第五部 海鳴りの夜 ― 舟を襲う黒い波
秋の風が、海辺の邑に吹き始めていた。
山では木々の葉が少しずつ色づき、谷を流れる白瀬の川には、冷たい水が満ちている。海辺では、夏のあいだに育った魚が群れをなし、浜には大きな貝が姿を見せるようになっていた。
人々は、冬に備えて食べ物を蓄え始めていた。
魚を捕る者は、潮の動きを見ながら網を入れ、獲物を干す者は、風の通り道を選んで魚を並べる。塩を作る者は、晴れた日を選んで海水を集め、火を絶やさぬよう土器を見守っていた。
その日、海辺の邑には、マヒロの舟が戻っていた。
舟には、島から届いた貝飾りと赤い土、木の実、そして遠い土地から託された品が積まれていた。
だが、マヒロの顔には、いつもの明るさがなかった。
「どうしたのだ?」
トヨが尋ねた。
マヒロは舟の荷を降ろしながら、海の向こうを見た。
「海で、妙なことがあった」
「嵐か?」
「嵐もあった。だが、それだけではない」
マヒロは、少し間を置いて話し始めた。
「島と島の間を進んでいたとき、後ろから別の舟が近づいてきた。こちらが速さを落とすと、向こうも止まる。こちらが進めば、同じように進む」
「何をしていたのだ?」
「分からぬ。だが、こちらの荷を見ていたように思う」
カガの表情が変わった。
「荷を狙っていたのかもしれぬな」
「そうかもしれない。舟には三人の男が乗っていた。顔を隠すように布を巻き、声をかけても答えなかった」
「襲ってきたのか?」
「そのときは、何もしてこなかった。だが、しばらくして風が強くなり、こちらは嵐を避けるため島の陰へ向かった。その舟は、いつの間にか見えなくなっていた」
トヨは腕を組んだ。
「海を渡る者が増えれば、荷を奪おうとする者も出てくる」
「そうだ。今まで、海の道は互いに助け合う者たちによって守られてきた。だが、皆がそうとは限らぬ」
カガは、浜に並べられた荷を見た。
塩、貝、赤い土、翡翠。
それらは、誰かの手間と時間を重ねて作られたものだ。
その品を奪う者が現れれば、品だけでなく、人々の暮らしまで傷つけることになる。
*
その夜、アシナとミヤは海辺の住まいで、マヒロから遠い土地の話を聞いていた。
マヒロは、旅の途中で出会った人々について語った。
大きな川のほとりに住む者たちは、広い水辺で魚を捕り、湿った土地に稲を育てていたという。舟を使って川を行き来し、木や石、食べ物を運んでいる。
「その土地にも、翡翠を欲しがる者がいるのか?」
アシナが尋ねた。
「ああ。緑の石を持つ者は、身につけるだけでなく、祭りのときに捧げることもあると聞いた」
「どんな形を望んでいる?」
「それは、まだ分からぬ。だが、緑の石を持つ者が遠くから来たと聞けば、一度見てみたいと言う者はいるだろう」
ミヤは、荷の中にあった小さな翡翠を手に取った。
「石を見たことのない人に、どのように伝えればよいのかしら」
「見せればよい」
アシナが答えた。
「石の色も、手触りも、言葉だけでは伝わらぬ」
「そうね」
ミヤは微笑んだ。
「だから、私たちが直接届けたいの」
そのとき、マヒロが静かに言った。
「だが、次の旅は慎重にせねばならぬ。海の道に、荷を狙う者が現れた」
「その者たちは、どこから来たのだ?」
「分からぬ。島の者たちも、まだ知らぬと言っていた」
アシナは、火の向こうに見えるマヒロの顔を見た。
「もし、また現れたら?」
「逃げる。戦うために舟を出すのではない。荷を失っても、命を失ってはならぬ」
マヒロの言葉は、静かだった。
「海の上では、強い者が勝つとは限らぬ。波に呑まれれば、力のある者も戻れない」
*
数日後、マヒロの舟は再び海へ出ることになった。
