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翡翠王国 ― 緑玉に魅入られた者たち  作者: さざ波和音


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第七部 稲の道、塩の道 ― 結ばれる邑、揺らぐ約束

 一 帰り舟に積まれた稲


 川の土地を離れた舟は、幾つもの島影を越え、海辺の邑へと向かっていた。


 舟には、タケルから受け取った稲の籠が積まれていた。籠の口は植物の繊維でしっかりと結ばれ、波しぶきがかからぬよう、獣皮と編み布で覆われている。そのほかにも、小さな青銅の飾り、土器に使われる粘土の見本、川で採れた貝などが積まれていた。


 マヒロは、風を頬に受けながら櫂を動かしていた。


「この稲を見たら、海辺の者たちは驚くだろうな」


「谷の者たちも驚くでしょう」


 ミヤが答えた。


「稲を育てる者たちは、種を蒔き、苗を植え、水を引き、草を取り、実った穂を刈る。あの広い田を見ていると、人の手が大地に刻まれていくようだったわ」


 アシナは、籠の一つを見た。


「この籠の中に、次の季節の命が入っているのだな」


「食べるための稲だけではないものね」


「そうだ。食べる分を残し、蒔く分を残し、また次の年へつなぐ」


 トヨが櫂を休め、海を見渡した。


「海の魚も同じだ。今、捕れるからといって、何もかも捕ってしまえば、次の季節には魚がいなくなる。海にも山にも、残しておかねばならぬものがある」


 カガは、舟の荷を確かめながら言った。


「川の稲、海の塩、山の翡翠。これらを互いに取り交わせば、今までより多くの者が助かるだろう」


「けれど、タケル殿の言葉が気になる」


 アシナは、川の土地で聞いた話を思い返していた。


 稲を蓄え、人を集め、青銅を身につけ、遠くの土地にまで名を知らしめようとするタケル。


 その胸には、ミヤが磨いた勾玉が揺れている。


「石をもっと集めたいと言っていた。あの人は、山の谷を忘れないだろう」


 カガはうなずいた。


「タケル殿だけではない。緑の石を欲しがる者は、これから増える。石が遠くへ運ばれるようになれば、石を手に入れたい者だけでなく、石を運ぶ道を押さえたい者も現れる」


「道を押さえる?」


「山から海へ下る道、川を渡る道、舟を出す浜。そこを通る者に、何かを差し出せと求める者が出るかもしれぬ」


 ミヤは、胸元の貝飾りに触れた。


「私たちが磨いた石が、人々を結ぶのではなく、争わせることになるのかしら」


 アシナは答えなかった。


 海は穏やかだった。


 だが、彼らの胸の中には、まだ見ぬ波が立ち始めていた。

 二 白い浜に戻った者たち

 数日後、舟は海辺の邑へ戻った。


 浜では、塩を作る者たちが、海水を含んだ砂を集めていた。ハルは、日差しの下で砂を広げ、風に当てながら水分を飛ばしている。


 舟が近づくと、浜にいた子供たちが声を上げた。


「マヒロの舟だ!」


「アシナたちが帰ってきた!」


 トヨの姿を見つけた漁師たちも、手を振って迎えた。


 舟が砂浜へ引き上げられると、ハルが真っ先にやって来た。


「よく戻ったね。島で嵐に遭ったと聞いて、心配していたよ」


「島の人たちが助けてくれた。舟も直してもらった」


 マヒロはそう答え、ナツやサヤのことを話した。


