第四部 貝の道、緑の道 ― 遠い浜に届く勾玉
海から戻った朝、ヌナの邑には、山から吹き下ろす風が清らかに満ちていた。
アシナたちが海辺の邑へ帰り着いたのは、島を出て二日目の夕暮れだった。舟は波に揺られながらも無事に浜へたどり着き、マヒロとトヨは、積み荷を確かめてから舟を引き上げた。
浜では、ナギが待っていた。
「帰ってきた!」
ナギは駆け寄り、アシナの腕をつかんだ。
「島はどうだった? 海の向こうには、どんな人がいたの?」
「たくさんの人がいた。魚を捕り、貝を磨き、赤い土で身を飾る人たちだ」
「食べ物は?」
「それもたくさん見たぞ」
「おいしいものはあった?」
「それを一番に聞くのか」
アシナが笑うと、ナギは少しも悪びれずにうなずいた。
「だって、遠い島の食べ物は、まだ食べたことがないもの」
ミヤは、ナギの手を取った。
「貝を焼いたものや、海藻を使った食べ物があったわ。木の実の食べ方も、こちらとは少し違っていたの」
「私も見てみたいな」
「いつかね。海を渡るのは、急いではいけないわ」
ナギは、アシナの腰に結ばれた袋を見つけた。
「それは何?」
「島の友だちからもらった貝だ」
アシナが袋を開くと、淡い桃色の貝殻が現れた。
ナギは目を輝かせた。
「まあ、きれい!」
「サヤという女が、ミヤにくれたものだ」
「ミヤ姉の友だち?」
「そうよ。海の向こうにできた友だち」
ミヤは貝殻を光にかざした。
その内側には、朝露を含んだ花びらのような、柔らかな光が宿っていた。
「この貝を見ると、あの島の浜辺を思い出すわ」
ミヤはそう言って、胸元にそっとしまった。
*
数日後、ミヤはヌナの邑の住まいの前に、小さな作業場を整えた。
屋根の下には、磨き砂を入れた器、水を張った土器、石を削るための道具、細い穴を開けるための石錐が並んでいる。
その中央には、マヒロから預かった翡翠が置かれていた。
ミヤは、まず石を洗った。
表面に付いた土を落とし、乾いた草で水を拭う。次に、石をいくつかの方向から眺めた。
緑の濃い部分と白い筋が入り交じっている。
光にかざすと、白い筋は薄雲のように浮かび上がり、深い緑は森の奥の水たまりを思わせた。
「この石は、どんな形にするの?」
アシナが尋ねた。
「持ち主が望んでいるのは、身につけられる飾りだそうよ。でも、どんな形にするかは、石を見てから決めたいの」
「勾玉にはしないのか?」
「勾玉にできるわ。ただ、この白い筋を生かしたいの。無理に曲げた形にするより、石の美しいところを残したい」
ミヤは石を両手で包んだ。
「石は、どこを削っても同じではないわ。深く削れば緑が現れるところもあれば、白い筋が途切れてしまうところもある。だから、先に形を決めてしまわないの」
アシナは、ミヤの横顔を見つめた。
彼女が石を見つめるとき、その瞳にはいつも静かな熱が宿る。
「山で石を見つけるのは俺だが、石の美しさを見つけるのはお前だな」
「あなたが見つけてくれなければ、私の手には届かない石もあるわ」
ミヤは微笑み、磨き始めた。
粗い砂を使って、石の表面を少しずつ削る。
石を水で湿らせ、磨き石を一定の方向へ動かす。削り屑が水に混じり、器の底へ沈んでいく。
力を入れすぎず、同じところばかりを削らず、石全体の形を確かめながら進める。
やがて、石の角が取れ、なめらかな曲線が生まれてきた。
ミヤは、そこからさらに細かな砂へ移った。
粗い砂で形を整え、少し細かな砂で傷を消し、最後は細かな磨き砂で表面を滑らかにする。
磨くたびに、石の色が深くなっていく。
それは、谷の水が澄み、底に沈む緑の石が見えてくるような変化だった。
*
数日が過ぎた。
ミヤは、翡翠の形を整え終えた。