今度は、島を経由して、その先にある大きな川の土地へ向かう予定だった。
積み荷には、塩、干した魚、翡翠の原石、加工途中の石、完成した勾玉がある。
また、島のサヤから預かった貝飾りもあった。
カガは荷の一つひとつを確かめ、濡れぬよう獣皮で包んだ。
「重すぎぬか?」
トヨが尋ねた。
「重さは大丈夫だ。だが、舟の片側に荷が寄らぬようにしたい。波を受けたとき、舟が傾きすぎる」
マヒロは、荷の位置を確かめた。
「水と食べ物は、すぐ手の届くところへ置く。火を起こす道具も濡らしてはならぬ」
アシナは、舟の縁に結びつけた植物繊維の綱を調べた。
ミヤは、翡翠の包みを胸元の袋へ入れた。
出発前、ナギが浜へやって来た。
「今度は、どこまで行くの?」
「島のさらに向こうだ」
「大きな川のある土地?」
「ああ」
「そこにも、子供たちはいる?」
「いるだろうな」
「どんな子たちかしら」
「それは、会ってみなければ分からぬ」
アシナが答えると、ナギは少し考えた。
「私たちと同じように、走ったり、笑ったり、食べ物を取り合ったりするのかな」
「きっとそうだ」
「なら、仲良くなれるとよいね」
アシナは妹の頭に手を置いた。
「ああ。そうなるとよいな」
*
舟は、朝の潮に乗って浜を離れた。
初めの二日は、海も穏やかだった。
マヒロは、島影を見失わぬように進み、トヨは櫂を動かして舟の向きを保った。アシナは、海の色や鳥の飛ぶ方向を覚えようと、周囲をよく見ていた。
ミヤは、波の動きに合わせて身体の力を抜き、舟の揺れに慣れていった。
昼になると、マヒロは太陽の位置を確かめた。
夜になると、星を見て進む向きを定めた。
「星は、山の谷から見るときと同じなのね」
ミヤが言った。
「ああ。海の上でも、星は変わらぬ」
マヒロは空を見上げた。
「ただ、雲が出れば星は隠れる。月が見えぬ夜もある。そんなときは、風や潮、波の向きを頼りにする」
「それでも、進むのか?」
アシナが尋ねた。
「無理はせぬ。島が見えなくなり、空も見えず、潮の流れも分からぬなら、舟を進めるのをやめることもある」
「海の上で止まるのか?」
「風が許せばな。だが、舟は大地のようにじっとしてはくれぬ。だから、どこかに身を寄せられる場所を探す」
マヒロは、遠くの雲を見た。
「海を渡る者は、行く道だけでなく、戻る道と逃げる場所も知っておかねばならぬ」
*
三日目の午後、風の匂いが変わった。
トヨが櫂を止め、空を見上げた。
「西から雲が来る」
海の向こうに、黒い雲が広がり始めていた。
マヒロは、島影を探した。
「このままでは、夜になる前に島へ着けぬ」
「近くに、舟を寄せられる場所はあるか?」
トヨが尋ねた。
「北のほうに小さな島がある。だが、周りに岩が多い。波が高くなれば、近づくのは危うい」
カガは荷を確かめた。
「戻ることはできぬか?」
「今の潮では、戻るより島へ向かうほうがよい」
マヒロは、舟の向きを変えた。
「櫂を強く動かせ。雲が来る前に、少しでも島へ近づく」
皆が櫂を手にした。
アシナも力を込めて水を押した。
舟は波を越えながら進んだ。
やがて、風が強くなった。
波の間隔が短くなり、舟の底を何度も叩くようになった。
海の色は、昼間の青から、暗い灰色へと変わっていった。
「荷を確かめろ!」
マヒロが叫んだ。
カガは獣皮の包みを押さえ、ミヤは翡翠の袋を胸元へ抱き寄せた。
次の瞬間、舟が大きく傾いた。
白い波が舷側を越え、舟の中へ流れ込んできた。
「水を出せ!」
トヨが叫ぶ。
アシナは、くり抜いた木の器を手に取り、舟に入った水をかき出した。
ミヤも器を手にして水を外へ捨てた。
波が舟を持ち上げる。
落ちる。
また持ち上げる。
そのたびに、舟の中の荷が動いた。