 ハルは、ミヤの胸元にある白い貝飾りを見つけた。


「あら、見たことのない貝だね」


「島のサヤがくれたの。波に長く磨かれた貝だそうよ」


「遠い島の波が、この浜まで来たようだね」


 ハルは笑った。


 そのとき、アシナが稲の籠を下ろした。


「川の土地から、稲を持ち帰った」


 ハルは籠の覆いを外し、中をのぞき込んだ。


 籾の一粒一粒が、淡い黄金色を帯びている。


「これが、あの川の土地で育つ稲かい」


「そうだ。タケルという有力者から分けてもらった」


「食べられるのかい」


「籾を外し、食べられるようにする。けれど、全部を食べてしまってはいけない。次に蒔く分を残さなければならない」


 アシナは、川の土地で見たことを話した。


 稲を乾かす場所。


 籾を蓄える高床の建物。


 水を引くための溝。


 田に入って苗を植える人々。


 そして、稲を守るために弓を持って立つ者たち。


 ハルは、しばらく籠の中を見つめていた。


「海辺では、魚を捕り、貝を拾い、塩を作る。山では獣を追い、木の実を集める。川の土地では、稲を育てる。どの土地にも、その土地の働きがあるんだね」


「そうです」


 ミヤが答えた。


「その恵みを取り交わせば、遠くの人たちとも暮らしを支え合えると思います」


 ハルは、稲を一粒、掌に載せた。


「この小さな粒が、遠い土地の人々をここまで結んでくれたのか」


「そうです。けれど、稲は育てる場所が必要です。海辺の砂地では、あの川の土地のようには育たないでしょう」


「それでも、育てられる場所があるかもしれない。川の水が届くところならね」


 ハルは、浜の向こうに広がる低い湿地を眺めた。


 海辺の邑にも、季節によって水がたまる場所がある。


 その土地を使えば、稲を育てることができるのだろうか。


 まだ誰にも分からなかった。


 三 塩と稲の取り交わし


 翌日、海辺の邑では、久しぶりに大きな取り交わしの場が開かれた。


 浜の近くに敷物が広げられ、各地から持ち寄られた品々が並べられた。


 ハルたちは、塩を作るための土器や、乾燥させた塩の塊を並べた。トヨたちは、干した魚や貝、骨で作った釣り針を持ち寄った。


 マヒロは、島から運んできた貝飾りや、丈夫な植物繊維の縄を並べた。


 アシナとミヤは、翡翠を三種類に分けて置いた。


 まだ山の形を残す原石。


 切り分けられ、勾玉の形に削り始めた加工途中の石。


 そして、穴を開け、細かな砂で磨き上げた完成した勾玉。


 カガは、それぞれの品を指しながら説明した。


「この石は、山から採ってきたままのものだ。中に割れ目があるかどうか、色がどこまで続いているかは、磨いてみなければ分からぬこともある」


 次に、加工途中の石を手に取った。


「こちらは、すでに形を整え始めている。磨き上げる者がいれば、勾玉に仕上げられる」


 最後に完成品を示した。


「これは、身につけられるように仕上げたものだ。穴も開いている。すぐに紐を通せる」


 見に来た人々は、それぞれの石を手に取り、光にかざした。


 一人の男が、原石を手にした。


「この石を、わしの邑で磨くことはできるだろうか」


 ミヤが答えた。


「石を削る道具と、粗い砂、細かな砂があればできます。けれど、最初は小さな石で試したほうがよいでしょう。翡翠は硬い石です。急いで削ろうとすると、石が欠けてしまいます」