それは、完全な勾玉ではなかった。
白い筋を残した、少し丸みのある雫形の飾りだった。片側には厚みを残し、もう片側を細く整えている。
穴を開ける作業は、さらに慎重を要した。
石錐を用い、水を少しずつ注ぎながら、片側からゆっくりと穴を開けていく。急げば石にひびが入る。力を入れすぎれば、石錐が滑って表面を傷つけてしまう。
ミヤは何度も手を止め、石の状態を確かめた。
ようやく穴が通ったとき、彼女は長く息を吐いた。
「できたわ」
アシナがそばへ寄った。
翡翠は、朝の光を受けて静かに輝いていた。
白い筋は、石の中央を流れる細い川のように見える。緑の部分は深く澄み、磨かれた表面には柔らかな光が宿っていた。
「美しいな」
「この白い筋を残せてよかった」
「遠い島の人も、きっと喜ぶだろう」
「喜んでくれるとよいわね」
ミヤは飾りを植物繊維の紐に通した。
紐には、島のサヤからもらった貝の小片を一つ添えた。
「これも一緒に渡したいの」
「サヤの貝か?」
「ええ。石を磨いている間、あの島のことを思い出していたの。だから、この飾りにも、島の浜辺の思い出を少し結んでおきたい」
アシナは、その飾りを見つめた。
山の石と海の貝。
それは、遠く離れた二つの土地が、一つの紐で結ばれた姿だった。
*
海辺の邑では、カガが新しい取り交わしの品を並べていた。
塩を入れた編み袋、干した魚、磨かれた貝飾り、赤い顔料、丈夫な植物繊維の綱、そして翡翠の原石や加工途中の石。
カガは、品ごとに分けながら、トヨとハルに話していた。
「これからは、島へ渡るたびに、同じものばかりを運ばぬほうがよい」
「なぜだ?」
トヨが尋ねた。
「島の者たちが何を欲しがっているか、毎回確かめるのだ。塩を多く求めるときもあれば、翡翠を欲しがるときもある。貝や赤い土を求める者もいる」
ハルは塩袋を手に取った。
「塩は、こちらの浜でも作るのに手間がかかる。むやみに渡してしまえば、こちらの暮らしが苦しくなる」
「その通りだ」
カガはうなずいた。
「だから、何をどれほど渡すかは、皆で考えねばならぬ。塩を作る者、魚を捕る者、舟を作る者、それぞれが食べていけるようにするのだ」
「翡翠はどうする?」
アシナが尋ねた。
「原石を欲しがる者には原石を渡す。自分の土地で石を磨きたい者には、形を整えた途中の石を渡してもよい。美しい飾りを身につけたい者には、ミヤが作った完成品を渡す」
「三つの姿を、分けて運ぶのだな」
「ああ。原石は重く、形も整っていない。加工途中の石は、石を磨く者の手に渡せる。完成した勾玉は、すぐに身につけられる。求める者によって、渡すものも変わる」
トヨは、並べられた翡翠を見た。
「山で採った石が、こんなにも遠くへ行くのか」
「山だけではない。海辺の塩も、島の貝も、遠い土地の木も、互いに行き来するようになる」
カガは、少し離れた海を見つめた。
「だが、道が広がれば、そこへ集まるものを欲しがる者も増える」
「欲しがることは悪いことではないだろう」
トヨが言った。
「そうだ。欲しいと思うことは悪くない。だが、他人の手から奪い、自分だけのものにしようとする者が出れば、道は人を結ぶものではなくなる」
カガの表情が曇った。
彼の頭には、第一巻の終わりに現れたタケルの姿が浮かんでいた。
稲や塩、遠い土地から届く珍しい品を集め、若者たちを従えようとする男。
あの男が海の道を知れば、何を考えるだろうか。
*
そのころ、海辺の邑に一人の旅人がやって来た。
名はシラト。
年は三十を少し越えたほど。背は高く、細身で、長い旅で日に焼けた顔をしていた。腰には獣皮の袋を下げ、首には見慣れぬ形の青銅の小さな飾りをつけている。