「翡翠が!」
ミヤの声がした。
包みが濡れた床を滑り、舟の縁へ向かっていた。
アシナは身を伸ばし、片手で舟の縁をつかみながら、もう一方の手で包みを押さえた。
「つかまえた!」
その瞬間、別の波が舟にぶつかった。
アシナの身体が横へ流される。
「アシナ!」
トヨが腕を伸ばし、彼の腰をつかんだ。
アシナは、なんとか舟の中央へ戻った。
「石は無事か?」
ミヤが尋ねた。
「ああ。だが、もう少しで海へ落ちるところだった」
「石より、あなたの命のほうが大切よ」
ミヤは震える声で言った。
アシナは、彼女の目を見てうなずいた。
「分かっている」
その言葉を聞き、マヒロが叫んだ。
「荷は捨ててもよい! 人を守れ! 舟を傾けるものは、すぐに海へ出せ!」
カガは一瞬、荷を見た。
その中には、長い時間をかけて作られた塩や干し魚、遠い土地へ届ける翡翠がある。
だが、マヒロの言葉に迷いはなかった。
カガは荷を縛る綱を確かめ、崩れた包みを舟の中央へ寄せた。
「人が先だ!」
トヨが叫んだ。
「舟が沈めば、何も残らぬ!」
*
嵐は、夜になっても収まらなかった。
空は厚い雲に覆われ、星は一つも見えない。
月の光もなく、周囲は黒い海に沈んでいた。
波が舟を持ち上げるたび、遠くから地鳴りのような音が聞こえてくる。
海鳴りだった。
波が海底の地形や岩場にぶつかり、低く長い音を響かせている。
アシナは、舟の縁にしがみつきながら、暗闇を見つめた。
山で嵐に遭ったことはある。
だが、海では逃げる場所が見えない。
どちらへ向かえば岸があるのかも分からず、ただ波の力に身を任せるしかないように思えた。
「マヒロ!」
アシナが声を張り上げた。
「島はどちらだ!」
「分からぬ! 今は波に逆らうな!」
マヒロは、舟の向きを少しずつ整えようとしていた。
「波を横から受ければ、舟がひっくり返る! 波の向きを見て、舟の先を合わせるのだ!」
トヨが櫂を使い、舟の向きを調整する。
アシナも櫂を握った。
だが、風と波は思うようにならない。
舟は、まるで巨大な生き物の背に乗せられた小さな木の葉のようだった。
そのとき、ミヤが叫んだ。
「向こうに光が見える!」
皆が目を向けた。
暗闇の中に、かすかな光が揺れていた。
一つ、また一つ。
島の浜に焚かれた火だった。
「島だ!」
マヒロが叫んだ。
「だが、あの光の近くには岩がある。真っすぐ入れば舟が砕ける!」
「どうする?」
カガが尋ねた。
「北へ回る。岩の少ない浜があるはずだ!」
マヒロは、波の間から見える島の輪郭を探した。
トヨが櫂を動かし、アシナも力を込める。
何度も波を越え、舟は少しずつ島へ近づいた。
やがて、波の勢いがわずかに弱まった。
島の陰に入ったのだ。
「もう少しだ!」
マヒロが叫んだ。
舟は、波に押されながら砂浜へ向かった。
船底が砂に触れた。
トヨが飛び降り、舟を引き寄せる。
アシナとカガも海へ入り、舟を押した。
膝まで水に浸かりながら、三人は舟を波の届かぬ場所へ運んだ。
ようやく舟が止まったとき、誰もすぐには声を出せなかった。
皆、ただ荒い息を吐いていた。
*
浜には、島の人々が集まっていた。
先頭に立っていたのは、ナツだった。
「マヒロ! よく戻った!」
「助かった。浜の火が見えた」
「今夜は大きな風が来ると、年寄りが言っていた。舟が来るかもしれぬと思い、火を焚いていたのだ」
ナツは、アシナたちの肩を支えた。
「皆、無事か?」
「ああ。荷は少し濡れたが、人は皆無事だ」
マヒロはそう答えた。
島の人々は、すぐに火を焚き、濡れた衣や獣皮を乾かす場所を作った。
温めた水が配られ、木の実や干した魚が出された。
サヤも駆け寄ってきた。