「教えてもらえるか」


「喜んで。石を傷めずに磨く方法を、一緒に考えましょう」


 別の女は、完成した勾玉を手に取った。


「これは、娘に渡したい。遠い土地の緑を、いつも身につけさせてやりたい」


「娘さんは、いくつですか」


「この春、十五になったよ」


「それなら、この小さなものがよいかもしれません。重すぎず、紐に通しても揺れやすい形です」


 ミヤは、いくつかの勾玉を並べて見せた。


 女は、白い筋が細く走る一つを選んだ。


 その代わりに、海辺の邑からは、塩と干し魚が渡された。


 塩は、ただ白い粒を集めればできるものではない。


 ハルたちは、潮が引いた後に塩分を含んだ砂を集め、海水を注いで塩分を溶かし出し、濃い塩水を作る。その水を土器へ移し、火にかけて煮詰めていく。


 薪を使いすぎないよう、火の強さを見ながら少しずつ水分を飛ばす。


 土器の底に塩が現れるまでには、何度も火を見守らなければならない。


 その塩を使って、魚を洗い、塩をすり込み、余分な水を切り、風通しのよい場所で乾かす。


 そうしてできた干し魚は、山の向こうや川の土地へ運ばれていく。


 今度は、川の土地から稲が届く。


 塩と稲。


 海と川。


 それぞれの土地で育まれた恵みが、人々の手から手へ渡っていった。


 取り交わしの場には、笑い声が満ちていた。


「この塩は、魚に使うとよい」


「こちらの稲は、次に蒔く分を混ぜぬようにしてくれ」


「貝の飾りは、子供の首に下げてもよいな」


「翡翠の小さな玉を、母と娘で一つずつ持とう」


 人々は、品物だけでなく、作り方や使い方、季節の知恵も伝え合った。


 その光景を見ながら、アシナは思った。


 物を渡すとは、相手の暮らしに手を添えることなのかもしれない。


 四 稲を蒔く場所


 取り交わしの場が終わった後、海辺の邑の年長者たちが、ハルのもとへ集まった。


 彼らは、海辺の近くにある湿地をどう使うか、話し合っていた。


 そこは、雨が多い季節になると水がたまり、乾く季節には草が生い茂る場所だった。


「川の土地のように、ここでも稲を育てられぬだろうか」


 一人の男が言った。


 ハルは、アシナたちの持ち帰った籾を見た。


「稲は、水があれば育つと聞いた。けれど、ただ水がたまればよいというものではないのだろう」


 アシナは、川の土地で見た田を思い出した。


「水の深さを整え、苗を植える場所を作っていました。水が多すぎても、少なすぎてもいけないようです」


「海の水が入るところでは、稲は育たぬか」


「塩の多い水では難しいでしょう。川の水が入る場所を探さなければなりません」


 トヨが言った。


「浜から少し離れれば、小さな川が流れている。雨の後には水が増える。あのあたりなら、海水が入りにくいかもしれぬ」


 年長者たちは顔を見合わせた。


「一度、見に行こう」


 翌朝、アシナ、ミヤ、ハル、トヨ、そして海辺の邑の若者たちは、湿地へ向かった。


 そこには、葦が生い茂り、ぬかるんだ土が広がっていた。


 小さな川は、ゆるやかに流れている。


 ハルは、土を手に取った。


「この土は、海辺の砂とは違う。指で握ると、しばらく形が残る」


 アシナも土を確かめた。


「谷の川辺の土に似ている。水を含んでいるが、砂のようにすぐ崩れない」


 トヨは、川の流れを見た。


「水を少し引き込めば、この場所へも届くかもしれない」


 若者たちは、木の枝で地面に線を引いた。


 どこから水を引き、どこへ流すか。


 どの場所を低くし、どの場所に水を残すか。


 まだ、田を作る方法を十分に知っている者はいない。


 それでも、川の土地で見た人々の姿を思い浮かべながら、少しずつ考え始めた。


 ミヤは、湿地の端に立ち、葦の葉を撫でた。


「ここで稲が育ったら、海の人たちも、塩だけでなく稲を作れるようになるかもしれないわね」


 ハルは、遠くの海を見た。


「そうなれば、魚が少ない季節にも、食べるものを増やせる」


「けれど、魚を捕る者が田を作り始めたら、舟を出す者が減るかもしれない」


 トヨが言った。


「どちらか一つに決めることはない。魚を捕る者は魚を捕り、稲を育てたい者は田を作ればよい。季節によって、手を貸し合うこともできる」


 アシナはうなずいた。


 山でも、狩りに出る者と木の実を拾う者がいる。


 それぞれの得意なことを生かしながら、足りないときには手を貸す。


 新しい稲作も、海辺の暮らしに合わせて育てていけばよいのだ。


 五 黒い舟の知らせ


 その日の夕方、浜に一艘の舟が現れた。


 黒い舟だった。