彼はカガの前に立つと、浜に並べられた品を眺めた。
「ここには、山の緑の石があると聞いた」
「ある」
カガは答えた。
「どこから来た?」
「越の山辺だ。谷を流れる川のそばで見つかる」
「その石を、誰が持っている?」
「山で拾う者もいれば、磨く者もいる。山の恵みを一人で囲う者はいない」
シラトは、少し笑った。
「遠い土地では、そうはいかぬ。よい石を見つけた者は、そこを自分のものにしたがる。道を知る者は、通る者から品を取ろうとする」
「ここでも、そうしたがる者はいる」
「ならば、私と組まぬか」
シラトは、カガへ近づいた。
「私は、海の向こうの大きな川の土地を知っている。そこには、緑の石を欲しがる者がいる。美しい飾りを求める者も、珍しい品を集める者もいる」
「何を渡してくれる?」
「青銅の飾り、赤い顔料、珍しい貝。それに、遠い土地の品を持つ者たちを紹介できる」
「その代わり、何を望む?」
「翡翠を多く集めてほしい。山から出る石を、私に渡してほしい」
カガは、すぐには答えなかった。
「山の石は、山に住む者たちのものだ。私一人が渡すと決めることはできぬ」
「ならば、山の者に話をつければよい」
「話をすることはできる。だが、石を独り占めする約束はできぬ」
シラトの目がわずかに細くなった。
「欲のない者だな」
「欲はある。私にも、よい品を手に入れたい気持ちはある。だが、道を閉ざしてまで欲しいとは思わぬ」
シラトはしばらくカガを見つめた。
やがて、首の青銅飾りを指で弾いた。
小さな音が鳴った。
「では、別の者を探すことにしよう」
そう言って、彼は浜を去っていった。
カガは、その背中を長く見送っていた。
*
その夜、アシナたちは浜辺の火を囲んでいた。
シラトの話を聞いたトヨは、眉を寄せた。
「翡翠をたくさん集めたいというのは、どういうことだ?」
「自分の手元に集め、遠くの者へ渡すつもりなのだろう」
カガが答えた。
「それなら、交易をする者としては珍しくない」
「だが、彼は山の石を自分だけのものにしたがっているようだった」
アシナが言った。
「山には、石を拾う者も、磨く者もいる。皆が使う道を、一人のものにしてよいはずがない」
ミヤは、火の明かりの中で、完成した翡翠の飾りを手にしていた。
「石は、手にした者だけのものではないわ。見つけた人がいて、磨いた人がいて、運んだ人がいて、受け取る人がいる。たくさんの手を通って、ようやく誰かの胸元に届くのだから」
「それでも、奪おうとする者は現れる」
カガは静かに言った。
「遠くへ届く品は、欲しがる者を増やす。塩も、翡翠も、青銅も同じだ。品が増えれば、道を押さえたい者も出てくる」
火の向こうで、マヒロが口を開いた。
「海にも、そういう者はいる。舟を何艘も持ち、浜を自分のもののように扱う者もいる。通る舟から荷を取り、逆らえば海へ出させぬという者もいる」
「そんなことをすれば、海を渡る者はいなくなる」
トヨが言った。
「だから、浜を守る者たちがいる。互いに助け合い、困った舟を見れば浜へ引き上げる。海は広い。誰か一人がすべてを支配することはできぬ」
アシナは、火に薪を足した。
炎が明るくなり、皆の顔を照らした。
「山のゴウザも、同じことを言っていた。山を傷めず、必要な分だけ採る。石を一人のものにしてはならぬ、と」
「ならば、その教えを海にも広げればよい」
ミヤが言った。
「山の石も、海の塩も、島の貝も、皆の暮らしを支えるもの。誰かが欲しがったとき、奪い合うのではなく、互いに話して分け合える道を残したいわ」
その言葉に、カガはうなずいた。