「ミヤ、無事だったのね」
「ええ。あなたの貝も、濡れずに済んだわ」
ミヤは胸元の袋を見せた。
サヤは安心したように笑った。
「貝のことは、もうよいのよ。あなたたちが無事でよかった」
その言葉に、ミヤはサヤの手を握った。
夜が深まるころ、嵐は少しずつ遠ざかっていった。
浜の火は、雨に濡れた人々の顔を照らしていた。
*
翌朝、海は昨日とは別の顔を見せていた。
波はまだ高く、浜には折れた枝や海藻が打ち上げられている。
マヒロの舟は無事だったが、側面の板に傷がつき、舟底にも小さな裂け目が見つかった。
トヨと島の舟造りの者たちは、修理を始めた。
傷の周りを確かめ、木片を合わせ、植物繊維を詰め、樹脂で隙間を塞ぐ。
舟を作ることと同じように、直すことにも熟練した手が必要だった。
「舟は、傷んだら終わりではない」
トヨが言った。
「どこが傷んだかを見て、木を合わせ、綱を締め直す。大切なのは、海へ出る前に確かめることだ」
アシナは、舟底の傷を見つめた。
「山の道具も同じだ。石斧の柄が緩めば直す。弓の弦が傷めば替える。使い続けるには、手入れがいる」
「舟も道具も、手をかけた分だけ長く働いてくれる」
トヨは、傷ついた木をそっと撫でた。
*
昼過ぎ、マヒロはナツと話をしていた。
「昨日のような嵐は、よく来るのか?」
「秋には、ときどきある。空が急に暗くなり、風が変わる。海鳴りが遠くから聞こえることもある」
「それを知る者はいるか?」
「年寄りたちがよく知っている。雲の形や風の匂い、鳥の飛び方を見て、海が荒れる前に舟を上げる」
マヒロは、うなずいた。
「その知恵を、海を渡る者にも伝えてほしい」
「もちろんだ。だが、海の様子は年によって違う。昨日と同じ空でも、同じ波になるとは限らぬ」
ナツは、浜辺に座る若者たちを見た。
「海の道を渡る者は、いつも学ばねばならぬ。年寄りの言葉を聞き、失敗した者の話を聞き、自分の目で確かめるのだ」
そのとき、島の若者が一人、浜から駆けてきた。
「ナツ! 北の浜に、見知らぬ舟がいる!」
ナツの表情が変わった。
「どんな舟だ?」
「三人乗っている。こちらの舟ではない。荷を隠すようにして、岩陰に止まっている」
マヒロは、すぐに立ち上がった。
「その舟は、どんな形をしている?」
「舳先が高く、黒い木で作られている。舟の横に、赤い布が結ばれていた」
マヒロの顔が険しくなった。
「それは、私の後ろを追ってきた舟かもしれぬ」
*
ナツは、島の若者たちを呼び集めた。
だが、武器を持って北の浜へ押しかけることはしなかった。
「まず、何をしているのか確かめる。向こうが何もしてこぬなら、こちらから争いを始める必要はない」
そう言って、数人の者とともに浜へ向かった。
アシナとマヒロも同行した。
北の浜へ着くと、岩陰に一艘の舟が見えた。
舟には、三人の男が乗っていた。
そのうちの一人が、こちらに気づいて立ち上がった。
「何をしている?」
ナツが声をかけた。
男は答えず、舟の中に置かれた荷を隠すようにした。
マヒロが一歩前へ出た。
「お前たちは、以前、私の舟の後ろを進んでいた者か?」
男は、マヒロを見た。
「知らぬ」
「ならば、なぜ荷を隠す?」
「我らの荷だ。何を積もうと勝手だろう」
「それはそうだ。だが、この浜は人々が暮らす場所だ。何も言わずに荷を隠し、舟を止めるのはなぜだ?」
男は黙っていた。
やがて、舟の奥から別の男が出てきた。
その男の首には、青銅の飾りがあった。
シラトと同じような形だった。
「緑の石を運んでいると聞いた」
男は言った。
「その石を見せてもらおう」
「誰に聞いた?」
マヒロが尋ねた。