 船縁は低く、舳先には何も飾られていない。舟を漕ぐ者たちは、浜にいる人々を見ながら、ゆっくりと岸へ近づいてきた。


 マヒロは、その舟を見た途端、顔を強張らせた。


「……あの舟だ」


 アシナも目を凝らした。


 第五部の嵐の夜、島の北浜に現れた三人組。


 そのとき、首に青銅の飾りをつけた男が、翡翠を見せろと言った。


 舟が砂浜へ着くと、三人の男が降りてきた。


 先頭の男は、以前と同じように首に青銅の飾りをつけていた。


「また会ったな、海を渡る者よ」


 マヒロは答えなかった。


 男は、浜に並べられた交易品を見渡した。


「ここには、塩も稲もあるのか」


 カガが前へ出た。


「ある。だが、何を求めて来た」


「緑の石だ。川の土地で、タケルが緑の石を手に入れたと聞いた」


 その言葉に、アシナの表情が変わった。


「誰から聞いた」


「川の土地へ出入りする者からだ。タケルは、緑の石を胸に下げているという。ならば、あの山には、もっと多くの石があるのだろう」


「山には石がある。だが、すべてを持ち出すことはできない」


 アシナは、はっきりと言った。


 男は笑った。


「山に石があるのなら、採ればよい。欲しがる者がいるのなら、集めればよい。石を磨く者も、運ぶ者も、こちらで用意できる」


「石を採る者たちの暮らしは、どうする」


「食べ物を渡せばよい。稲も塩も、こちらで用意できる」


「山の者たちは、食べ物と引き換えに、山を渡すようなことはしない」


 カガが言った。


 男は、カガを見た。


「そなたは、いつも道を塞ぐな」


「塞いでいるのではない。人の道を一人のものにしないようにしている」


 男の顔から笑みが消えた。


「では、タケルはどうだ。あの者は、緑の石を欲しがっている。タケルに渡せば、こちらにも道が開けるかもしれぬ」


「タケル殿と、そなたたちがどのような話をしているかは知らぬ」


 アシナは言った。


「だが、山の石を誰に渡すかは、山で暮らす者たちが決める」


 男は、しばらくアシナを見つめた。


 やがて、肩をすくめた。


「ならば、また来よう。石を欲しがる者は、私たちだけではない」


 男たちは舟へ戻った。


 舟は、浜を離れ、夕暮れの海へ消えていった。


 浜に残された人々は、しばらく黙っていた。


 ハルが、アシナへ近づいた。


「川の土地のタケルと、あの男たちは、つながっているのだろうか」


「まだ分からない」


 カガは、海の向こうを見つめた。


「だが、緑の石の話が、思ったより早く広がっている。タケルの胸に勾玉があることも、すでに知られている」


 ミヤは、胸元の貝飾りを握った。


「私たちが石を届けたことで、誰かが山を探しに来るのね」


「そうかもしれぬ」


 アシナは答えた。


「だが、石を磨くことをやめるわけにはいかない。山の恵みを、遠い人たちにも届けたいという願いは変わらない」


「それなら、山の者たちにも知らせなければならないね」


 カガが言った。


「誰が山へ入ろうとしているのか。どの道を通ろうとしているのか。早く伝えよう」


 六 タケルの使い


 黒い舟が去ってから、三日後のことだった。


 川の土地から、一人の使いが海辺の邑へやって来た。


 若い男で、腰には青銅の小さな飾りを下げている。彼はタケルの名を告げ、カガとアシナに会いたいと申し出た。


 男は、タケルからの言葉を伝えた。


「タケル様は、緑の石をさらに求めておられる。次の季節までに、原石と加工途中の石を多く集めてほしいとのことだ」


 カガは、静かに尋ねた。


「その代わりに、何を渡す」


「稲を渡す。青銅の飾りも用意する。必要なら、川の土地で作られた土器も渡そう」


「どれほどの石を求めている」


 使いは、指を折って数を示した。


 それは、これまでの取り交わしで運ばれた量よりも、はるかに多かった。


 アシナは眉を寄せた。


「それほどの石を、短い時のうちに集めることはできない」


「タケル様は、山の谷に石が多くあると聞いておられる」


「石が多くあることと、すぐに採れることは違う」


「山へ入る者を増やせばよい」


「山は、誰でも好きなように掘ってよい場所ではない」


 アシナの声は静かだったが、強かった。


 使いは、少し困った顔をした。


「私は、タケル様の言葉を伝えに来ただけだ」


「それは分かっている」


 アシナは答えた。


「タケル殿へ伝えてほしい。石を渡すことはできる。だが、山を傷めるほど採ることはできない。採れる石を選び、磨く者の手に渡し、必要とする者へ少しずつ届ける。それが私たちのやり方だ」


