち、拾えるものは拾い、割れた石は別に分けた。
「割れた石にも、まだ緑が残っている。捨てることはない」
ミヤが言った。
「小さな飾りにできるかもしれない。石の中にある色を見てから決めましょう」
男たちは、谷の邑へ連れていかれた。
その場で、サガリはゴウザたちに頭を下げた。
「私の仲間ではないが、同じ川の土地から来た者たちだ。山の約束を破ったことを詫びる」
ゴウザは、すぐには答えなかった。
「詫びるだけでは、崩れた川岸は戻らぬ。土を戻し、石を拾い、川の流れを確かめる。山へ入るなら、山を知る者とともに入る。それを守れるか」
サガリはうなずいた。
「守ろう」
「この者たちにも、約束を守らせるのか」
「私が連れて帰り、タケル様にも伝える。勝手に山へ入ることは、もうさせぬ」
アシナは、男たちを見た。
「なぜ、あれほど急いで石を集めた」
男の一人は、しばらく黙っていた。
やがて、低い声で言った。
「タケル様のもとで、稲を受け取る約束をした。石を多く持ち帰れば、私たちの家にも稲が渡される。子供たちに、腹いっぱい食べさせたかった」
その言葉に、ナギがそばで顔を上げた。
男の目には、怒りだけではないものがあった。
食べ物を得たいという願い。
家族を養いたいという願い。
その願いが、山を傷め、他人の約束を破ることにつながってしまったのだ。
ミヤは、男たちへ言った。
「稲を欲しがることは悪くありません。家族に食べさせたいと思うことも、よく分かります。けれど、山を壊して石を集めれば、山の者たちも、川の下で暮らす者たちも困ります」
男は、うつむいた。
「では、どうすればよい」
カガが答えた。
「約束を守り、石を採ることだ。石を選び、運び、磨く。山の者たちにも、運ぶ者にも、磨く者にも、それぞれの取り分があるようにする」
「それでは、稲を得るまでに時間がかかる」
「そうだ。だが、長く続く道は、急いで作るものではない」
ゴウザは、男たちを見渡した。
「山の石を持ち帰ることはできる。だが、その前に、崩した土を戻し、川岸を直すことだ。石を採ることより、まず山を元の姿に近づける」
男たちは、うなずいた。
翌朝から、彼らは谷の者たちとともに、川岸の修復を始めた。
崩れた土を運び、流された石を戻し、川の流れを確かめる。
簡単な仕事ではなかった。
けれど、山を傷めた者自身が、山を直す手を動かした。
アシナは、その姿を見ながら思った。
人は、欲しいもののために誤ることがある。
だが、誤った後に、何をするかで、その人の道は変わるのかもしれない。
九 タケルの名を背負う者
数日後、サガリは川の土地へ戻ることになった。
その前に、彼はアシナとカガを訪ねた。
「タケル様には、山の約束を伝える。だが、あの方がどう受け止めるかは分からぬ」
カガは答えた。
「タケル殿にも、山の者たちの考えを知ってもらいたい」
「私は、あの方が石を求める理由を知っている。稲を蓄え、遠い土地と取り交わし、川の周りの邑をまとめようとしている。青銅の品も、翡翠も、そのために必要なのだろう」
「人々を守るために力を持つのか。力を持つために人々を集めるのか」
アシナが尋ねた。
サガリは、すぐには答えなかった。
「その二つは、あの方の中で、まだ分かれていないのかもしれぬ」
彼は、川の向こうを見た。
「タケル様は、幼いころ、稲が足りずに苦しんだ年があったと聞いている。人々が食べ物を求めて、遠い土地へ移っていくのを見たそうだ。だから、稲を蓄え、人を集め、誰も飢えぬ土地を作りたいと思ったのだろう」
「それなら、なぜ石を独り占めしようとする」
ミヤが尋ねた。
「石があれば、遠い土地の者と取り交わせる。青銅の品も手に入る。人々を守る力も増える。そう考えているのだと思う」
カガは、静かに言った。
「人を守ろうとする願いが、いつか人を縛るものにならぬとよいが」
サガリは、深くうなずいた。
「その言葉も、タケル様に伝えよう」
彼は、山へ入った男たちを連れて、川の土地へ戻っていった。
その背中を見送りながら、アシナは、タケルの胸に下げられた勾玉を思い出した。
あの緑の石は、今もタケルの胸で揺れているだろう。
山の谷から遠く離れた場所で、何を映しているのだろうか。
十 冬を迎える谷
冬が近づいていた。
ヌナの邑では、住まいの屋根に草を重ね、風が入り込む隙間をふさいでいた。
薪は乾いたものと湿ったものに分け、火を絶やさないように積み上げる。
栃の実は灰汁を抜き、粉にして土器で煮る。栗や胡桃は乾かして保存し、山葡萄の実は干して、少しずつ食べられるようにした。
獣の肉は、塩を使って水分を抜き、風に当てて乾燥させる。魚も、よく水を切り、塩をすり込んでから干した。
塩は、海辺の邑から届いたものだった。
川の土地から来た稲は、次に蒔く分を別の籠へ移し、湿気の少ない場所に大切に置かれた。
サナは、籾の籠を見ながら言った。
「この稲は、来る春に蒔くものだね。どこに植えるか、冬の間に皆で考えよう」
ナギはうなずいた。
「海辺のハルたちも、湿地を調べているのでしょう」
「そうだろうね。土地によって、水の具合も土の色も違う。稲が育つ場所を見つけるには、何度も確かめなければならない」