「海を渡る者たちの間で、話が広がっている。山の奥に、美しい緑の石があるそうだな」
アシナは男の顔を見た。
「石を見たいだけなら、話をすればよい。隠れて舟を追う必要はない」
「話をしても、石を渡さぬ者がいる」
「だから奪うのか?」
男は、わずかに笑った。
「奪うとは言っていない。欲しいものを手に入れるだけだ」
ナツが静かに言った。
「欲しいものがあるなら、相手に尋ねよ。互いに渡せるものがあれば、取り交わせばよい」
「それでは、手に入るものが少ない」
「少なくても、皆が食べていける」
ナツは、男の目を見た。
「奪えば、奪われた者はお前を憎む。次に会ったとき、今度はお前が奪われるかもしれぬ。そんな道を作って、何が残る?」
男は答えなかった。
しばらくして、三人は舟に乗り、北の浜を離れていった。
ナツは、彼らを追わなかった。
「今は、帰らせてよい」
そう言ったあと、マヒロへ向き直った。
「だが、また来るかもしれぬ」
「ああ」
マヒロは海を見つめた。
「翡翠の名が広がるほど、こうした者も増えるだろう」
*
その夜、島の火のそばで、アシナはミヤと並んで座っていた。
ミヤは、胸元から翡翠の飾りを取り出した。
白い筋の入った緑の石は、火の光を受けて静かに輝いている。
「この石を欲しがる人が、これからもっと増えるのね」
「そうかもしれない」
「欲しがってくれるのは、うれしいわ。私たちの手で磨いたものを、美しいと思ってくれる人がいるのだから」
「だが、奪おうとする者もいる」
「ええ」
ミヤは石を包み直した。
「それでも、石を磨くことをやめたくはないわ」
アシナは、彼女の手を握った。
「俺もだ。山で石を見つけることをやめたくない」
「ならば、これからも一緒に守っていきましょう」
火の向こうでは、ナツとマヒロが海の道について話し合っていた。
島々の間には、すでに幾つもの舟の道がある。
それらをつなぎ、遠い土地へ翡翠を届けることはできるだろう。
だが、その道を誰か一人が支配しようとすれば、人々の間に争いが生まれる。
海は、誰のものでもない。
山もまた、誰か一人のものではない。
人が生きるために自然から恵みを受け、その恵みを分け合うことができれば、遠い土地同士も結ばれる。
アシナは、浜へ出た。
夜の海は暗く、波の音だけが聞こえている。
遠くの空には、雲の切れ間から星が見え始めていた。
あの星の下には、まだ見ぬ土地がある。
その土地にも、火を囲む人々がいる。
緑の石を待つ者がいる。
そして、石を奪おうとする者もいるのかもしれない。
アシナは、海を見つめながら思った。
人と人を結ぶ道は、舟だけでは作れない。
相手を思い、分け合おうとする心がなければ、どれほど立派な舟を作っても、その道は長く続かない。
その夜、島の人々は、浜の火をいつもより長く焚き続けた。
嵐に傷ついた舟を守るため。
遠くから来る旅人を迎えるため。
そして、海の向こうにいる誰かが、いつかこの浜へたどり着けるように。
波は、夜の闇の中で静かに寄せては返していた。
けれど、その波の向こうでは、翡翠をめぐる新たな欲望が、少しずつ形を持ち始めていた。
第二巻 第五部 了
次回予告
第六部「遠い川の王 ― 緑の石を求める者」
嵐を越えたマヒロたちは、島の人々の助けを受けて舟を修理し、再び海へ出る。
目指すのは、さらに遠くにある大きな川の土地。
そこでは、稲を蓄え、青銅の飾りを身につけた有力者が、人々を集め始めていた。
彼は、緑の石をただの飾りとは見ていなかった。
遠い山から届く翡翠を手に入れることが、自らの力を示す道になると考えていたのである。
山の谷から始まった小さな緑の輝きは、ついに遠い土地の有力者たちの目に留まろうとしていた。