 使いはうなずいた。


「伝えよう」


 しかし、その顔には迷いがあった。


「タケル様は、遠い土地の者たちと取り交わすために、緑の石を必要としておられる。石が少なければ、別の土地へ求めに行くことも考えておられる」


 その言葉に、カガは目を細めた。


「別の土地とは、どこだ」


「それは、私には分からぬ」


 使いはそれ以上語らず、川の土地へ戻っていった。


 彼が去った後、アシナたちは浜辺に集まった。


「タケル殿は、石を急いで集めようとしている」


 ミヤが言った。


「川の土地で見た稲の蓄えや青銅の品を、さらに遠くへ広げたいのだろう」


 カガは、砂浜に枝で線を引いた。


「川から海へ出る道。海から島へ渡る道。島から山の谷へ向かう道。タケル殿は、その道を自分の手の届くところに置きたいのかもしれぬ」


「だが、道は人が歩くものだ」


 トヨが言った。


「誰かが道を閉じれば、魚も塩も稲も届かなくなる」


 ハルは、浜の向こうを見た。


「道を閉じないために、私たちができることは何だろう」


 カガは、しばらく考えた。


「まず、山の谷へ戻って話す。翡翠を採る者たちと、石を磨く者たちが、同じ心でいられるようにしなければならない」


 ミヤはうなずいた。


「石を求める者が増えるほど、磨く者の手も必要になる。原石をただ集めても、勾玉にはならないもの」


「そうだ」


 アシナは、白い波を見つめた。


「石を欲しがる者のために、山の暮らしを壊してはならない」


 七 浜に残る約束


 その夜、海辺の邑では、火を囲んで人々が話し合った。


 塩を作るハル、舟を操るトヨ、交易を担うカガ、そしてマヒロ。


 アシナとミヤも、その輪に加わっていた。


 話し合いの中心は、これからの交易についてだった。


 カガは、砂の上に三本の線を描いた。


「一つは、山から海へ下る道。二つ目は、海から島々へ渡る道。三つ目は、川の土地へ向かう道だ」


「それぞれの道で、取り交わす品を決めるのか」


 トヨが尋ねた。


「決めるのではない。道を通る者が、その土地の人々と話し合う。誰か一人が、すべてを決めることはしない」


 ハルが言った。


「塩を作る者が、稲を欲しがることもある。稲を育てる者が、塩を欲しがることもある。魚を捕る者が、翡翠を身につけたいと思うこともある」


「だから、互いに会う場所が必要だ」


 マヒロが続けた。


「海辺の浜を、これまで以上に人々が集まる場所にしよう。島の者も、川の者も、山の者も、ここで顔を合わせられるように」


 アシナは、火を見つめた。


「それなら、誰かが石を独り占めしようとしても、ほかの者たちが気づくことができる」


 カガはうなずいた。


「ただし、取り交わしの場を作るだけでは足りない。誰がどこから来て、何を持ち帰ったか、皆が知っておくことも大切だ」


「それは、どうすればよい」


 ミヤが尋ねた。


「人の口で伝える。品物を渡したときには、その場にいた者が覚えておく。山から石を運ぶときには、誰が採ったのか、誰が磨いたのかを伝える」


「石に、作った者の名を残すことはできないかしら」


 ミヤは、手元の小さな勾玉を見た。


「印をつけるのか」


 アシナが尋ねた。


「そう。石の裏側に、小さな刻みを入れるの。けれど、石を傷めるかもしれないから、よく考えなければならないわ」


 カガは笑った。


「石に印を残さずとも、作った者のことを語り継げばよい。だが、そなたの考えも面白い」


 火の周りに、穏やかな笑いが広がった。


 そのとき、ハルが言った。


「私は、海辺の邑の若者たちに、塩の作り方を教えよう。私一人が作るのではなく、何人もの手で作れるようにしたい」


 トヨも続いた。


「舟の修理も教える。島へ渡る者が増えれば、舟を直せる者も増やさねばならぬ」


 マヒロは、櫂を手に取った。