一方、ミヤはサエとともに、山から採った翡翠を整理していた。
原石は、色や割れ目を見て分ける。
加工途中の石は、形を確かめ、どこまで削れるかを見定める。
完成した勾玉は、紐に通し、身につけたときに石が肌へ当たりすぎないよう、穴の周りをなめらかに整える。
サエは、一つの勾玉を手に取り、ミヤに渡した。
「この石は、よい色をしている。だが、ここに白い筋がある。隠さずに、そのまま残すとよい」
「この筋も、石の美しさなのね」
「そうだ。石は、人が思うような形ばかりではない。石の中にあるものを見つけ、それを生かすのが、磨く者の仕事だ」
ミヤは、勾玉を光にかざした。
緑の奥に、白い流れが見える。
それは、白瀬の川の流れにも似ていた。
十一 山に残る足跡
冬の初め、ゴウザとアシナは、山の採取場を見回りに出かけた。
川岸は、あのとき崩れた場所も、少しずつ元の姿を取り戻していた。
石を採る場所には、目印となる木の枝が立てられ、崖の近くには入らぬよう、縄が張られている。
「この場所は、しばらく石を採らぬほうがよい」
ゴウザが言った。
「土が落ち着くまで待つのだな」
「そうだ。山は、急かしてはならぬ」
アシナは、川の流れを見た。
水は澄み、底の小石が見えている。
そのとき、ゴウザが足を止めた。
「また足跡がある」
アシナは地面を見た。
今度の足跡は、以前のものとは違っていた。
数は少ない。
だが、山道を歩き慣れた者の足取りだった。
足跡は、採取場を避けるように進み、さらに山の奥へ向かっている。
「誰かが、別の道を探している」
アシナは言った。
「石のある場所を、こちらに知られぬように探しているのかもしれぬ」
ゴウザは、しばらく足跡を見つめた。
「タケルの者か。黒い舟の者か。それとも、別の土地の者か」
「分からない」
「だが、山の奥へ入る者が増えているのは確かだ」
二人は、足跡を追わなかった。
山の奥は広い。
見知らぬ者が、どこまで入ったのか分からない。
無理に追えば、こちらも危険な場所へ踏み込むことになる。
「邑へ戻ろう」
ゴウザが言った。
「山の道を知る者たちを集め、奥の様子を確かめる。誰かが道に迷っているなら助けねばならぬ。石を探しているのなら、話をしなければならぬ」
アシナはうなずいた。
山の風が吹き、木々の枝を揺らした。
雪の匂いが、遠くから近づいていた。
十二 緑の石が見つめる先
その夜、ヌナの邑では、冬を迎える小さな祭りが行われた。
火の周りには、保存していた木の実や魚、肉が並べられた。
人々は、海辺の邑から届いた塩を少しずつ料理に使い、川の土地から来た稲も、皆で分けて味わった。
ナギは、稲を口に運びながら笑った。
「遠い川の土地の味が、ここにあるね」
サナも微笑んだ。
「山の実りも、海の恵みも、川の稲も、こうして一つの火を囲んで食べられる。ありがたいことだね」
アシナは、火の向こうに座るミヤを見た。
彼女の首には、翡翠の小さな勾玉と、島のサヤから贈られた白い貝が並んでいる。
山と海。
緑と白。
それぞれの土地から届いたものが、彼女の胸元で静かに揺れていた。
「ミヤ」
「何?」
「いつか、この谷にも、川の土地や島々から多くの者が訪れるようになるのだろうか」
「そうなるかもしれないわ」
「そのとき、皆が山の約束を守ってくれるだろうか」
ミヤは、少し考えた。
「守る人もいれば、守らない人もいるでしょう。でも、約束を伝え続けることはできるわ」
「伝え続ける……」
「山を大切にすること。石を採る人の手を大切にすること。石を磨く人の心を大切にすること。そして、遠い土地の人々の暮らしも思いやること」
アシナは、うなずいた。
火の粉が夜空へ舞い上がった。
その向こうには、星が瞬いている。
人々は、冬の長い夜を越えるために、火を囲み、語り、食べ物を分け合う。
山の奥では、翡翠が静かに眠っている。
川の土地では、タケルが次の取り交わしを考えている。
海辺では、黒い舟の男たちが、再び山へ向かう道を探しているかもしれない。
そして、まだ誰も知らぬ遠い土地にも、緑の石を求める者がいる。
翡翠をめぐる争いは、まだ始まったばかりだった。
けれど、ヌナの谷の人々は、山を守るための約束を結んだ。
それは、石よりも目立たず、青銅よりも輝かない。
しかし、長い年月を越えて人々を結ぶものになるかもしれなかった。
山の恵みを、皆で分け合う。
その言葉を胸に、アシナは燃える火を見つめていた。
第二巻 第八部 了
次回予告
第九部「緑玉を求める使者 ― 川の王から届いた申し出」
冬が明け、白瀬の川に春の雪解け水が流れ始めるころ、タケルの使者が再びヌナの谷を訪れる。
今度は、ただ翡翠を求めるだけではなかった。
稲の種、青銅の鏡、土器づくりの新しい知恵、そして川の土地との結びつきを申し出る。
一見すれば、谷の暮らしを豊かにする申し出だった。
しかし、その言葉の奥には、タケルが山の石を自らの力の一部にしようとする願いが隠されていた。
アシナとミヤは、山の恵みを守りながら、遠い土地との結びつきをどのように育てていくのか。
稲の道、塩の道、緑の道が交わるところで、新たな選択が迫られる。