「そのためにも、遠い土地の人々と、顔を合わせて話すことが大切だ。知らぬ者同士だから、奪うことを考える。互いの顔を知り、家族のことを知れば、簡単には傷つけられなくなる」
*
数日後、マヒロの舟は再び海へ出ることになった。
今度は、島のナツへ渡す塩と、サヤへ届ける翡翠の飾りを積む。
ミヤは、完成した飾りを小さな編み袋に収めた。
その隣には、別の品も並べられている。
形を整えたばかりの翡翠が二つ。
山で採れたままの原石が三つ。
それぞれ、どのような手を求めるかによって分けられていた。
「この原石は、遠い土地の玉造りの者に渡すのね」
アシナが尋ねた。
「ええ。自分の手で形を作りたい人もいるでしょう。途中まで形を整えた石なら、仕上げだけをしたい人もいるかもしれない」
「完成したものだけが大切なのではないのだな」
「そうよ。作る手にも、それぞれの喜びがあるわ」
ミヤは、完成した飾りを光にかざした。
緑の石には、白い筋が静かに浮かんでいる。
その紐には、島のサヤから贈られた貝の小片が添えられていた。
「この飾りは、サヤのもとへ届けるのか?」
「いいえ。サヤには、もう一つ別のものを届けるつもり。これは、遠い川の土地で、緑の石を待つ人へ渡すものよ」
「なぜ、サヤに渡さない?」
「サヤには、私が磨いた小さな翡翠を渡したでしょう。あれは、友だちになったしるし。これは、まだ会ったことのない誰かに届けるもの。石に込める願いも違うの」
アシナは、うなずいた。
同じ翡翠でも、誰に渡すかによって、その意味は変わる。
山で拾った石が、誰かの胸元で大切な飾りになる。
その飾りを見た人が、また別の石を欲しがるかもしれない。
そうして、石は人から人へ渡っていく。
*
舟が浜を離れる日、ナギは再び見送りに来ていた。
「今度は、私も乗せてくれる?」
ナギが尋ねた。
「もう少し海の道を知ってからだな」
マヒロが答えた。
「どうすれば、海の道を知ることができるの?」
「まずは、浜で潮を見ることだ。満ちるとき、引くとき、どちらへ流れるか。風が変わる前には空がどうなるか。鳥はどこへ飛ぶか。よく見て覚えるのだ」
「それなら、今日から見ているわ」
ナギは海を見つめた。
「いつか、私も遠い島へ行く」
「その日が来たら、よい舟を用意しておこう」
マヒロは笑った。
舟には塩、干した魚、翡翠の原石、加工途中の石、完成した飾りが積まれている。
それぞれが、異なる土地の誰かへ届けられる品だった。
アシナは、舟の縁に手を置いた。
海は広く、まだ見ぬ島は多い。
その向こうには、翡翠を知らぬ人々もいるだろう。塩を十分に作れぬ人々もいるだろう。貝を磨き、赤い土を集め、木を削りながら暮らす人々もいる。
その人々に、いつかこの石が届く。
そして、遠い土地の恵みも、こちらへやって来る。
だが、道が広がるほど、その道を自分だけのものにしようとする者も現れる。
アシナは、遠ざかる浜を見つめながら思った。
山の恵みを守ること。
海の道を守ること。
そして、そこに生きる人々の暮らしを守ること。
それは、石を磨くことと同じように、急がず、根気よく続けていかねばならない仕事なのだ。
舟は、潮に乗って進んでいく。
その先には、まだ見ぬ人々と、まだ見ぬ願いが待っていた。
第二巻 第四部 了
次回予告
第五部「海鳴りの夜 ― 舟を襲う黒い波」
翡翠と塩を積んだマヒロの舟は、島々を結ぶ新たな道を進む。
しかし、海の道が広がるにつれ、荷を狙う者たちの姿も見え始める。
嵐の前触れを見逃した舟は、暗い海で大きな波に翻弄される。積み荷を守るべきか、仲間の命を守るべきか――アシナたちは厳しい選択を迫られる。
そして、海の向こうから届いた一つの知らせが、翡翠の交易をめぐる新たな争いの始まりを告げる。