「私は、潮の読み方を教える。海を渡ることは、勇気だけではできない。風を知り、波を知り、帰る道を忘れないことだ」


 ミヤは、翡翠の小さな原石を掌に載せた。


「私は、石を磨く方法を教えます。石を割らず、無理に形を変えず、石の色を見つける方法を」


 アシナは、皆を見回した。


「私は、山の道を案内します。石のある場所だけでなく、水のある場所、休める場所、足を滑らせやすい場所も伝えます」


 その夜、海辺の邑の人々は、それぞれが知っていることを分け合う約束をした。


 それは、誰かが命じたことではない。


 自分たちの暮らしを守り、遠い人々とも結ばれるために、皆が自ら選んだ約束だった。


 八 揺らぐ約束


 翌朝、アシナたちはヌナの谷へ戻る支度を始めた。


 稲の籠は、いくつかに分けて荷に積まれた。海辺の邑からは、塩と干し魚、貝飾りが贈られた。


 ミヤは、サヤからもらった貝を胸に下げたまま、海を見つめていた。


「また、島へ行けるかしら」


「行けるさ」


 アシナが答えた。


「そのときは、谷の木の実や石を持っていこう」


「サヤに、山の話をしてあげたいわ」


「きっと喜ぶだろう」


 舟が浜を離れる前、ハルがやって来た。


「アシナ、ミヤ。これを持っていっておくれ」


 ハルは、小さな土器を差し出した。


 中には、乾燥させた塩が入っていた。


「これは、今度作った塩だ。前よりも細かく、土の混じりも少なくなった。谷の者たちに味わってもらいたい」


 ミヤは土器を受け取った。


「ありがとう。母のサナにも見せるわ。きっと喜ぶと思う」


「それから、稲の籠は、湿らせないように気をつけて。食べる分と、蒔く分を分けるのを忘れないでおくれ」


「はい」


 舟は、浜を離れた。


 海辺の邑の人々が手を振る。


 その姿が小さくなるまで、ミヤは振り返っていた。


 アシナは、海の向こうを見つめながら、心の中でつぶやいた。


 人々が互いに助け合うことは、難しいことではない。


 ただ、欲しいものが増え、持つものが増え、力を持つ者が現れたとき、その心を守り続けることは難しい。


 タケルは、緑の石を求めている。


 黒い舟の男たちも、緑の石を求めている。


 そして、遠い土地には、まだ名も知らぬ者たちがいる。


 彼らもまた、翡翠を求めるのだろうか。


 そのとき、アシナの腰袋の中で、小さな石が触れ合った。


 山から持ち出した、まだ磨かれていない翡翠の原石だった。


 それは、どこかの誰かの手に渡る日を待っている。


 だが、その日が来るまでに、山の暮らしが変わってしまうかもしれない。


 ミヤは、アシナの横に座った。


「ねえ、アシナ」


「何だ」


「緑の石は、山にあるときが一番幸せなのかしら。それとも、誰かの胸に下げられたときかしら」


 アシナは、少し考えた。


「山にあるときも、誰かの胸にあるときも、石は石だ。けれど、石を手にした人が、山のことを忘れなければ、それでよいのではないか」


 ミヤは、微笑んだ。


「そうね。山のことも、石を磨いた人のことも、忘れないでいてほしいわ」


 舟は、ゆっくりと西へ進んでいった。


 遠くには、山々の影が見え始めている。


 その山の中には、翡翠が眠っている。


 そして、その石をめぐる人々の願いが、少しずつ、山へ近づいていた。


 九 谷へ届いた知らせ


 ヌナの谷へ戻ったのは、夕暮れのころだった。


 白瀬の川は、秋の水をたたえて静かに流れていた。谷の木々は少しずつ色づき、山の斜面には赤や黄の葉が混じり始めている。


 邑の人々は、アシナたちの帰りを待っていた。


 ナギは、舟から下ろされた稲の籠を見つけると、すぐに駆け寄った。


「これが、川の土地の稲なの?」


「ああ。大切な種も入っている。濡らさないようにしてくれ」


 アシナが答えると、ナギは両手で籠を抱えた。


「こんな小さな粒から、あの広い田ができるのね」


「そうだ。だが、育てるには水と土を選ばなければならない」


 サナもやって来て、籠の中をのぞいた。


「遠い土地の実りを、こうして谷へ持ち帰れるとはね」


 オトは、青銅の小さな飾りを手に取り、光にかざした。


「石とは違う輝きだ。火の中で生まれたものなのだな」


 アシナは、川の土地で見たことを話した。


 稲を育てる人々の暮らし。


 高床の建物。


 青銅の鏡。


 タケルのこと。


 そして、翡翠をもっと集めたいという申し出についても、隠さずに伝えた。


 ゴウザは、話を聞き終えると、しばらく黙っていた。


「山の石を、多く欲しがる者が現れたか」


「はい」


 アシナが答えた。


「タケルという人は、稲や青銅の品を渡す代わりに、原石や加工途中の石を集めたいと言っています」


 ゴウザは、白峰の山を見上げた。


「石は、山の中に眠っている。だが、眠っているからといって、すべてを起こしてよいわけではない」


 ミヤがうなずいた。


「石をたくさん採れば、磨く者の手も足りなくなります。石の中に割れ目があるかどうか、色がどこまで続いているかを見なければ、良い勾玉にはなりません」


 サエも口を開いた。


「石を急がせれば、石は割れる。人の手も疲れ、道具も傷む。山から石を運ぶ者も、危険な道を何度も歩かねばならぬ」


 オトは、アシナを見た。


「それで、お前はどうする」


 アシナは答えた。


「山を守りながら、採れる分を採る。磨く者の手を大切にして、必要とする者へ届ける。誰か一人に、山の石を渡しきることはしない」


 ゴウザは、ゆっくりとうなずいた。


「それでよい」


 彼は、谷の人々を見回した。


「これから、山へ入る者が増えるかもしれぬ。遠い土地から、石を求めて来る者もあるだろう。だが、山の道を知らぬ者が、勝手に奥へ入れば、命を落とすこともある。石を採る場所、採ってよい量、山で休む場所を、皆で決めよう」


 その言葉に、人々はうなずいた。


 ヌナの邑の者たちだけでなく、谷の周辺に暮らす別の邑の者たちにも知らせることになった。


 翡翠は、ヌナの邑だけのものではない。


 山の恵みを分け合ってきた者たちが、共に守らねばならない。


 その夜、サナは川の土地から持ち帰った稲を少しだけ煮てみた。


 籾を外し、火を弱めながら、土器の中でゆっくりと炊いていく。


 やがて、湯気とともに、柔らかな香りが立ち上った。


 人々は、小さな器に分けられた稲を口にした。


「山の木の実とは違う甘さだ」


 オトが言った。


 ナギは、目を丸くした。


「これが田でたくさん実ったら、どんなにうれしいでしょう」


 サナは、残った籾を大切に布へ包んだ。


「これは、食べる分ではないね。次に蒔くために残しておこう」


 人々は、うなずいた。


 谷の夜には、いつものように川の音が響いていた。


 だが、今夜のヌナの邑には、遠い川の土地から届いた新しい実りの香りが漂っていた。


 そして、山の向こうからは、まだ見ぬ者たちの足音が、少しずつ近づいているようだった。


 第二巻 第七部 了


 次回予告

 第八部「山道に忍び寄る者 ― 翡翠をめぐる最初の対立」


 タケルの求めに応じる者たちが、越の山辺へ向かい始める。


 彼らは稲や青銅の品を携え、山の石を多く手に入れようとする。だが、山の道を知らぬ者たちは、谷の人々が守ってきた採取場へ踏み込もうとする。


 一方、ヌナの谷では、稲を育てる場所を探す者たちと、翡翠を守ろうとする者たちの間で、新しい話し合いが始まる。


 山の恵みを分け合う約束は、守られるのか。


 緑の石をめぐる争いが、いよいよ人々の暮らしのすぐそばまで迫ってくる。


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